第5話【笑顔に包まれて(後)】

次の日も、僕は雨の合間を見つけて散歩に出ました。そして、歩きながら色々考えたのです。気持ちは随分楽でした。だって、はづきちゃんと話すという第一の目標は達成されたのですから。あとは、少しずつでも会話を増やせばいいと思ったのです。そうです、当たり障りのない話題だって構いません。『施設には慣れた?』『雨の日が続くね』『紫陽花が綺麗だね』よくよく考えたら、かける言葉は色々ありました。そりゃあまあ、中には『うわべだけ』ってとられるような言葉だってあるかもしれません。でも、やっぱり心配してるのだからいいじゃないですか。そう、そんな事はもう些細な事だって思ったんです。

 そして、また、施設の壁に沿って戻ってくると、やっぱり昨日と同じ窓の所で

「…おかえり、幸太郎」

と、声を掛かけられました。僕は足を止めて施設の壁にもたれかかると、建物を縁取るように植えられた紫陽花の上を行き交う蝶々を眺めて、「花が綺麗だね」と、用意した言葉を掛けました。一緒に出ていた浜本さんは「幸太郎、ちょっとだかだからな」と、言って少し離れた場所へ歩いて行くと、タバコを一本、口に咥えて火をつけました。

「…ここに来てから眺めるのは、この紫陽花と、グラウンドの向こうの街並みだけ」

少しの沈黙を置いて聞こえて来たのは、ため息混じりにそう語る声でした。

「綺麗なのは紫陽花だけじゃないんだよ。春にはグラウンドの縁の桜並木が満開で、それは見事な花が咲くんだ。次の春にははづきちゃんにも見せてあげたいな」

『桜を見せたい』というのは本心でした。だって、あれは本当に綺麗で、きっとはづきちゃんだって、見とれてしまうと思ったのです。少しでも、気分が上向きになると思ったのです。

彼女は、また少し間を置いて、短く「…そうね」と、答えた後に、

「幸太郎…、また、明日も来てくれる?」

と、尋ねました。僕は、思い切り返事をしました。大きな声で

「もちろんだよ!」

と胸を張ったのです。



【笑顔に包まれて(後)】

               (一)

 それからというもの、雨の合間の散歩と、壁越しのはづきちゃんとのお喋りは僕の日課になりました。新しい日課です。来る日も、来る日も、毎日のように繰り返したのです。まあ、その殆どは施設で起きた珍事件や笑い話などの他愛のない話しばかりだったけど、しだいにはづきちゃんの部屋の窓からは、笑い声も聞こえる事が増えて行きました。なんだか、僕があの頃の正夫君や、小梅ちゃんになったみたいです。

同じ施設の中の何人かは僕の悪口を言っているのを知っています。それは、年上のお兄さんやお姉さんだったり、最初の頃、僕がお節介に声をかけて嫌われてしまった子達で「また幸太郎がおせっかいを焼いている」「やつは偽善者でいい子ちゃんだ」なんて陰口をたたいました。たしかに、少し心が痛む所もありました。だって、ずっと「立派になるために」「優等生であるために」と考えて、それを実行してきたのですから。正直、はづきちゃんの事も、最初はそうだったと思います。でも、今は違うと思うのです。それは、あの日の正夫君や、小梅ちゃんと同じ事をやってみて分かったのです。二人とも、それが正しい行いだからしたわけでも、それが、立派な行いだからしてくれたわけじゃなかったのです。簡単なんです、この時間が大好きだからやっているだけなのです。彼女の笑い声が聞きたい。笑顔が見たい。心からそう思えるからやっているのです。そして、いつしかその時間は、僕にとって大切なものになっていました。もう、後ろめたさなどありませんでした。それどころか、周りの景色や音、それに匂いまでもが、いつもよりもっと鮮やに、もっと華やいでいるのです。それは、本当に楽しい時間でした。

 ある日の事です、僕は思いきって

「もう、施設には慣れた?」

と、前々から切り出したかった話題に触れました。だけど、それまでの楽しい会話はそこで途切れ、少し重い沈黙の後に

「…慣れないよ、慣れる気もしない。だって、ここは私のいる場所じゃないから」

という返事が返ってきただけでした。それ以来、僕は施設の事にも、あのアパートの事にも触れる事はありませんでした。でもまあ、それでいいのだと思いました。無理に辛い思い出に触れるような事をしなくても、こういう毎日を繰り返し、次第に彼女が元気になってくれれば、それでいいと思ったのです。そして、いつの日か壁越しではなくて、普通に顔を見て笑えるようになったなら…。そう、その時は卒園の話しをしてあげよう。ここを出れる方法があると知れば、きっと目標が出来て元気になる。いつしか僕は、そう考えるようになっていました。



それは、妙に生暖かい湿った風が肌にまとわりつく日の事でした。その日も僕は、昼食後の散歩の途中、ずっとはづきちゃんの事ばかりを考えていました。

―今日は何を話そう。

―昨日よりもっと笑ってくれるだろうか。

そんな事を考えながら歩いたのです。もちろん、はづきちゃんと話すのは楽しかったですが、僕は、こうやって彼女との事を考える時間も好きでした。だけど、施設へと続く長く緩やかな坂道を、小川に咲く水仙の花を眺めながら登っていると、なんだかいつもと雰囲気が違う事に気が付いたのです。最初は気のせいだと思いました。だけど、不思議に思って耳を澄ますと、施設の方が妙に騒がしいのです。僕は胸騒ぎを覚えて、気が付くと門へ向かって駆け出していました。

