エピローグ【ホットラム】
一通りの洗い物を片づけてまな板を漂白する。明りが消えて静まり返った店内は、ほんの小一時間前まであれだけ沢山のお客さんでごった返していたのが嘘のようだ。
大きく一つ、ため息をつく。
何だか今日は、このまま寝てしまうのがもったいない気がして、一人、明りの消えたカウンターで飲み直そうと心に決めた。いつもならジン一択なのだけど、気まぐれでダークラムを選んでみた
いつもはレジ横で会計用に使っているノートパソコンを、薄暗くなったカウンターに乗せると、出来あがったホットラムを片手に静まり返った客席に出た。いつからだろう、人飲みが寂しくなると、ついついこれをやっちまうんだ。
「トントン、マイク入ってますか?」
「トントン、聞こえてますか、見えてますか?」
流石に商売してると顔を映すわけにもいかないから、カメラの角度は首から下だけが写るように調節する。そして、ちびちびとホットラムを舐めながら回線を繋いでマイクのチェックをしていると、次がら次へと馴染みの視聴者さん達が姿を現した。
『今日は何を飲んでいるんですか?』
「あ、やさぐれホテルウーマンさん、こんばんは。今日はホットラムですよ」
『うわ、何だが強そう!!』
「一対二のお湯で割っているので、アルコール度数は1/3ですね。だいたいワインとか日本酒と同じくらいです」
『どうやって作るんですか?』
「こんばんは、ソプラノさん。まずはマグカップに1/4程ラムを入れます。入れるのはダークラムが良いです。はい、茶色いやつです。そこに、1cmくらいの厚みに切ったレモンの輪切りを入れて、上からはちみつをかけます。そして、ケトルで沸かしたお湯をラムの倍の分量入れてかき混ぜます。酸味が強いのが好みの人は強めに、僕みたいに淡い酸味が好きな人は、はちみつだけが溶けるように優しく混ぜるのがコツです」
『どうせアンタの事だから、上等なラムを使うんだろ?』
『緑の中を走り抜ける真っ赤なドカティさん、こんばんわ。いいや、安い奴ですよ。量販店でも売ってる1500円くらいのダークラムです』
『お酒って美味しいんですか?』
「こんばんは、川上正夫さん…くん…かな? 未成年ですか?」
『はい! 高校生です!』
「ああ、それはあと数年我慢してくださいね」
『ワタシ ウイスキーデ ソレ スルノスキデス!』
「ああ、ブルーメさん、わざわざ海外からありがとうございます」
そう、仕事終わり、何だが一人が寂しいちょっとおセンチな気分の時は、ついついこうやって生配信をしてしまう。ほら、話し相手欲しさに外出るとお金がかかっちゃうからね。だから、こうやって顔も知らない見ず知らずの人を相手に酒を飲むのさ。とは言うものの、ただの雑談ばかりをしているワケじゃない。酒の話、料理の話、旅の話。毎回そんなのを肴に飲む千夜一夜物語みたいなチャンネルだ。たぶん、画面の向こうの視聴者さんもそうなんだろうな。寝る前にちょいと一杯。そんなんだと思う。
「すまん、おかわりを作ってくるのでちょっとばかりトイレ休憩って事で…」
ひとしきりホットラムについて皆と語り合った後、俺は手短にそれだけ言うと、マグカップを片手にカウンターの内へと入り、ぬるっくなってしまった電気ケトルのスイッチを入れた。沸騰を待つ間にネクタイを緩め、ベストと前掛けを外す。そして改めて、暗く静まり返った店内を見渡した。…真っ暗で誰一人いやしない。まるで三年前までのこの店をみるみたいだ。
一〇年、流行らない店をやっていた。
『いつか花咲く日が来る』
そう信じて、我慢し続けた一〇年だった。嫁と始めたこの店には一応最初は従業員もいた。もちろん、オープン当初はそれなりに忙しく、スタッフ一同順風満帆に漕ぎ出せた…そう思っていた。しかし、二年目の途中から売り上げがガタリと落ちた。『美味しいお酒と、お箸で楽しむヨーロッパの味と本格和食のダイニングバー』という自分に出来る事を全て詰め込んだこの店は、一般のお客さんからしてみたら色々理解に苦しんだんだろうな。『カフェじゃないじゃない』『単価高いじゃない』『敷居が高い感じがする』そんな噂が街中に知れ渡り始めると、日に日に客足は遠のき、スタッフの給料が払えなくなると、嫁とふたりきりになった。でも、それくらいはまだまだ序の口で、そのうち、飲食店だというのに、とうとう食材が買えなくなってきた。それくらいにまで売り上げが落ちていた。
それから程なくして嫁が働きに出るようになった。幸いにも社員で雇ってくれる会社があったので、店は俺一人で回すようになった。そして、その稼いで来てくれた給料も店の支払いで飛んだ。店を始めてからというもの、一度だって娘を旅行に連れて行けた事がない。それどころか、ズボンや靴に穴が開いていても、新しいのなんて買ってもやれなかった。
