第弐話
『ミヤモト・ムサシ?』
俺は自分の
彼女の顔を見返すと、冗談を言っているようにも見えない。
『ええ、あの時、彼は確かにそう名乗りました』
彼女ははっきりとそう答えた。
あの時というのは、それより数カ月前のことだ。
彼女はある時、『女性柔道指導者研修会』というのが、東京都下のK市で開かれ出席した。
(本当は講道館で開催される予定だったのだが、別の予定が入り、急遽会場が変更になったのだという)
その帰りに気の合った先生達と食事をして、別れた後の事である。
見るからに胡散臭い男達に声をかけられた。
いや、”声をかけられた”などという上品なものではない。
早い話が”ナンパ”というやつだ。
おまけにその数名(三人はいたろう)は、一目見ただけで、
『ロクでもない連中』だと見わけがつくような、そんな風体だった。
向こうはこっちが外国人だと思って、半分馬鹿にして軽く見ていたのだろう。発音も文法も出鱈目な英語を半分使い、やたらに卑猥な言葉で何とかモノにしようとしてくる。
自分は仮にも講道館から参段を允許された身であるし、それに普段から柔道部の猛者たちを扱い慣れている身だから、こんな連中をあしらうのは別に難しい事ではないのだが、そこは教育者でもあるし、
”柔道は喧嘩の道具にしてはならない”と堅く信じている真面目な彼女の事だから、無視してゆこうとすると、あっちはますます調子に乗って、野卑な言葉を浴びせかけてくる。
『その時、彼が現れたんです』
そこで言葉を切り、カップを持ち直してコーヒーを
『おい、何をしている』
後ろから低く、鋭い声がした。
彼女を初め、チンピラ三人も、一斉に振り返る。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
長く伸びた髪を首の後ろで束ね、藍色の褪めた木綿の
年齢は分からない。四十代半ばといったところだろうか。
背はそれほど高くない。いやむしろ低い方であろう。
顔立ちは細く、頬がこけ、顎がとがっている。
痩せてはいるものの筋肉質で引き締まった鋼鉄のような印象を覚えた。
髭は少なく、顎の下と鷲の嘴のように尖った鼻の下に、僅かに蓄えている程度だ。
しかし目は鋭く、触ると切れてしまいそうな剃刀の刃のようで、黒い瞳が真っすぐこちらを見据えている。
片手に柳の枝のような、細く鋭い鞭のようなものを携え、もう片方には黒っぽい小型の信玄袋をぶら下げていた。
『往来の真ん中で女性に嫌がらせをするのは、男のすべきことではあるまい』
また、低く鋭い声が飛んだ。
『なんだよ。おっさん』
チンピラの一人がいう。
『怪我したくなかったらどいていな!』
別の一人が言う。
『そうだな。怪我はしたくない。いや、させ
たくないというべきかな』
『何を!』
別の一人が腕まくりをしながら、飛び出しナイフを出して、刃をぎらつかせる。
『私が動けば、君達三人は大怪我をするぞ。無駄な挑発をせんほうが身のためだ』
『面白れぇ、おっさん。じゃ、ちょっとそこまで付き合ってもらおうか!』
三人は逃げないように男を取り囲み、歩き出した。
百メートルほど歩いたところに児童公園があった。
もう夜の10時を回っていたから、公園には誰もいない。防犯灯の灯りだけがうすぼんやりと地面を照らしているだけだ。
マーガレットは慌てて携帯を取り出し、110番しようとしたが、男は手でそれを制し、黙って首を振る。
カタはすぐについた。
男が三人の間を、つむじ風の如く俊敏な動きで駆け抜け、手に持った鞭のようなものを二・三度振ったと思うと、チンピラ達はもう地面の上に倒れ、或る者は腹を押さえ、或る者は脛を抱え、もう一人は顔を手で覆って、情けない声をあげていた。
不思議だったのはそこから先だった。
マーガレットがはっとしたように、携帯を掛ける。
待つほどの事もなくパトカーに乗った
彼らはそこに男の姿を認めると、各別驚きもしなかったという。
それどころか、この謎の人物に向かって姿勢を正し、敬礼さえしてみせたのである。
警官は男から簡単に事情を聞くと、
『ご苦労様でした!』と再び敬礼をし、三人をひっ立ててパトカーに乗せると、そのまま走り去ってしまった。
『では、お嬢さん、夜道は危ないから気を付けてお帰りなさい』
彼女にそう告げたが、そこで再びマーガレットは驚いた。
男の口から出たのは、英語・・・・それも実に見事な発音の『クイーンズイングリッシュ』だったのである。
『あ、あの・・・・有難うございました』向こうが英語を喋ったものだから、一瞬呆気にとられたものの、彼女も英語で返した。
男は
マーガレットはそこで彼の名前を訊くのを忘れていたのを思い出し、慌てて、
『お名前を教えてください』
と、問うた。
男はそこで一旦立ち止まり、困ったような目をして顎を撫でていたが、少し照れ臭そうに。
『私の名は・・・・ミヤモト・ムサシ』と名乗り、足早にその場を立ち去ってしまった。
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