息を切らし施設の敷地に入ると、その胸騒ぎの正体が分かりました。誰かが泣き叫ぶように悲鳴を上げているのです。僕は二、三度大きく肩で息をすると、再び走りだしました。だって、すぐに分かってしまったんです。それが、はづきちゃんの声だという事が。

「はづき! いい加減、飯を食え!」

「そんな抵抗したって、お前は帰えれねえんだ!」

いつもの窓辺までたどり着くと、聞こえてきたのは物凄い剣幕で怒鳴り散らす浜本さんの声でした。おそらく、いつまで経っても僕以外の誰にも心を開かず、食事にすら手をつけないはづきちゃんに痺れを切らしてしまったのでしょう。そして、その言葉に対して、彼女は「やめて!」「どうしてそんな意地悪な事を言うの!」と泣き叫んでいたのです。

 次の瞬間、はづきちゃんを叩く乾いた音が響くと、僕は、居ても立ってもいられなくなってしまいました。そして、二人の間に割って入る決意をしたのです。でも、僕達の間には壁があり、彼女の部屋まで行くには玄関を回り、ホールを駆け抜けるしかありませんでした。それでも迷いませんでした。なんとしても彼女を助けたかったのです。それは、僕にしか出来ないと思ったのです。そして、足に力を込めた瞬間に、耳を疑いたくなるような言葉が聞こえたのでした。

「はづき、お前だって知ってるだろ! お前の母ちゃんは、もう違う男と一緒になって、腹に子供までいるんだ! 今更お前が戻ったところで邪魔者になるだけなんだ! 帰る場所なんてねえんだから、観念するんだ! 諦めてここで暮らすんだ!」

それは、そんな声でした。そして、それと同時に、僕の中にあった疑問に答えが出てしまったのです。それは、どうしてあんなに元気だった彼女が、これほどまでに変わってしまったかの答えです。

『帰りたくても、帰る場所が無い』

それは、どれほど辛い事なのでしょう。『いつかお母さんと一緒に暮らす』という夢を持っている僕には想像が出来ませんでした。

踏みしめていた足先からは、いつしか力が抜けてしまっていました。僕はただ、白い壁にもたれ降り出した横殴りの雨に打たれて、暗い空を見上げることしか出来なかったのです。

どれくらい長い間、雨に打たれていたのでしょう。いつの間にか、浜本さんの怒鳴り声も、泣き叫ぶはづきちゃんの声も聞こえなくなっていて、ただただ、乱暴にグラウンドや、施設の屋根を叩く雨音だけが響いていたのです。

「…幸太郎、いるんでしょ?」

「……うん」

突然聞こえたはづきちゃんの悲しげな声に、それくらいしか答えられませんでした。

「…嫌な話、聞かれちゃったね」

「…ううん」

彼女の辛さを考えると何も言えませんでした。でも、はづきちゃんは、まるで独り言のように、言葉を続けたのです。

「…帰りたいな、あのアパートに。帰りたかったなあ」

「…うん」

「…女の子って、お嫁さんに行くじゃない?」

「…うん」

「…あと何年かしたら、私だってお嫁に行っても良い歳になったんだから、施設の人も、もうちょっとくらい目を瞑ってくれてても良かったのに、見逃してくれても良かったのに。…私なら、大丈夫だよ? 我慢できたよ? だって、ちっちゃい頃からだもん、うちの母さんの癇癪は。違う男の人の子供が出来たって構わない。こんな所に連れて来られるくらいなら喜んで我慢した。そしたら、もっとお母さんと一緒にいられたのに…」

「…うん」

「でもやっぱり、もう戻れないんだよね…」

そう言って、彼女はまた黙りこんでしまったのです。そして、僕は何度も何度も相槌を打ちながら決心をしたのです。そう、それは、ずっと計画していた事を説明する決心です。進む未来も、戻る場所も無くなってしまった彼女に、少しでも明るい未来は選べるんだって知ってもらいたかったのです。

足が震えていました。でも、それは雨に打たれて寒かったからではありません。そして、僕は大きく息をのみ込むと、「うん!」と、一回頷いて話し始めたのです。

「…はづきちゃん、聞いてもらえるかな。僕には目標があるんだ。実は、この施設には『卒園』っていうのがあるんだ…。自立して生活していける大人だと認められると、ここから出られるんだ」

その言葉を、はづきちゃんは無言のまま聞いていました。でも、僕は彼女の返事も待たずに言葉を続けたのです。話し始めた以上、もう、喋り切るしかないと思ったのです。

「…僕は、一日も早くここを出て働こうと思う。そして、母さんを迎えに行って、一緒に家を借りるんだ。その時は、はづきちゃんも一緒に暮さないかい? あのアパートのすぐ近くに家を借りるんだ。そして、三人で暮らすんだ。そうしたら、はづきちゃんだっていつでも好きな時にお母さんの所に遊びに行けるじゃないか、会いに行けるじゃないか。出よう、頑張って一緒にこの施設を出るんだ」

