第伍話
庭に面した板張りの廊下を歩いてゆくと、直ぐ正面に、
『治療室』と書かれた札が出ていた。
『先生、お連れしました』
先に立って案内していた割烹着姿の女性がドアをノックする。
『おう』
ドアの向こうから素っ気ない返事が返って来た。
ノブを回し、彼女が開けてくれたその先は、窓から一杯の陽射しが射しこんでいる、俺が想像していたよりはずっと清潔な、洋風の部屋だった。
一番奥に診察用と思われるベッドがあり、手前に木製の机と事務用のひじ掛け椅子と、丸い回転式の患者用の椅子があった。
窓の桟のすぐ上には、額に入った、
『柔道整復師免許』
『鍼灸師免許』
が並べて掲げられてある。
肘掛椅子に座って、机に向かって書類に何か記入していた”ミヤモト・ムサシ”氏は、俺が懐から
『お久しぶりです。先輩』と、ぶっきらぼうだが、丁寧な口調で言い、丁寧なお辞儀をする。
容貌はマーガレットの言った通り、紺色の作務衣のような着物の上に、白衣を一枚、無造作に羽織っている。
『久しぶり、雲居三曹』
俺は少し照れ臭かったが、鼻の頭を掻いて彼の言葉に答える。
無口で偏屈な癖に、時折あんまり笑えない冗談を口にする。
空挺に来た時には既に燦然と『格闘徽章』が輝いていた。
『誠に申し訳ございませんが・・・・』
俺の話を聞き終わり、先ほどの女性(現在接骨の専門学校に通っている、いわばインターンみたいなものだそうだ)が運んできてくれたコーヒーを啜ると、雲居君は静かな声でそう告げた。
『私は一介の柔道整復師であり、鍼灸師であり、整体師に過ぎません。武道の方での弟子はとるつもりはありませんので・・・・ハリソン先生とやらにはそうお伝え願えませんか?』
ソーサーを持って、俺も香り高いモカを味わいながら、彼を観察していた。
”ミヤモト・ムサシというよりキュウゾウだな”
俺は七人の侍に出てきた、あの孤高の剣士、久蔵を思い浮かべた。
彼こと、雲居忠臣君が修行している『雲居流兵法』は、残された伝書によるとその発生は室町時代初期、新田義貞の家臣だった雲居忠重という人物が、足利尊氏との争いに敗れ、この地に落ち延びて来た時に、野盗に襲われていた近隣の農民たちに、自己防衛のための術として教えたのが最初だとされている。
その後、雲居家はこの辺り一帯を治めるようになったが、雲居流が体系化されて今の形になったのは、江戸時代に入ってからのことだという。
明治になるまでは近郷近在の住民たちは身分の上下に関わらず、誰でもこの雲居流を修行したが、時代の趨勢と共に数が減って行き、今ではもう彼以外、習う者は殆どいなくなってしまったそうだ。
『余計なことかもしれんが、お前さん、独身なんだろ?跡継ぎが居なくちゃ、後世に伝えて行けないじゃないか?』
『それもまた仕方ないでしょう。今の世の中、人を怪我させたり、ましてや殺めたりする武道なんか、習う必要があるとは思えません。私は私の代でこれを終わらせても、先祖から恨まれることはないと思います』
彼は静かな口調でそう告げた。
別に格好をつけている訳でもない。
当り前のことを、当たり前のように喋っている。そんな風にしか見えなかった。
『君の気持は分らんでもない。ただ、彼女の方は至って真面目だぜ。真面目に武道を修行している人間を失望させるのはあまりいいものじゃないと俺は思うがね』
俺の言葉に雲居はコーヒーカップをデスクの上に置き、腕を組んでしばらく考え込んだ。
春先のそよ風が、開けてある窓から入ってきて、カーテンレールの端に吊るしてある明珍火箸の風鈴を鳴らす。
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