れもん

青木はじめ

れもん

 僕はひとりだった。

 実家は大層なものであったが、分家の末っ子である僕は何にも期待もされず、ほぼ全て放任されていた。

 僕は、独りだった。

 そんな時だった。宗家に新しく子が産まれると知らされたのは。初めて聞いた時は、「ああ、かわいそうに。あの家で生きていくんだ」と思い、母となった跡継ぎの叔母さんに会いに行くのも、無の感情で大人達について行った。

 何ヶ月だろう。大きくなったお腹を見て、ぼんやり思った。部屋の隅でやんややんやと騒ぐ大人達の群れを遠目から見ている僕に何を思ったのか、叔母さんが僕を手招いた。おずおずと近寄ると、サバサバした性格の叔母さんには似つかわしくない、聞いたことの無いような柔らかな声で「触ってご覧」と自身の膨らんだお腹をさすった。正直、触っていいものかと躊躇した。この中に赤ちゃんがいるというのに、そんな気軽に、僕みたいなのが触れてもいいのだろうか。黙っている僕に、叔母さんはくすりと笑って「大丈夫。壊れたりなんかしないわよ」とおかしそうに目尻を下げた。

 ほんの少し、手が震える。赤ちゃんなんて未知の生き物だ。それでいて、常に誰かの手を借りていなければ生きられない小さな存在。軽く、お腹に触れた。

 驚いた。僕が触れるのを待っていたかのように、応えるように、とくんと掌に何かが揺れた。命の鼓動だ。とくん、とくんとまるで挨拶をするように続けて動く小さな命。守らなきゃいけない。

 はた、とずっと他人のお腹に手を当てている自分に気付き、慌てて手を離すと叔母さんがまたくすりと笑って、これから生涯忘れないであろう言葉を紡いだ。

 

「とーや!」

 先日降った雪の残る道の上で自身の名を呼ばれた。

「今日こそ遊べるんだろうな!?」

 自分でいうのもなんだが、八方美人である僕は「友人」が多い。その中でも特に仲のいい友人二人が、校舎から出たばかりの僕を引き留めた。だが、それも無駄だ。

「ごめん……今日は無理」

「はあ!?」

「ちょっと……」

 激昂する友人とそれを止める友人。見ていて飽きない。この中学校に入ってから三年近く僕と仲良くしてくれている大切な存在だ。しかし、今日ばかりは、否、これからは優先順位を変えさせてもらう。

「いいよ。行きな、とーや」

「ありがとう」

 振り返りながらお礼を言うとまた後ろで何やら文句を叫ぶ声が聞こえたが、これはもう仕方の無いことだ。

「おい!とーや!いつになったら遊べるんだよ!」

 その声に頬が緩む。

「大人になってから!」

「はあ!?」

「もう諦めなよ……仕方ないよ、だって今日は……」

 

 小走りだった足を更に速める。心が、いてもたってもいられないとばかりに鼓動を加速させた。まるであの日のようだ。決して遅くはないはずの足が重たく遅く感じるくらいに、目的地までの距離がもどかしい。ああ、早く会いたい。予定ではもう産まれているはずだ。

 マラソン大会より遥かに速いスピードで辿り着いた先には立派な門構えの屋敷がある。そのままの速さで玄関までの階段を駆け抜ける。

「っわ!!」

「え!?」

 階段の最後の一段に躓き、顔面から地面にダイブしてしまった。たまたま近くにいた親戚のお姉さんが驚いているのが視界の端に写る。だが、痛みに少し経ってから、また立ち上がり、走る。横目にお姉さんの目を見開いた顔が見えた。

「……あの子、あんな顔出来たのね」

 走る。ひた走る。本来は大人に見つかったら庭に放り出されるであろう。鼓動が早鐘の如く鳴り止まない。早く。早く。

 ねえ、小さい頃誓ったんだ。何も無い僕だけど、もし、もしも「守りたいもの」が現れたら、僕の全てを捧げようと。

 だから、ねえ、早く顔を見せてよ。

 あの日叔母さんに言われた言葉が脳裏を駆ける。

『貴方が守ってあげなさい』

 声が聞こえる。喉の奥が熱い。

『大丈夫。誰より優しい貴方だもの。立派なナイトになれるわ』

 叔母さんの微笑みが目に写り、その手には、

「ようこそ。はじめまして」

 生まれてはじめて、温かな涙がこぼれた。

 