 ひょっとしたら、僕はまたいらないお節介をしているのかも知れない。踏み込み過ぎているのかも知れない。そんな思いもあったけれど、一度口にし始めた言葉は止まらなかったのです。そして、ひとしきり喋り切り、何度も大きく息を吸ったり吐いたりをくりかえしたのです。確かに『三人で暮らす』それは、思い付きでした。でも、それは凄くほんわりとして、温かい未来だと思ったのです。そして、後になって、今のが、プロポーズのように取られてもおかしくないと気付くと、恥ずかしくて顔が熱くなったのです。でも、後悔はありませんでした。そうしたい。そう、ありたいと、心から思ったのです。不思議なものです。あれほど嫌いだと思っていた彼女と、今は一緒にいたいと心から願うのですから。

 だけど、はづきちゃんから帰って来たのは、

「…ありがとう幸太郎。嬉しいよ。でも、そんな未来は私達には来ないんだよ」

という、想像もしていなかった返事だったのです。

「…どうしてだよ? なんでだめなんだよ!?」

無意識に、言葉がこぼれていました。だって、彼女なら絶対に「いいよ」って言ってくれると思ってたのです。今までの窓越しの時間が、とても美しく感じたのはきっと彼女も一緒だと思っていたのです。それが、ずっと続けばいいと心から願っていたのです。

「…だって、幸太郎も私と一緒なんだもの」

一瞬、その言葉の意味が分かりませんでした。でも、何故だか悪い胸騒ぎばかりがするのです。そして、彼女は僕に質問をしたのです。

「…幸太郎、気付いてなかった? 私達のあのアパートに住んでいた大人が女の人ばかりだって?」

僕は、言葉を失いました。言われてみて驚いたのです。確かにその通りです。うちも、両隣も、そのまた隣のはづきちゃんの家も、確かにあそこに住んでいたのは女の人ばかりだったのです。でも、その意味はわかりませんでした。女の人ばかりが住んでいるのが何か問題だというのでしょうか。『お父さん』という存在を知らない僕には、別にそれが特別な事だとも、異常な事だともすぐには思えなかったのです。それでも、そんな僕でもただただ、次の言葉を聞いてはいけない。そんな予感ばかりがして胸が掻き毟られるように痛んだのです。

…だけど、はづきちゃんはそんな僕の気持ちなど気付かないように静かに言葉を続けました。

「あそこはね、そういう仕事してる女の人ばかりが集まって住んでる場所なのよ。幸太郎のお母さんもそう、私がここにくる少し前に『また妊娠した』ってボヤいていたのを聞いちゃったんだ。だからね、幸太郎にも帰る場所は無いの、私と一緒なの。皆で一緒に暮らす? そんな未来は私達には来ないの!」

それは、絶望にも似た言葉でした。そして、窓の向こうから泣き崩れる音がしたのです。

…母さんのお腹には、すでに違う男の人の子供がいる。

その事実が僕の頭の中で渦を巻いていました。あれほどまでに、お父さんの事を立派だと言ったのに、あれほどまでに、僕に優しくしてくれたのに、今では違う誰かの子供がお腹にいる。頭が、世界が、右へ、左へと大きく揺れていました。

両方の膝が痛いのに気が付きました。

頬が冷たいのに気が付きました。

雨に混じり、口の中に泥の味がするのが分かると、僕は初めて泣き崩れたのは自分の方だったと知ったのです。そして、そのまま、何かが決壊しました。倒れたまま、叫び始めていたのです。

「なんで、なんではづきちゃんはそんな意地悪ばかり言うんだ!」

「いつだってそうだ、はづきちゃんは酷い事ばかり僕に言う!」

「どうして…」

「どうして…」

気が付くと、幾つもの酷い言葉を浴びせていました。でも、止まらなかったのです。そして、そのまま、目の前が真っ暗になって行きました。耳元で聞こえる激しさを増した雨音と、はづきちゃんが繰り返す「ごめんね」「ごめんね」という涙交じりの声が聞こえるばかりでした。

その後、どうやって部屋まで戻ったのか覚えてはいません。僕はただ、ベッドの上で丸まって震えていました。

『またお母さんと一緒に暮らす』

ずっと、ずっとそれだけを目標にしてきたのです。その目標があったからこそ、こんな場所に連れて来られてもなんとか頑張っていられたのです。でも、僕の前に伸びていた光り輝く道は、粉々に砕けてしまったのです。今まで、幾度となく想像してきました。背が伸び、立派になってあのアパートに戻る。それは、そんな光景です。そして、あの窓辺から僕を見つけた母さんは、驚いて駆けよってくるのです。でも、今を瞑ると、あの窓越しに見えるのは、母さんが僕の知らない新しい家族と、楽しそうに笑っている姿ばかりなのです。僕だけが中に入れなくて、ただただ、暗い外側からそれを眺めているのです。そして、胸が千切れそうなくらいに痛くて辛くなり、思わず目を背けて震える事しか出来ないのです


