三章『ウソとマコトで荒稼ぎ』 3‐5


「……さっきは馬鹿なんていって、すみませんでした」



 書籍販売ギルドの男が帰ってから、しばらく後。

 ずっとバツの悪い顔をしていたノエだったが、夕食が終わり、お茶をすすりながら一息ついていると、唐突に謝ってきた。

 ……まさか『馬鹿』と思わず叫んだことを謝られるとは思っていなかった辰己は、ちょっと驚く。



「いや、俺もわりと口が軽くなってたから、馬鹿って言われてもおかしくないと思うよ。ノエの実家を勝手にかけたようなものだし……」


「……それについては後で両親と……それから王様にも相談してみます。ただ、法律でそう決まっているものは流石に動かしようがないかも……」



 悲しそうな顔をするノエだったが、すぐにその表情を引っ込める。

 そして真剣な表情を、まっすぐに、辰己に向けてきた。



「それよりも、です。

タツミくん、もう一度説明させてもらいますが、私たちの世界では『決闘』というのは最大限の怒りの表現に当たります。普通、決闘を挑まれた場合には自身の落ち度を顧みて、謝罪することが一般的です。どうしても納得いかない時だけ、それを最後の解決方法として、戦うんです」


「うん、それで?」


「……それでも戦うっていうんですか? 今回の事、私にも失敗はありました。大丈夫だと思っていましたから。今から謝れば、いくらかお金はとられることになりますけど、これ以上相手を怒らせなくていいんですよ? 素直に謝れば、相手も、法律上で定められた金額をとるようなことはしないと思いますし……」



 ノエの言葉に、辰己は久しぶりに、この世界の住人との感覚の隔絶を感じた。

 善意で成り立った世界。互いに譲り合う世界。互いに思いやり、怒りを伝えられたならば自身を顧み、相手の努力が見て取れたなら怒っていたはずの相手も矛を収める。



「素晴らしい世界だぜ、本当に」


「タツミくん……?」



 辰己は、口元が歪むのを止められなかった。そんなタツミを見て、ノエは何を思ったのだろうか? どう、感じたのだろうか?

 驚いたような――あるいは、脅えたような様子で、少しだけ、体を引く。


 その反応を見て、辰己は『正しい』と思った。

 それが辰己に対する、辰己の本性に対する、正常な反応だ。

 今までがおかしかった。辰己というあからさまな異物に対してまでも、普通に、善意を持って、接してくれているなんて。

 おかしかったのだ。

 全て、全て。

 だから――辰己は、この世界であったことすべてを振り切るように、言葉を吐き出していく。



「ノエ。俺はなにがあっても戦うし、どんな手段を使ってでも勝つよ。確かに謝れば許してくれるだろうし、互いに許しあって軟着陸できるところを見つけあえるかもしれない」



 なら、とノエがわずかに瞳に希望を取り戻す。

 だが、それを、辰己は踏みにじる。



「けど、それじゃダメだ。俺は別の世界の――地球の、日本の、人間だから。欲深い人間だから、そんなものじゃ納得できない」


「納得……って。なら、どうすれば、タツミくんは」


「可能な限りの全てを、手に入れる。そうして初めて俺は、納得できる」


「可能な限りの……全て?」


「そうだよ。俺の世界の人間は、だれだってきっとそうだ。手の届く範囲の全てを、手に入れたいって思ってる。金が欲しい。美味しいものが食いたい。可愛い女と付き合いたい。かっこよくなりたい。可愛くなりたい。もっと頭が良くなりたい。運動が出来るようになりたい。有名になりたい。褒められたい。もっと、もっと、もっと――」



 人の欲に限りはない。

 だが。

 辰己は知っている。自分の手の届く場所を、もう知ってしまっている。

 芦屋辰己の人生の限界を、とっくのとうに理解してしまっている。

 もっと愚かなら、理解できなかっただろうに。

 もっと賢かったなら、限界を超えられただろうに。

 だけどどっちもないから、辰己は『せめて』と願う。

 その願いも完全には叶えられないかもしれないけれど。

 せめて。

 せめて、確実に手の届く範囲のものだけは。



「『こんな俺の手にすら届くもの』は、誰にも渡さない。俺の願いはちっぽけだ。俺の欲は浅い。浅ましいんだよ、俺は。浅ましいから、愚かだから、この願いだけは絶対に……譲らない」



 拳を握り込み、鬼気迫る辰己の言葉の重みに気圧された様子で、ノエは息を呑んだ。

 だが、流石善人というべきか。

 それでもノエは、辰己の心に寄り添おうとしてくれる。



「タツミくんの願いは……わかりました。……いえ、本当は、なにも……理解出来ていないのかもしれないけど」


「そうだろうね。この世界の人間に、俺の願いは分からない……いや」



 言い方を変える。

 この世界の人間に、ではない。



「出来のいい『善人』に、ゴミみたいな能力しか持って生まれなかった、悪人(クズ)の願いは分からない」



 辰己はクズを自認する。

 けど、自身を悪人とは思わない。だって、悪人になりうるような才能すらないのだから。

 だから辰己はただのクズ。

 質の悪い硬貨を悪貨と呼ぶように――出来の悪い、ただの悪人(クズ)なのだ。

 だが、そんなクズの辰己に、ノエは呼びかける。



「その生き方は、辛いはずです……だって、苦しい顔をしてます、今のタツミくんは。そんなに顔をしかめて、無理に笑って。そんなに苦しんでまで……人に嫌な思いをさせてまで……するべき生き方なんですか?」