 ***

 

 あれから数年経ち、高校では育児書や子育て帳等を学校で読んでいたせいか、同級生からは「とうやパパ」と呼ばれるようになっていた。

 今やあの子も大きくなり、意思疎通も難無くこなせるが、今までが長かったようなあっという間だったような。子育ては十代半ばの少年がやるものではないなと思った事も一度や二度ではない。苦労も多かったし今でも大変な時はあるが、あの子を思えば、姿を見れば、全てなんてことの無いものになる。実の兄でもないが、あの子の母であり、父であり、兄でいられることが何よりの幸せであった。

 まさか産まれたての幼子を、忙しい叔母さんの代わりに世話をすることになるとは思いもしなかったが、告げられた時は、ひたすらに嬉しかった。ただ、それだけだった。

 帰りのホームルームが終わると即保育園へ直行する。今年でもう子育て歴三年になるが、毎日が新しい日だ。あの子は同年代の子と比べると大人しすぎるくらいで時々心配になるが、それも個性だ。好きなものには目を輝かせるし、嫌なものには体を縮こませるだけで充分だと僕は思う。

 大変な日々ではあるが、幸福な日々だ。何も無い僕を「僕」にしてくれた。これを幸福と言わず何というのか。しかし、最近宗家がざわつきはじめているのが少し気にかかる。言わずもがな「跡継ぎ問題」だろう。詳しくは分からないが、あの子の物心がついてきてから家がピリピリしはじめた。大人達の探るような冷たい視線があの子に付きまとっている。その度に、「守らなければ」と小さなあの子を抱きしめた。感情豊かではないあの子はぽけーっとされるがままだが、小さい手で僕の服をきゅっと安心したように握る。聡い子だ。己がどの立場にいるのか、周りにどう思われているのか、幼いながらに分かっていたのかもしれない。

 そんな毎日が続いたある日、僕は思いついた。否、今まで考えては無理だとやめていたことだ。だがしかし、足りないものがある。資金だ。その一点が僕らをこの地へ留めていた。そうして計画をくすぶらせて一年、思わぬことが起きた。実父の死だ。分家とはいえそれなりの裕福な家庭を築かせていた大黒柱への思い入れは正直、無い。三番目に産まれた僕を使えない駒のように見限った実父への恩など、残された遺産への感謝くらいしか浮かばなかった。三男の僕に渡る財産など足しになるだろうかと思ったが、高校生の手には余りまくるくらいの財産を渡された。それを手にしてすぐ思ったのが、あの子のことだった。これで、あの子をこの鳥籠から逃げさせてあげられる。

 

 それから時は瞬く間に流れた。まず退学届を出し、大人達に邪魔されないよう、準備を進めていった。あの子のために、僕の全てを使っていることがとてつもなく幸せだった。多幸感に満ちていた。

 そしてとある初夏の日。僕らは鳥籠から抜け出した。十七歳になったばかりの、とても涼しい日だった。

 空港のロビーで暫く食べられないであろうおにぎりを二人で頬張っていると、待ち望んでいたアナウンスが流れてきた。急がず、慌てず、食べかけのおにぎりをしまって鞄を持つと、くい、と服の裾が引っ張られる感覚。小さな、愛しい手が僕を呼んでいた。

「大丈夫。僕がずっと一緒にいるからね」

 頭の中ではあの日、叔母さんに言われたことと。はじめてこの子に会った日のことが駆け巡っていた。

 これから僕がすることは良くないことなのかもしれない。この小さな愛し子が傷付いてしまうかもしれない。不安は数えきれない程あった。それでも、

『僕はナイト。この子を命を懸けて守る』

 守りたいと思わずにはいられないんだ。

 