最初は、ただ雨が強いのだと思っていました。でも、それが心地いいと思いました。だけど、それが、ただの雨ではないと気がついたのは、いつもとは違い、職員の人達が慌ただしく走り回り出した頃でした。不思議に思い、立ちあがって窓から外を見ると、建物も揺れていたし、窓から見える街燈に照らされた桜の木々の影は、今にも折れそうなくらいに風に曲がり、なびいていたのです。

「台風のコースが変わった、直撃コースだ!」

「まだ暴風圏内に入ってないのに、こんなに吹くなんて初めての事だ!」

聞こえたのはそんな職員さん達の声でした。

…愉快でした。

実に愉快だったのです。このまま雨と風が全てをなぎ倒し、全部無くなってしまえばいいと、腹の底から笑いが漏れました。全部なくなっちゃえば、全部無茶苦茶になってしまえば、どんなに気が晴れるだろうか。そう考えると爽快だったのです。もう、優等生とか、良い子だとか、そんなの関係ありませんでした。

 荒れ狂う嵐の中、金槌や板を持って建物から飛び出す、幾人もの職員の姿が見えました。だけど、差した傘は瞬時に曲がり、そしてビニールの部分だけが飛ばされて行くのです。雨合羽を着た人達なんかは、もっと傑作で、一緒に風に吹かれて飛んで行き、そのまま職員室の壁に激突しているのです。

楽しかった。その光景を窓から見ているだけで、なんて愉快な出来事なのかと、わくわくが止まらなかった。人目なんて気にせずに素直に感情のまま笑い、

「ばーか!」

「まぬけ!」

「とんまー!」

と罵った。

 そして、突然、世界の全てが真っ暗になったのです。

 てっきり僕は、ようやくこの世が終わってくれたのか? と、思っって辺りを見回したけれど、どうやらそれは違ったようで、施設の至る所から、叫び声や、泣き声が聞こえてきたから、どうやら皆まだ生きているようでした。そして、しばらくすると、職員さんの

「停電だ!」

「坂の下の電柱が折れているぞ!」

という声が聞こえて来たのです。

 慌ててもう一度窓辺から外を見ると、どうやら停電は折れた電柱のせいだけじゃなく、いつも見える丘の下の街並みには夜景もなく真っ暗で、見渡す限りの一面の闇だったから、きっと、この街全体が停電したのでしょう。時折光る稲光だけが一瞬辺りを昼間のように変るのでした。

そんな中、グラウンドの上や、門の辺りでいくつかの小さい明りが揺れているのに気が付きました。そして、大きな音と共にまた空が光りその姿が浮かび上がると、それが懐中電灯を片手に走りまわる職員さんの姿だと分かったのです。

 僕は、何やら違和感を覚えました。だって、その様子はさっきまでの金槌や板を手に台風支度をしている動きとは違い、明らかに建物とは逆の方向に向かっているのです。

「はづきが脱走したぞ!」

その声が施設の中に響いたのは、それからさらにいくつかの稲光が光った後でした。

 風と雨は、ますます勢いを増していて、グラウンドでは、すでに何本かの桜の太い枝が折れていました。きっとはづきちゃんは、この騒ぎに便乗して逃げ出したのだろうけど、僕はあまり心配はしませんでした。だって、こんな嵐じゃ遠くに行けるはずがありません。どうせすぐに立ち往生して、ずぶ濡れになっておしまいです。なんせ、この施設に来てから散歩にすら出た事のない彼女ですから、土地勘なんて物はあるはずが無いのです。 

「ざまあみろ!」

「いい気味だ!」

「さんざん、僕に意地悪をした報いだ、天罰だ!」

僕は、そう叫ぶと、心の中でいくつもあっかんべーをしてやりました。でも、遠くに見える懐中電灯の明かりはいつまでたっても揺れているばかりで、一向にはづきちゃんは連れ戻される事はありませんでした。

「どうする!? 警察と消防に連絡は!?」

「だめです、停電で電話は繋がらないし、携帯も混雑していて無理です!」

「街中この騒ぎだ、きっと消防や警察もてんてこ舞いに違いない」

そんな声が聞こえた頃です、一つの懐中電灯の明かりが、暗闇の中、物凄い勢いでこっちに向かって来るのが見えました。

「だめだ! 街のあたりまで行ったけど、姿が見当たらない! それどころか、そこら中、折れた木や電柱でえらいこっちゃ!」

てっきり、はづきちゃんが見つかったという知らせかと思ったのに、聞こえてきたのは、それとは違う言葉だったのです。施設は、蜂の巣をつついたような騒ぎでした。近づく台風の支度に追われる人、はづきちゃんの捜索に出る人、数少ない施設の職員さんは、半ばパニックになるようにして暗闇の中を走り回っていたのです。

…そして、

「ダメだ! はづきの捜索は諦めよう!