『いつか花咲く日が来る』
『今は貧しくても、きっとその先に…』
そんな思いで店を続けた。
そりゃそうさ、随分借金しちまったからな。これにコケたら本当に詰みだ。
ある夜、その日は珍しく忙しかった。多少ではあるけれど売上もあったので、仕事明け、夜も遅い時間だったけど妻と娘、それから同居している腰の曲がったお袋を誘って近所のコンビニにプリンを買いに行った。
『いつも貧乏させちまって申し訳ないな…』
それは、そんな心ばかりのプレゼントだった。
暗い住宅街の道を、俺と小梅、少し後ろを嫁とお袋で歩いた。嬉しかった、娘にプリンが買ってあげれるのが嬉しかった。撫でた、歩きながら娘の頭を何度も撫でた。「もう、中学生だよー」なんて照れくさそうにしてたけど、それでも撫でた。一〇年我慢させちゃったけど、こんな日が一日増え、二日増え、少しずつでも生活が豊かになって行けば良いと、心から願った。
――その翌日、娘と嫁が居なくなった。
夕飯時を過ぎても、部活に行ったはずの小梅が戻って来なかった。それだけじゃなかった。朝から姿の見えなかった嫁も帰って来ていなかった。そんな事はそれまで一度も無かった。気が気じゃなかった、心配で、オーダーが手につかなかった。風窓が揺れる度、裏で物音がする度に、慌てて家の方を覗いたが、そこには誰も居なかった。
心配で心配で、最後のお客さんが帰ると、ラストオーダーまでまだ時間はあったけれど一〇時過ぎに店を閉めた。それでも二人とも帰ってなかった。『事故にでも巻き込まれたのではないか?』『何かあったのだろうか?』そう考え出すと、体中が震えた。『もう、中学生なんだよ』あの声が、あの笑顔が最後の記憶になってしまうのが嫌で、怖くて『お願いだ生きていてくれ!』と何度も願った。そして、ついに我慢ができなくなり、捜索願いを出そうと警察に電話したけれど、住所と名前を言うと、電話口の警官に「あんたには教えられない」とだけ言われた。まったく意味が分からなかった。
次の日、早朝から警察に行ったが、言われたのは同じ言葉で「直接来られても教えられない」の一点張りで、その後、一言だけ「調べても無駄だよ、奥さんはそういう法律を使ったんだ」と言われてそのまま帰された。
何が起こっているのか全然わからなかった。
誰も、何も教えてくれなかった。
そして、何も食べれなくなり、髪が真っ白になった。
数日が過ぎ、娘の通う中学校から俺宛に封書が届いた。慌てて開けてみると転校に際しての給食費の返金という紙で、その、金額の内訳だけが書いてある事務的な手紙が入っているだけだった。悔しくて、悔しくて涙が出た。そう、小梅は中学校三年生の一学期の終わりで転校してしまったのだった。どことも分からない場所へ。あと、半年ちょっとで卒業だったんだ。幼馴染達と一緒に卒業出来たんだ。
それからというもの、神社めぐりが日課になった。総社、八幡神社と歩いて、最後は白山神社。そして、その脇にあるうちの墓。雨の日も、風の日も欠かさず通った。『小梅だけでも返してくれ』『せめて、幼馴染達と一緒に中学だけでも卒業させて欲しい』『そこまででいいから、それから先は諦めるから』そう祈り続けた。妻については、申し訳無い気持ちばかりだった。一〇年以上、わびしいくて、辛い思いをさせていたから、戻って来て欲しい気持ちはあったけれど、戻ってきても、また地獄のような日々が彼女にやってくるのなら、また気の弱い彼女が精神を病む程に辛い毎日の繰り返しになるのなら。と、思うとそれは願えなかった。
その頃、店には不思議な事が起きていた。店を初めて一〇年間、ほとんど見た事がない海外のお客が、妻と小梅が消えた日を境に突然増え始めたんだ。最初は、必ず一日一組、そして、それが二組、三組と増えて行き、離婚調停の通知が届いた秋の頃には店は連日満席になっていた。
不思議に思って、お客さんに聞いてみると、海外の旅行客が利用する口コミサイトで、うちの店がえらいことになっている。と、教えられた。
一人きりで切り盛りしていると、オーダーが入る度にいちいち冷蔵庫に食材を取に行けないから、苦肉の策で、カウンターの上に山盛りの野菜を盛っておき、注文が入る度に直接そこから取って調理した。どうやらそれが海外のお客様には『新鮮な料理』に見えたようだ。カットも調理もカウンターの中で行い。お客さんの目の前で盛り付けた。何てことない、人手が無いんだ。でも、それが『ライブ感がある』『全ての工程が目で楽しめる』と絶賛された。そして、気が付くとガイドブックに星付きで紹介されていた。まったくもって、皮肉なもんだ。ずっと欲しかった料理人としての未来を、絶対に失いたくなかった物と引き換えに手に入れたのだから。