 格安が売りの機内に、ぐす、ぐす、と耐えきれずといったような泣き声が響き、僕は慌てて幼子を抱いた。不安なのか、小さく小さく泣き続ける幼い存在の背中をぽんぽん。と叩き「大丈夫、大丈夫。お兄ちゃんがいるからね。怖いものなんて無いからね」と呟くように囁いた。数分宥めていたら、まだ泣き止まぬ幼子にと、隣に座っていたラテン系の男性が一口サイズのチョコレートを二つくれた。もう一つは僕に、だろうか、僕を指さしてにっこりと笑った。

「チョコ、食べる?」

 小さな声で問うと、小さな存在は腕の中でこくりと頷いた。

 到着まであと少し。目的地は海を超えて、ドイツ。数年前、宗家から勘当された遠い親戚にあたるお兄さんが住んでいる場所だ。勘当される前から良くしてもらっている僕は、計画を進めるにあたり、直ぐに、お兄さんに連絡をとった。返事は直ぐに来た。「そろそろ引っ越そうと思っている。今の家なら安いし、家賃くらい出すよ。おいで」ときた。渡りに船だ。お兄さんとは現地の空港で待ち合わせている。お土産とお礼に、お兄さんが好きだったヒヨコがトレードマークの蒸しケーキを用意した。喜んでくれるだろうか。そろそろ、到着だ。

「よく来たね、とうやくん」

 到着したと、ロビーでメールすると、すぐさま返信が来て「ここにいるよ」と待ち合わせ場所を指定されたため、指定の目印の案内板まで小さな手ともう片方の手には大きなトランクやバッグを持って辿り着くと、黒のジャケットがよく似合う美丈夫が人波をかき分けてやってきた。僕が口を開く前に彼は幼子に目をやり、

「それと……この子が例の子?」

 珍しいものや可愛いものが好きなお兄さんは幼女を珍しいもののようにまじまじと見る。それにビクリと反応し、僕にひっつく姿は可愛らしいどころじゃない。

「そうです。つかさ、といいます」

 へえ。と何故か目を輝かせながらつかさちゃんを見る成人男性はどこか危うい。知り合いでなければ通報レベルだ。

「可愛いね。何歳?」

「四歳です」

 よっぽど気に入ったのか、ポケットからお菓子をいくつか出してつかさちゃんの気を引こうとしているが、ここで人見知り発動。ぴったし、と僕について離れなくなってしまった。じわじわと優越感が湧いてくる。この子のナイトは僕だけだ。十数分攻防を続けていたら本気で幼女を泣かせそうになり、お兄さんは慌てて「じゃあ行こうか」とタクシー乗り場を指さした。

「家までだいぶあるから、疲れたら言うんだぞ」

 先程までロリコンまっしぐらだった男性には見えない台詞を聞きながらタクシーに乗り込む。そこで、僕は一番に言いそびれた言葉を慌てて口にした。その声はひどく震えていて、言葉になっていたかも分からない。しかしお兄さんは気にしないといったようにひとつ笑って、

「幸せに生きよう。な、とうやくん、つかさちゃん」

 

 空港からタクシーで約三時間。「そろそろだよ」という声に窓を見やると絵本で見たような風景が流れていた。その時、ずっと下を向いていた自分に気付いた。僕の膝の上でうとうとしていたつかさちゃんも目を向けるが、座高の問題で見えなかったらしく、伸ばした首を縮こませた。ふと、とあう建造物が目に入り、思わず声が漏れた。

「あ、」

「気になる?あれは音楽堂だよ」

 こじんまりとしているけれど、綺麗だろう。とお兄さんは続けて、

「とうやくんはピアノとか弾けたよね、たしか」

 毎週何曜日か無料開放してるから行ってみるといいよ。と繋げた。

 小学校に入る前から習っていたピアノ。実父から見限られても唯一続けさせてくれた「音楽」。指が、体が、「弾きたい」「奏でたい」と疼いた。

「さ、着いたよ」

 タクシーがとまった先には、なだらかな坂があり、助手席から降りたお兄さんはすぐ近くの小さな、赤い屋根の縦長の建物を指さし、

「これが君たちの城だ」

 と高らかに言った。

 一目で古い、とわかるアパートへ着いた僕たちの最初の仕事は、掃除だった。これで「これから引っ越す」などとよく言えたものだと言いたいくらいの乱雑した部屋に、まず呆けた。