「それは違うよ、ノエ。俺の生き方は絶対に間違ってる。こんな生き方止めるべきだ」


「なら――」


「けど、俺は、こうやって生きていないと何も手に入れられないんだよ!」



 自分の口から思ったよりも大きな声が出たことに、辰己自身も驚く。

 だが一度勢いづいた言葉は、心は、勝手に口から出て行ってしまう。



「ノエの言うことはわかる。止めるべきだ。けど止めたらどうなると思う? 俺の世界で、俺はただ他人よりも劣った、他人に使われて、役に立たないと罵られて、なにも手に入らないだけの人生を送るのは目に見えてる!」


「でも……でも! この世界にいる間くらいは! 私たちの世界は……っ」


「ああ、そうだな、この世界なら、違ったかもしれない。この世界の人間は優しい、善良だ、クズで役立たずなままの俺でも、卑怯な手を使わず何の結果も出せない俺でも、許して受け入れてくれたのかもしれない」



 瞳に涙を浮かべるノエ。

 辰己のことを、辰己の今後の人生を、本気で想ってくれているのだろう。

 それでも、辰己は言う。

 これだけは、曲げられないから、言うしかない。



「けどな、忘れるなよ、俺はノエとは別の世界で育ってるんだ。……気を抜きすぎた。ぬるま湯に浸かり過ぎた。このまま帰ったら、俺はあっちの世界で、世界そのものに潰される」


「世界に潰される……?」



 意味を理解できずに居るノエに、辰己は皮肉気な笑みを浮かべて言う。



「俺の世界はずっと争い続けてる。小さなことから大きなことまで、毎日毎日、人間は争って生きている。知力、体力、コミュ力、フォロワー数、有名人と友達か、教師に気に入られてるか、雑誌に載ったことがあるか、賞をとったことがあるか。さっき言っただろ、欲に限りが無いって。欲に限りが無いってことは、争いにも限りが無いってことなんだよ」


「争いに、限りがない……?」



 信じられない、とノエは目を見開く。

 実際、辰己にも信じられないことではある。まだ社会人にもなっていない辰己の回りにすら数えきれない争いが満ちていて、少し調べれば世界中が争いだらけなのがわかってしまう世界。

 獣だけの世界でも、数日に一度は争いの起こらない日があるだろうに。



「……そんな世界で生きていくには、たとえ卑怯な手を使っても、自分が生存出来るだけの勝利を掴み続けなきゃならないんだ。生き方は変えられない。苦しくても……俺は、俺の世界で、生きていくために」



 ノエが、涙をこらえながら、何かをのみこむ。

 辰己に対して、言いたいことが山ほどあったに違いない。

 あるいは、辰己の言葉はノエの中に初めての悪意のようなものを芽生えさせたかもしれない。

 だけど、ノエは善良だから、それらを全て飲み込んで、優しい眼差しを辰己に向けて、心に手を差し伸べてくれる。



「……私たちの世界に、来ませんか? 王様だって、あなたの真剣な想いを聞けば、こっちに移住することをきっと許してくれます。私も、頭を下げて、頼みます。だから」



 ノエが手を差し出してくる。

 どうか握って欲しいと、切な願いを、瞳にこめながら。



「私は、タツミくんに、そんなに苦しんでいてほしくない――」



 ――なんて優しいんだろうと、辰己は泣きそうになった。

 だけどその優しさが、善良さが、辰己を苦しめる。

 だって辰己は……救われる価値なんてないと、自分を評価するから。



「ああ……」



 だけど、と。

 もしかしたら、と。

 辰己は手を伸ばす。熱のこもった時を吐き出しながら、胸をかきむしりたくなるような想いを内に秘めながら。

 差し出されたノエの手に、自分の手を近づけて。

 そして、バシン、と。

 勢いよく、払った。



「勘違いしてるな、ノエ。俺は……この世界の人間にだってコンプレックスを持ってるんだ」


「え……あ……え……?」



 見開かれたノエの瞳が揺れる。

 ぽろりと、涙がこぼれる。

 逆に、辰己は口元から笑みを消した。

 笑えるものなんて、もうなにもない。

 自分自身の愚かさも。ここまでくれば流石に笑えない。



「善良すぎて反吐が出る。俺がもしこの世界に定住したら、きっといつか滅茶苦茶にすると思うよ」


「――――っ!」



 ノエは椅子を蹴り飛ばして立ち上がると、自分の部屋から荷物をひっつかみ、そのまま家を出て行った。

 それを見送りもせず、辰己は椅子に座ったまま、虚空を見つめていた。

いつも、体面に座っていた、ノエのことを思い出し。その温かな言葉を思い出しながら。



「……失敗、したなぁ」



辰己はなんであそこまで自分のことを話してしまったのだろうかと少し後悔する。

この世界の人間が善良なのがいけないのだ。

誰もかれも、優しすぎて。

特にノエは、勘違いするほどに優しくて。

現実世界で腐れきった辰己の存在も、その全ても、許されるかもしれないと思ったのだ。



「馬鹿だなぁ……俺。わかってるのに……俺の人間の底なんて見えたら、こんな風になるの、わかってるのにさぁ……」



 ゆっくりと、辰己はテーブルに突っ伏した。

 そして、辰己はしばらくの間、『馬鹿だなぁ』と自分のことを何度も罵倒していた。

 そこにぐずぐずとした水音混じるまで、そう時間はかからなかった……


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