春になり、離婚が成立した。
結局、小梅は幼馴染達と一緒に中学は卒業出来なかった。
慰謝料も、養育費も要求されなかった。
嬉しい事が一つだけあった。それは、娘の名字だった。それは生まれてこのかた、わがまま一つ言った事ない小梅の初めての我儘だった。『離婚が成立しても、苗字は変わりたくない。私は蔵田の子だから』という言葉を、弁護士さん伝いに教えてもらった。
その後、娘と連絡を取っているお袋からも聞かされた。
「パパは一人でも生きていけるけど、ママには誰かがついていてあげなくちゃ」
小梅は最後にそう告げたのだと。本当、俺には出来過ぎた娘だ。自分事なんて全部我慢して、いつも誰かのために笑ってる。最高の娘だった。
そして、あの日から、もうすぐ三年が過ぎようとしているが、娘には会えていない。連絡を取り合っているお袋でさえ娘の住所は知らなかった。これが、俺の知っている白梅堂という店と、蔵田龍二という情けない男だ。
新しくダークラムをマグカップに注ぎ、はちみつを足す。そして再沸騰したお湯を入れて、俺は客席へと戻った。そう、レモンを厚切りにしてるから、何回も楽しめるんだ。
『晴れて独身なんだから、謳歌したら?』
自分の中の中の誰かがそう呟く。そりゃあな、常連の山ちゃんみたいに若い子相手に目をハートに出来たらそれはそれで幸せなんだろうけど、なんともそれでは自分が不実なようで気が引ける。どうやら、俺には恋愛は向いてないんだ。どうにも女性を幸せに出来るビジョンが思い浮かばない。小梅に対してもそうだ。いつかあいつが生まれ育ったこの家に遊びに来たときに、俺が違う家族を持っちまっていたら、あんなに頑張ったのに帰る場所が無くなっちまうじゃないか。今はまだ、あいつだけのパパでいてあげたい。それくらいしか俺に出来る償いはないような気がする。まあ、そんなに心配しなくても、そもそもモテたりはしないのだけれど。
「皆さん、お待たせ。今日の話は二本立てって事で、次は何について話そう?」
『じゃあ、私はジンの話が聞きたいです! この前、同級生がやってるお店でジントニックを飲んだのが美味しくて一本買ってきたんだけど、トニックウォーターもライムも切らしちゃって飲めないんですよ。こんな時間にやってるのはコンビニくらいで、そんな凝った物は買えないし…』
それは、ソプラノさんからの質問で、なかなかに面白い題材だったので俺はホットラムを片手にジンの楽しみ方について喋りだした。
本場のイギリスやオーストラリアでは『ジントニック』とは言わずに『ジン ネン トニック(Gin & Tonic)』と呼ばれている事や、『ライムで飲まなくちゃいけない』という日本人の幻想、本場ではライムに限らず、まるで日本の焼酎のようにレモンやらオレンジ、キュウリとかブラックペッパー、コリアンダー、果てには蟻を入れて飲む飲み方なんかもある。なんて話で盛り上がった。
ホットラムも二杯目が空になりかけた時、ガタガタっと店の窓が揺れた。そして、そのすぐ後に今度は真っ暗な厨房の奥でドアが軋んだ。それは、あの日と同じ風の悪戯だと分かっていてもさすがに身の毛がよだって、一気に酔いが吹き飛んだ。でも、今回ばかりはひょっとしたら本当に出ちゃったのかも知れない…オバケが…。だって、ライブ配信しているパソコンの画面上で、視聴者さん達が物凄い剣幕で慌てているのだから…
『クラタツ! 後ろ、後ろ!』
『ちょいワルさん、後ろー!』
『蔵田君、後!』
「ちょ、ちょっとまて、何であんたら俺の名前を知っている!?」
『阿呆! ちょくちょく顔が見切れとったわ!』
「なんと!? そういう君は山ちゃんか!?」
『ソンナコトヨリ ウシロヲ ミルデス タツジ!』
いやいやいや、さすがに真っ暗な店内でそんな事言われても怖いばかりで、素直に後ろを振り向く勇気は出ないって…
「おいおい、勘弁してよ。俺、怪談とかマジ苦手だから!」
そう言ったすぐ後、正夫君の名前を叫ぶコメントを見て言葉を失った。
その名前を見た途端、突然涙が止まらなくなった。嬉しさや、申し訳なさや、情けなさや、色んな感情がこみあげてきて、後なんて向けなかった。ただただ、泣き声を出さないように必死でこらえた。堪えたけれど、涙と鼻水だけは後から後から溢れて出た。
そして、俺はみっともない涙声で配信を締めくくった。最後の言葉はいつもと一緒だった。
「酒の話、料理の話、まだまだ語りつくせないけれど、今日はこれで終わりにしようと思う。また、俺の話を聞いてもらえる機会があるならとても幸せだ」
…と。
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