そこにあるのは誰かの話

武蔵-弁慶

第1話

『在宅勤務のお知らせ』

そんな文面のメールを見つめた。


最近流行りのウイルスは、想像以上にヤバいものだったらしく、テレビもネットもなんもかんも、全部その話題で持ちきりだ。有名アーティストのライブは中止、親族の死に目にも会えない。飲食店は相次いで営業を自粛して、中には倒産した所も。マスクや消毒液なんかは市場から姿を消し、外国じゃ都市封鎖や医療崩壊なんてことも起きているらしい。

そして今、この国も外出の自粛や、行動の制限なんてのもかけられて。


「在宅でのお仕事、ねぇ……」


会社から送られたメールをスライドして文面を読む。社会の情勢が、国の要請が、なんてのを放っておいて要するに、お家でお仕事をしてくださいというもの。


「了解です」


俺の言葉はメールになって、見知らぬ社員に送信された。




さて、在宅勤務。

働く引きこもりだ。

パソコンを立ち上げて、送られてきた仕事内容を確認する。基本がデスクワークの俺だ。あまり内容は変わらない。ただ、場所がオフィスじゃないだけ。

この会社に勤務することになって引っ越したワンルーム。そこそこの広さと、備え付けのキッチンの使い勝手がいいところが魅力の物件。食べること以外は基本的にズボラな俺には、これぐらいの広さが丁度いい。

コーヒーメーカーで淹れたコーヒー片手に、俺は業務に取り掛かる。


「暇、だ」


一通りの仕事が終わってしまった。お昼を食べることも、休憩を取ることもなく仕事をした為だろう。壁掛け時計はまだ昼の三時を指している。会社でも、こんな勤務を続ければ早く帰れるのだろうか。いや、こんな働き方をしては、ブラック企業と訴えられるに違いない。

会社にメールを送って、俺は床に横たわった。

腹が減ったが、何も食べる気にならない。食欲のピークを過ぎれば、人間なんてこんなもの。夕食が一段と美味しく食べられそうだから、これはこれで良しとする。

寝そべった位置から視線を上に向けると、本棚。


「……」


起き上がって一冊を手に取る。大学時代によく読んだ一冊。

そういえば、俺は私立文系大学の出身で、しかも文学部なんてとこを卒業してる訳で。今はともかく、昔、それこそ小学生の頃なんかは『小説家になりたい!』なんて思っていたりして。

パラパラとページをめくる。巻末に筆者のインタビューが載っていた。そういえば、これはこの作者のデビュー作だった。


『昔から本が好きで、読んでいました。書きたいと思うようになったのはサラリーマン時代です。当時、担当していた仕事に嫌気が差してしまいまして……。息抜きに、ペンを取りました。自分の中にあるモヤモヤをぶつける為ですね。どうしてこうなった、どうすればよかったのか。それを書いていたら、いつのまにか文字の中には僕とは全く別の人が別の場所で同じ苦しみや葛藤を抱いてもがいていました。どうすれば彼を幸せにできるのか、彼にとっての幸せとは、そもそも、幸せとは何か。

考えれば考えるほど難しくて、自分の苦しみなんてどっか行っちゃいました。で、そのまま書き続けて……。この本になったって感じです。』


なるほど。作者の実体験がこの本の元となっているのか。

しがないサラリーマンが仕事やプライベートで苦しみぬいた末に、ようやく自分の幸せに気がつく。そんな話だった。

あぁ、それなら、もしかして。


「俺にも書けたりして」


適当なコピー用紙を手に取った。手近なペンを構える。

書き出しはどうしよう。ストーリーは。そもそも、何を書くのか。


「まぁ、なんでもいいでしょ」


『在宅勤務のお知らせ』

そんな文面のメールを受け取った。


これは、俺の物語。だけど、そこにいるのは俺じゃない。俺じゃない誰かの物語。

俺の中にいるあの頃の俺が笑いかける。

『小説家になるのが夢なんだ!』

きっと、俺はそうはなれない。だけど、でも。


「書いてみるってのもいいだろう」


ワンルームに散らばる紙。そこにはきっと、ここじゃないどこかの誰かが生きている。俺はここにいながらも、彼の生活の平穏を祈って。

そして、俺はペンを持つ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

そこにあるのは誰かの話 武蔵-弁慶 @musashibo-benkei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る