 しかし掃除洗濯、家事……はまだ得意ではないが、掃除は得意と言ってもいい程度のスキルを持っているため、腕まくりをして城の掃除を開始した。

 幸いだったのが、生ゴミが少なかったこと。物はほとんどが捨てる物だった事により、日が暮れる前にはあらかた片付いた。そろそろ夕飯の買い出しに行った二人が帰ってくる。掃除中はどうしてもつかさちゃんの面倒を見れないため、仕方なく異国の地案内ツアー(お兄さんは使い物にならない)へ二人を行かせたが、正直心配しかない。人見知り発動したつかさちゃんがロリコン(仮)と共に出かけるなんて……どこかで泣いてないだろうか。寂しがっていないだろうか。と、掃除中も考えては頭を抱えた。来た時とは見間違うくらい綺麗になったリビングの真ん中で箒を握りしめる。

「ただいま〜」

 扉の向こうから、開くのと同時に待ち望んだ声がし、史上最高速度で音の方へ首を回した。

「見て見て、大収穫。これでご馳走つく……」

「つかさちゃん!大丈夫だった!?」

 手に持っていた箒を放り投げて、玄関ドアへ駆け寄った。

「変な人に声掛けられなかった!?お兄さんに変な事されなかった!?ニヤニヤ見つめられなかった!?」

「え、ちょっと失礼じゃない?」

 幼女の柔い肩を抱いてそうまくしたてると、つかさちゃんは一拍おいて、へにゃ、と笑った。かわいい。

「ほれほれ、ご飯にするから箒片してー」

 大きな紙袋を片手に抱えたお兄さんが、つかさちゃんと繋いでいた手を離して「しっしっ」といったように手を振った。お兄さんの手を離したつかさちゃんがピト、と僕にくっついてくる。少し打ち解けたように見えたけど、やっぱり不安だったのかな。うん、かわいい。

 放り捨てた箒を持って、つかさちゃんを片腕で抱っこしてリビングへ戻る。そうだ、この人は料理人だった。ごろごろと紙袋から出てくる食材達の中には見慣れない物も多数ある。これらがどう調理されていくのか楽しみである。

 お兄さんがタブーとされている勘当をされた理由は知らない。僕から見たら、どうしてこんないい人が縁を切られなきゃならないのか全くわからない。お兄さんは、しばらく僕達の様子を見に来てくれるという。家事も教えてくれるそうだが、そこはあまり期待しないでおこう。本当に、こんないい人がどうして。と、つかさちゃんを抱っこしたまま窓の外をぼんやり見ていると、

「音楽堂が気になる?」

「あ、いや……」

「いいんだよ、素直に言っても」

 ここにはまだ味方はいないが、敵もいない。とお兄さんは近付いてきて、質素なテーブルにコトン、と小さな鍋を置いた。ポタージュだろうか。ほんのり甘い香りがする。

 先程見かけた建物が気にならないといえば嘘になる。だが今思っていた事とは違っていて、否と言っていいのかまごついていると、

「吉報。いいこと教えてあげようか」

 ニヤついた顔がずずいと近寄ってきたので思わず引くと、背中に窓が当たった。日が暮れはじめ、つかさちゃんの丸い頬がオレンジに照らされる。

「清掃員募集だってさ」

 一瞬、ぽかんとしてしまった。その顔を見たからか、お兄さんはくくっとひとつ笑って「音楽堂の清掃員だよ」と付け足した。

「え……」

「誰だって好きな物の近くに居たいだろう」

 それを邪魔する権利なんて、誰も持ち合わせちゃあいない。呟くように言葉にしたお兄さんが、ひどく寂しそうに見えた。テーブルに置かれた鍋が影を伸ばして、まるで僕達に歩み寄ろうとする何かのように、僕達の反対側へ影を大きくしていった。

 

『清掃員?いいよ!』

「え、えーと……?」

「OKだってさ」

 高校で軽く習っただけのドイツ語を脳内でフル回転させて、どうにか働かせてくれないかと身振り手振りもまじえて音楽堂の管理人に話をつけると(困った時用のお兄さんも連れて)何事も無くOKをもらえた。給料は決していいとは言えないが、やりくりしていけばなんとかなるだろう。これで少し前へ進める。しかし、ここで一番心配なのは仕事中のつかさちゃんだ。今はお兄さんがいるからいいが、今後は家に一人にすると思うと心配で内臓的な物が鼻から出てきそうだ。