 このままでは、二次遭難、三次遭難になる!」

という園長先生の声が聞こえて来た時、僕は初めて規則を破りました。

そう、僕も騒ぎと暗闇に乗じて施設を脱走したのです。


 千切れた木の葉や枝が横殴りの雨に混じって僕の顔や体を叩きました。色んな所がヒリヒリと痛かったから、ひょっとしたら何ケ所か切れていたかも知れません。真っ暗な中、いくつもの地鳴りが聞こえる度に、体が強張ってしまったけれど、それでも進んだのです。

どうして、そうしたのか、理由は何度考えても分かりませんでした。はづきちゃんを連れ戻したいからかのか、それとも、一緒に逃げたいからなのか。そもそも彼女は意地悪で、大嫌いだったはずなのです。ついさっきだって、遭難しただろう彼女に対して『いい気味だ』『天罰だ』と叫んだばかりです。でも、園長先生の決断が聞こえた次の瞬間。頭より先に体が動いていたのです。彼女が死んでしまうかもしれない、二度と話せなくなってしまうかも知れないと考えた時、僕は走り出していたのです。 

そう、僕は一人、真っ暗な施設の裏山に入ったのです。

これは直感でした。

『街の方まで行ってみたけど、見つからない』

それを聞いて直感したのです。はづきちゃんは、あえて整った道を行かなかったのではありません。道に沿って行く方法を知らなかったのです。何処へ? そんなのは決まっています。僕達が育ったあのアパートです。

僕は、あの時の、

『ここに来てからずっと窓の外ばかり見てるんだもん。なんだか、私があの頃の幸太郎になっちゃったみたい…』

と語る寂しそうな声を思い出していました。そうなのです、恐らく、僕と同じで彼女は気付いていたのです。施設と、アパート、同じ街の景色を違う角度から眺めていた事に。

そして、彼女の選んだ方法は、きっと誰もが想像つかなかったと思います。ただ一人、あのヤンチャでお転婆な昔の彼女を知っている僕を除いては。間違いなく、彼女はこの裏山に入ったのです。何故なら、ここから一直線に最短距離、いくつか山を越えた先にあるはずなのです。彼女が帰りたかった僕達の故郷が。

 


                 (二)

『…幸太郎』

『…幸太郎』

それが、お母さんの声なのか、それともはづきちゃんの声なのか分かりませんでした。それとも、実はただの空耳で、本当は雨粒や風の音だったのかも知れません。でも、僕を呼ぶ声が聞こえたような気がして目を覚ましたのです。

額に、鈍い痛みがありました。そして、自分が激しく頭を打ち、気を失っていた事を思い出したのです。どれくらい意識が無かったのか分かりませんでしたが、見渡すと、嵐はますます勢いを増していました。僕は、よろけながらも立ち上がり、自分がどこにいるかも分からない暗闇の中、再び前へ、前へと足を進めたのです。


それは、一つ目の尾根を下り始め、しばらく行った小さな谷間で聞こえました。雨で水量が増えた、激しく流れる沢の音に混じっていましたが、はっきりと聞こえたのです。僕の名前を呼ぶ声を。

僕は一直線に声のする方向に向けて斜面を駆け降りました。もちろん何度も見えない木に激突しましたが、それでも気にしませんでした。体中が軋み、激痛が走りましたが、むしろ、その方が下る勢いが落ちて都合が良いと思ったくらいなのです。

そして、激しく流れる沢の縁で、泣いている彼女を見つけたのです。

増した水かさは、すでに足元まで来ていて、今にも彼女を飲み込もうとしていました。はづきちゃんは、何度も何度も土手を登ろうとするのですが、濡れた急斜面を半分まで登っては滑り落ちる、という事をくりかえしていたのです。

「はづきちゃん、もう大丈夫だから!」

僕はそう叫ぶと、迷う事なく土手を滑り降りました。そのままの勢いで、濁流に呑まれる事なんて少しも怖くは無かったのです。とにかく、彼女の元へ行きたかったのです。

 思い切り前につんのめり、半ば転がるように土手を落ちましたが、間一髪、僕のつま先は沢の石を踏みしめて止まりました。そしてそのまま「はづきちゃん!」と名前を呼んで、彼女を抱きしめるように頬を合わせたのです。

 彼女の頬に触れる僕の唇に、涙の味がしました。何度も、何度も「ごめんね」「酷いこと言ってごめんね」と泣く声が耳元で聞こえました。そして、その度に、僕も「ごめんね」「本当にごめんね」「よかった」「はづきちゃんが生きててくれて良かった」と呟くたのです。

ひとしきり泣いた後、僕ははづきちゃんの背中を沢から押し上げました。そして、彼女は僕を引っ張り上げるようにして土手を登り、今度は二人で暗い嵐の森を歩いたのです。


どれくらい僕達は歩いたのでしょう。二人の身体は雨に濡れて、冷え切って顎が震えて止まらないのです。でも、さっきまでのひとりぼっちとは違い、その道のりは心強いものでした。互いに声をかけ、励まし合いながら進んだのです。そして、そんな僕らを神様は祝福してくれたのかも知れません。なぜなら、しばらく進んだ先に、急に開けた場所を見つけたのです。そして、そこには小さな山小屋があったのです。見渡すと、暗闇の中に沢山の伐採された木が積み上げられているのも見えました。おそらく、木を切るために山に入った人が休憩するための小屋なのでしょう。僕達は顔を見合わせると、大きく頷きました。そして、横殴りの風と雨の中、残された力を振り絞って小屋に向かった駆け出したのです。