「とうやくん、とうやくん」

「……っへ?」

 阿呆みたいな声が出てしまった。僕が一人でうんうんつかさちゃんの今後を考えている間に何やら話が進んでいたらしい。そんな僕に苦笑して、お兄さんはこう言った。

「つかさちゃん、休憩室であずかってもいいよ、だって」

「!!!」

 神よ。一度も頼りにした事のない神よ。ありがとう。

「ダンケシェーン!!!」

 思わず管理人に抱きついた。この御恩。決して忘れぬ。

 こうしてはじまった、タイムリミット付きの逃避行。今だけは幸いと、酔わせてほしい。

 

 音楽堂で働きはじめてからは、慣れない土地と言葉でアタフタしていたが。お兄さんの引越し先が落ち着くまで、数週間はご飯を作りに来てくれたり、逆に僕がご飯や家事をしている間つかさちゃんの面倒を見てくれている。ちなみに料理はお兄さん直伝だ。最近はお菓子作りも教えてくれて、とても助かる。つかさちゃんに美味しいおやつ食べさせたい。そんなこんなで数週間が経ち、玄関先でお兄さんが「そのうちまた来るよ」と笑った。小さくて大きな別れに、あっという間の思い出を感じさせた。空気を察知したのか、ぐずりだしたつかさちゃんを抱っこして、僕は心からの感謝を言葉にした。

「本当に、ありがとうございました」

 震える声でそう言うと、お兄さんはバツが悪そうにまた笑って僕の頭をわしゃわしゃと撫でた。

 その後のお兄さんを僕は知らない。

 単に忙しいだけなのか、何か意図的な物があるのかわからないが、ただ一つ言える事、つかさちゃんは僕が守らなければならない。今までもこれからも、それは何一つ変わらない事だ。例えばお兄さんがもし亡くなっていたとしても、僕はかなしさにひたってはいられない。僕は小さな愛子のナイトなのだから。

 音楽堂での仕事はただの掃除だけだったが、心地よかった。他のスタッフは優しいし、何より仕事中に聴こえる音達、余韻にひたる、観客達を見るのも楽しかった。その気持ちはいつの日か「僕も奏でたい」というものに変わっていった。

 肌寒い夜の事、晩御飯を食べ終わり、食器を洗いおえてから、何となしにズボンのポケットに触れるといつもは空のポケットに違和感を覚えた。手を突っ込むと、冷たい何かが入っている。そこで僕の記憶は一瞬で今日の夕方まで遡ると同時に血の気が引いていく感覚で満たされた。しまった。音楽堂の鍵を持ってきてしまった。いつもはメインスタッフである管理人が管理している鍵だが、今日は子供が熱を出したらしく、日が暮れる前に帰宅してしまい、その場にたまたま居合わせた僕が「戸締りしたら管理人室に戻しておきますよ」と安請け負いし、任務をまっとうできなかったというわけだ。ああ、情けない。シンプルに今から戻しに行けばいい。だけどちょっと夜道怖い。などとうんうん考えていたら余計に戻しづらくなる。僕は手遊びしていたつかさちゃんの手をぎゅっと握りしめ、立ち上がった。

「つ、つかさちゃん。夜のデート、行こうか……」

 尻すぼみになっていったお誘いに、つかさちゃんは一瞬ぽかんとしてから、無表情で頷いた。

 僕らが住む町は決して都会ではない。かといって田舎でもないのどかな町だ。そののどかな町も夜には角からゾンビが出てきそうな町へと変わる。歩いて五分程の道のりでも、おばけシュミレートしながらだと何時間にも感じる。無意識に繋いでいる手に少し力を込めると、一拍おいて小さく握り返された。それだけで夜道がバージンロードのように思えてくる。そうか、やはり僕は君のために生まれてきたんだ。

 夜のバージンロードを歩き、辿り着いた先は、頼りない街灯に照らされ、おどろおどろしく変わり果てた音楽堂だった。普通に怖い。B級ホラー映画の舞台のような建物の前に立って、ふと思ってしまった。

『今なら弾けるのではないだろうか』

 小さな音楽堂は、外へと繋がる重い扉を開けばすぐにホールとなっている。鍵一つで事足りる。そわそわじわじわと、背徳感が背筋を撫でる。

「ねぇ、つかさちゃん」

 周りには人は全く居らず、人通りもほぼ無い。

「悪い事をするお兄ちゃんを嫌いにならないでね」

 重厚な扉がギイと音をたてて開く。

 暗いホールに電気をつけて、まっすぐステージへ向かう。握った手はそのままに。心臓が急かすようにドキドキと鳴り止まない。脇の階段からステージへあがる。コンクールに出た事はない僕にとっては夢のような光景だ。黒光りする立派なグランドピアノが僕を誘うように視界に入ってくる。狂ったメトロノームのようにけたたましく鳴り続ける鼓動はまるでオーディエンスだ。ピアノに触れる。そうすると、『奏でたい』気持ちが大波のように押し寄せてきた。そこからの記憶は曖昧だ。程良く滑りにくい鍵盤、ペダルで左右する呼吸のように僕は奏でた。膝に乗せたつかさちゃんが落ちないように、僕がはじめて覚えた『アヴェ・マリア』を弾き続けた。

 どれくらい経っただろう。十数分、数十分かもしれない。興奮で少々乱れた呼吸で最後の音を奏で終えた次の瞬間、拍手の音が少し離れた場所から聞こえた。サーッと音を立てるが如く冷や汗が全身に流れる。

『素敵だね、君のアヴェ・マリア』

 触れたら消えそうな淡い金糸の髪に、宝石のような緑色の瞳。演奏後の余韻もあり、天使が現れたのかと思った。

 突然の天使登場と、一度冷や汗はひいたが、他人に見られた事は変わらない。

 どうしよう。見られた。そりゃそうだ。このホールはあまり防音性が良いとは言えない。近隣の住民なら家で聞こえてもなんらおかしくはない。夜中に勝手にピアノに触った=管理人にバレる=死。という計算式がチーンッと音をたてて脳内に確立された。ああ、どうしよう。

『……ねぇ、』

 突然また話しかけられて、更にパニックになる僕に対して、天使は再び口を開いた。

『もう一度、聴かせてよ』

 それが始まりだった。

 特に次会う日など示し合わせていない。時々、管理人の帰りが早い時に音楽堂に忍び込んではたまに顔を合わせて、僕が弾き、男性とも女性とも見える、おそらく声的に少年であろう彼が歌う。毎回約束はしなかった。名前も住んでいるところも知らず、まさしく「また会う日まで」といったように別れた。そんな日がしばらく続いた。今思えばとても幸福な日々だったのだと思う。一通のメールが来るまでは。

 

 指に絡みつく滑らかな鍵盤を思い出し、リビングのテーブルでエアピアノを奏でていると、携帯電話が鳴っていると、つかさちゃんがマナーモードのそれを持ってきてくれた。ありがとう、と受け取ってメールを開くと、どきり、だけでは形容出来ない程の戦慄が体中を駆け抜けた。そのメールは叔母さんからの一言、「元気でいるか」という内容だったが、僕にはカウントダウンがはじまった、と思った。この城での生活は、長くは続かない。あの家から逃げなければ。携帯電話を持つ手に無意識に力が入り、手の中の物がミシッと小さく音を立てた。心許ないといったように僕を見つめるつかさちゃんに言う。

「大丈夫だよ。お兄ちゃんがいるからね」

 三日後、思い出の詰まったアパートを空にして、つかさちゃんの手を握り、城をあとにした。

 

「前より狭いけど、居心地は悪くないね」

 一人言のように、つかさちゃんに言い聞かせるように、言葉にした。何か言わないと、挫けそうだったから。日も明けきらぬ早朝に前のアパートから出て、途中で遅い朝ごはんを食べて、ちょうど昼についたおんぼろアパート。着いた頃にはつかさちゃんも僕も疲れ果てていた。一休みしたらごはんにしよう、と備え付けの簡素なベッドに二人で寝そべる。