「…幸太郎、だめだよこれ。鍵が掛かってる」

「大丈夫、心配いらないよ」

僕はそれだけ言うと、迷う事なく扉に体当たりをしました。そして、2回目の体当たりで、扉は壊れたのです。そんな姿を彼女は驚いた顔で見ていました。だけど、僕は笑い返したのです。自分自身、こんな大胆な事が出来てしまうなんて考えてもみませんでした。でも、僕はもう、病気がちで身体の弱い子供でも、優等生でもないのです。小屋の持ち主の方には申し訳ありませんが、彼女を守るためならば、今はこれくらい出来てしまうのです。


暗い山小屋へと入ると、はづきちゃんは、無言のまま部屋の真ん中へと進み、そこに腰を下ろすと、僕を見つめて「幸太郎、さむいよ。近くに来てよ」と、言いました。その声は少し上ずっていて、暗がりでよく見えませんでしたが、きっと彼女は震えていたに違いありません。そして、僕は小さく「…うん」と、頷いて彼女の横に腰をおろし、肌をよせあって、何度も頬を寄せ合い、気が付くと唇を重ねていたのです。濡れた彼女の黒髪からは、大人の女性の甘い香りがしました。

いつの間にか、激しい雷鳴や雨音、地鳴りも聞こえなくなっていました。それだけではありません。気が付くと、小屋の窓から差し込む月明かりが、僕達を照らしていたのです。

僕は、この時の事を一生忘れない。

薄らと光る、一糸まとわぬ彼女の肩から腰へと流れる美しい曲線を。

濡れた長いまつ毛や、唇を。

この世界に、これほどまでに美しい物があることを知りませんでした。

僕達は一つになったのです。

そこには何の迷いも、後悔すらありませんでした。

僕達は一つになる。

僕達は一つのツガイになる。

それが、自然で、一番いい事なのだと心底思えたのです。

きっと、彼女もそう思っていたに違いありません。だって、隣で寝息をたてる顔が、とても安らかで、幸せそうに見えたのですから。そして、いつの間にか、僕も深い眠りについたのです。


朝になり小屋から出ると、それまでの嵐が嘘のように、雲ひとつない青空が広がっていました。

「これからどうするの、幸太郎?」

見上げるように見つめるはづきちゃんが少し不安そうにそう言いました。 正直、僕も彼女を見つける事で頭がいっぱいで、それから後の事なんて考えはいませんでした。だけど、僕は彼女を見つめ返してほほ笑むと、口から出まかせを言いました。

「そうだね、たぶん、施設にはもう戻れない。でも、帰る場所が無いって事は、悲しい事ばかりじゃないよ。だって、これからは行く先だらけって事だろ? どこにだって気の向くまま、自由に行けばいいのさ」

「…まったく、あのもやしっ子が、どうしてそんなに大人になっちゃったのか」

はづきちゃんは笑っていました。正直、僕が言ったのは思い付きだけの強がりの言葉だったかもしれないけれど、口にしてみると確かに本心だと思えたのです。そして、僕達は互いの顔を見ながら大きな声で笑ったのです。

うん。二人なら大丈夫。

二人ならやっていける。

そんな根拠のない自信が溢れて止まりませんでした。

「僕、昔からやってみたかったんだ。雲と一緒に歩くんだ。そして疲れるまで歩きに歩いて、日が沈んで雲が見えなくなったら、行き着いた街で働らけばいい。二人ならやっていけるさ」

「…バカ。幸太郎がカッコつけたって、幸太郎はしょせん幸太郎なんだからね!」

そう言ってはづきちゃんは照れくさそうにまた笑うと、僕に寄りそって唇を重ねてきたのです。


僕達は、また歩き始めました。目指したのは、とりあえず一番近い山の頂でした。これには理由がりました。自分達がいる場所を確認したかったのです。僕達が住むこの街は盆地だったので、どこかの山の頂上に立てば、必ず街を見下ろす事が出来るだろうと考えたのです。

緩やかに登る獣道を歩き続けました。そして、お日様が真上近くに来た頃に、山の頂上へとたどり着いたのです。それは、とても美しい光景でした。遠くに見える背の高い山々は、まだ、少しだけ頂に雪を残したまま、眼下に広がる僕達の街を見ろしているのです。とても涼しい風が吹いていました。

その時です、はづきちゃんが叫んだのです。

「見て、幸太郎! あそこ! あの建物!」

慌てて言われた方向を見ると、僕は目を疑いました。そうです、それは、見覚えのある景色だったのです。僕達の足元、今立っているこの山の斜面を下った先に、あの古いアパートが見えたのです。