 これからどうしたらいいんだろう。この世界で僕らは二人ぼっちだ。枕に埋めた頭の中を嫌な言葉が駆け巡る。「三男だから役に立たない」「期待する価値もない」「不要な子」。

 全て聞こえていた。全て意味もわかっていた。僕は独りだった。だが今は違う。僕はつかさちゃんのナイトだ。誰にも譲れない。その時らはたと気付いてしまった。未来が見えてしまった。僕が生きているのは何故だ?つかさちゃんのためだ。どうして異国の地まで逃げてきたんだ?つかさちゃんのためだ。何のために家事を覚えた?つかさちゃんのためだ。誰のために?

 ガラスにヒビが入ったような音が一つして、それは徐々に広がっていった。

 ー僕のためだ。

 逃げたがっていたのも、自立したかったのも、自分だ。たしかにつかさちゃんありきではあるが、それで全て納得がいく。涙が止まらない。泣かないで。と僕の頬につかさちゃんが触れる。つかさちゃんを理由にただあの家から遠ざかりたかっただけなんだ。僕一人でも幼子と生きていけるぞと、僕を捨てた大人達に見せつけたかったんだ。換気のために開けた窓から、柑橘系の果実の香りがする。季節的にレモンだろうか。僕には酸っぱくて苦くて手が出せない。涙がレモンの香りに包まれた。

 

 そこから時は早く流れた。つかさちゃんが五歳になろうとしていた冬のこと。半年程前から届くようになったエアメールは十通を超えた。とっくに覚悟はしていた。僕だけではつかさちゃんをこれ以上養えないと、わかっていた。だからまだギリギリ高校生であろう、小さい頃たまに遊んだ従兄弟の青年にメールを送った。彼は勇敢な青年だ。きっとこの子の味方になるであろうと。

「ね、つかさちゃん」

 朝ごはんの食器を片付けて、リビングの椅子に座って足をぶらぶらと遊ばせている幼女に声をかける。……大きくなったな。

「これからオシャレして、デートしようか」

 空元気だ。つかさちゃんは気付いているのかもしれない。今までは頷くだけだった幼子が「うん」と返した。

 以前住んでいた町よりはほんの少し都会なこの町では、しょっちゅうバザールをやっている。見てまわるだけでも楽しい。淡いスカイブルーの可愛らしいリボンとフリルがついたワンピースを引っ張り出して、僕は先日買ったばかりのジャケットを羽織る。手は勿論、ぎゅっと繋いで、家を出た。

 出店で焼きたてのクーヘンを買ったり、ちょっとお値段のするカフェでお茶したり、お土産にマドレーヌをもらったたりして、食べてばかりだったが、気が付くと日も暮れかけてきていた。最後にと夕陽の見える公園で一休みする事にする。

「……たのしかったね」

 どきりと心臓が跳ねた。普段から口数の少ないつかさちゃんが「これから」を読んだように呟いた。

「うん……うん」

 つかさちゃんと繋いだ手とは反対の手を強く強く握りしめた。そうしていないとこの手を離せない気がしたから。

 翌日、僕はつかさちゃんの前から姿を消した。

 

 凍えそうなドイツの十二月の夜明け前。二人で作ったカレンダーの前に一枚だけ手紙を残して部屋を出た。眠っているつかさちゃんの顔は見れなかった。手紙の内容は、数時間後にアパートへ来るであろう青年への言伝て、メッセージを一文だけ書いた。ああ、寒いなあ。冷風が容赦なくコートの中へ入ってくる。歩こう。今はただ歩こう。進んでいる方向が前でなくとも、今は進もう。本当は他人の力など借りたくなかった。自分のこの手でつかさちゃんを学校に通わせてあげたかった。でも、力が足りなかった。あの家の力を、思い知らされた。結局僕は独りだ。大人にはなれなかった。ナイトには、なれなかった。うまく息が出来なくて、嗚咽が漏れる。朝日が昇る。メッセージに綴った言葉が頭をよぎった。

『My Dear.きみは たからもの』

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れもん 青木はじめ @hajime_aoki

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