「幸太郎、お願いがあるんだけど…」

彼女が何を言おうとしたのか、聞かなくても分かりました。だって、僕も同じ気持ちだったのですから。

「あのね、二人で違う街に行って暮らすのは賛成なんだけど、その前にアパートに寄っていけるかな?」

「うん、ちゃんとお母さん達に僕達の事を報告して行こう」

はづきちゃんは、驚いた顔はしませんでした。きっと、同じ事を考えてるって思っていたのでしょう。

こうして、今度は斜面を下り始めたのです。

…そして、僕達の逃避行が終わったのです。

それは、あまりにも唐突でした。あともう少し下ればアパートの近くに降りられる。といった場所で、突然、道が無くなっていたのです。いいえ、無くなっていたのはそれだけではありませんでした。山自体が無くなっていたのです。それが、昨晩鳴り響いていた地鳴りの正体でした。そう、山が崩れて、僕達は断崖絶壁の上で行き場を無くしてしまったのでした。


崖の上で立ち往生している僕達を発見したのは地元の消防団の方達でした。そして、すでに届が出されていたらしく、そのまま施設へと連れ戻されたのです。



              (三)

どれくらい時が過ぎたのでしょう。長雨が終わり、暑くて、セミの鳴き声がうるさい季節が過ぎ、いつの間にか、夜風が少し肌寒くなっていました。施設に連れ戻されてからというもの、僕達は会わせてはもらえませんでした。それどころか、自分達の部屋からも出してはもらえなかったのです。僕達は、互いの部屋の窓から名前を呼び合いました。来る日も、来る日も、声がかれるまで互いの名前を呼んだのです。

そんな、ある日の事です。僕の元に職員の浜本さんがやってきました。

「お前達には負けたよ、こい、幸太郎」

そう言って連れ出されたグラウンドを見た瞬間、僕の頬を涙が伝うのが分かりました。

秋の見事な紅葉を背に、そこに立っていたのははづきちゃんだったのです。眩しい西日をあびながら、彼女は照れくさそうにほほ笑んでいました。そして、僕達は長い間、二人でグラウンドの桜並木に立ち、街を眺めたのです。寄りそう二つの影が、長く、長く伸びていました。

それからというもの、僕達は昼食後の散歩の時間に会わせてもらえるようになりました。と、言っても、監視の目もありましたから、もっぱら二人で近所を歩くか、グラウンドから街を眺める程度しか出来なかったのですが。それでも、幸せだったのです。 そして、僕達が再び会わせてもらえた理由を知ったのです。それは、言葉ではありませんでした。はづきちゃんのお腹が、すこしずつ大きくなっていたのに気付いたのです。

…そう、僕達は子を生したのです。あの夜の子供でした。

それは、世間的に考えても、随分と早い、誰からも祝福される事のない、許されない若い春だったのだと思います。でも、僕も彼女も、それで良かったのだと、これで良かったのだと思ったのです。帰る場所のない僕達が、自分達の手で居場所を見つけたのですから。 

ここだけの話しですが、たった一人だけ、僕達を祝福してくれた人もいたのです。それは、意外にも、一番意地悪に思えた浜本さんでした。

ある日、浜本さんは夕食前に僕の部屋に来ると、隠し持っていた瓶ビールを出したのです。もちろん、僕なんて、まだ飲んじゃいけない歳だったのだけど、そんなの関係なしに浜本さんはビールの栓を開けたのです。そして

「ここだけの話しだ。幸太郎、でかした! よくぞあの嵐の中、はづきを連れ戻した!

 その上、ちゃっかり子供まで作りやがって! それでこそ男だ! 飲め、祝杯だ!」

と、言ってくれたのです。

 初めてのお酒の味はほろ苦くて、でも、これで僕は大人になれたのだと思ったのです。

それからまた、季節が流れました。深く、寒い雪の季節が過ぎ、桜のつぼみが色づき始めた頃、はづきは子を産み、僕は父親になったのです。それは、不思議な、とても不思議な経験でした。あの、綺麗なはづきから出たとは思えない赤黒い胎盤ですら、愛おしいと思えたのです。

生まれた子供は、僕でした。

…そう、思ったのです。

実際には女の子が生まれたのですが、目も、鼻も、口も、全てが他人だとは思えないのです。まるで、自分が若返り、はづきから生まれ出たたように思えたのです。

もし、この世界にタイムマシンがあるならば、あの、僕がアパートから連れ出された日以前に戻りたい。何度も、何百回も、何千回もそう思って日々を暮らしてきました。でも、この日、この瞬間を境にそんな事、もう、どうでも良くなってしまいました。僕が今までしてきた沢山の後悔を、この子がしなければ、しないように育ってくれたなら、昔になんて戻らなくてもいい。そう思うように変わってしまったのです。どんなに辛い過去だったとしても、それが全て、はづきと、この子に出会うために歩いた道だったのならば、僕は何度だって喜んで同じ道を通るでしょう。

そして、いつしか、夕日に伸びる長い影は3つになったのです。


 施設のグラウンドに沿った桜並木が、見事なほどの花を咲かせていました。その朝、部屋をノックしたのは、浜本さんでした。

「準備はできたか、この不良優等生」

それは、そんな声でした。

僕は、小さく頷きました。

そうです、ついに卒園の日が訪れたのです。

 僕は、一切の荷物も持たず、静かに部屋から出ました。なんとなく、分かっていたのです。この日が来る事を、そして、それがおそらく、最後になる事を。

いつの頃からでしょう。僕とはづきが未来を語らなくなったのは。いつの頃からか、分かっていたのです。僕の卒園が近付いている事を、そして、その先に、家族三人で暮らせる未来が無い事を。

見なれた広いホールを進み玄関を出ると、すでに職員室の前には僕を待っている車がありました。まるで、あの、アパートを連れ出された日のようです。でも、やっぱりあの日とは違いました。僕は、泣かなかったのです。いいえ、泣かないようにしたのです。

晴天の空を見上げます。背後の施設からは、僕の名を呼ぶはづきと、娘の声がしました。でも、振り返りませんでした。だって、これが最後に見せる姿ならば、情けなく後ろ髪を引かれて泣き叫ぶ姿ではなく、立派な背中を見せたいと思ったからです。

「幸太郎は立派だった」

いつまでも、はづきにそう言われる男でありたいと思ったのです。

「お父さんは凄かった」

いつまでも、娘にそう覚えていてもらえる父でありたいと思ったのです。

春風に、満開の桜が揺れていました。

「見えるかい、はづき。

これが、君に見せてあげたかった景色だよ」

僕は、春の空を見上げて呟きました。

そんな時です、同行していた浜本さんが話しかけてきたのです。

「幸太郎、おらあな、お前達を見てて思ったんだ。やっぱり、親子は長く一緒の方が良い。出来る事なら引き裂かれない方がいい。だからな、園長に、実験的でもいいから繁殖と肥育を一貫できないかって進言したんだ。喜べ、幸太郎。はづきと、お前の娘が第一号だ。あいつらは、ずっと一緒だ。いつか寿命が来て、死ぬその時まで一緒だ。お前は自分の命と引き換えにそれを勝ち取ったんだ、その道を作ったんだ。胸を張れ、幸太郎。お前は立派な父ちゃんだ」

それは、そんな内容でした。実際、それがどんな意味なのか、僕にはよく分かりませんでしたが、生まれた子供が僕達のように引き裂かれる事がなく、ずっとはづきと一緒に居られるのであれば、これほど嬉しい話しは無いと思ったのです。

…たとえ、僕は死んでしまったとしても。

 僕を乗せた車が動きだすと、思いもよらない姿が門の所にあるのに気付きました。それは、正夫君の姿でした。あの頃より、少しだけ背が伸びていましたが、すぐに気が付いたのです。

「幸太郎号!!!」

泣きながら僕の名前を呼ぶ声が聞こえました。

「正夫君、ありがとう! そして、さようなら!」

僕はそう呟くと、通り過ぎざまに、思い切り胸を張ったのです。もう、病気がちな小さな子供では無いのです。この丈夫な身体、筋肉、そして二本の角。どこから見ても、立派な大人なのです。愛する妻を娶り、子供まで生したのです。その雄姿を見てもらいたかったのです。「幸太郎号は立派だった」正夫君にも、そう覚えていてほしかったのです。


 今まで語ったこれが、僕が人生の最後に見た、走馬灯と呼ばれる光景です。

思い起こせば、子供の頃、色んな夢や、憧れを持っていました。

皆と一緒に小学校に行きたい。

雲を追いかけてどこまでも歩いて行きたい。

いつか母さんと一緒に家を借り、一緒に生活したい。

小梅ちゃんのお父さんと会ってみたいなんて夢もありました。

どれ一つとして、叶う事のない一生でしたが、僕は胸を張りました。

張ったまま、旅立ったのです。



         (四)

 何やらぺチペチと叩かれた気がして再び意識を取り戻すと、それは、音楽の流れるお店の中でした。何人もの見なれない髪色や瞳の色をした人達が、木の板の上に乗せられた僕を眺めてうっとりとしているのです。中には、「おいおい、どうせならもっと美人はいないのかよ?」なんて失礼な事を言う声も聞こえました。僕は思わず「僕で悪かったね、でも、うちの奥さんはとんでもない美人なんだぞ、あんた、モテなさそうな顔してるから羨ましいだろ!」と言ってやったのです。

あれから、どれくらい時間が過ぎたのでしょう。僕は小さな肉の塊へと変わっていたのです。僕には、もっと沢山の筋肉がありまました、でも、なぜ、この小さな肉片だけに意識が戻ったのか分かりません。

 そして、「そうとは限らんぜ、噛んで味があるのはこういう肉さ」とほほ笑んだおじさんは、僕が乗せられた木の板を手に取ると、そのまま台の上に乗せて話しかけて来たのです。

「お前さんは、どんな一生を送ったんだい?」

その言葉に対して、僕は胸を張りました。

「恋をした。世界で一番素敵な恋をした!」

そう言ってやったのです。

 すると、おじさんはほほ笑んで

「それは、とっても素敵な人生だ」

と、言ってくれたのです。そして、その後に言葉を続けたのです。

「俺達人間は、食うためにお前さん達を育てて、命を奪う。それは、本当に可愛そうで申し訳ない事だ。だからこそ、俺達コックには使命がある。世の中には、一方的に命を奪われたにも関わらず、床に叩きつけられたり、賞味期限が切れたからと言って箸もつけられないままゴミ箱に直行する命だってある。でもな、俺はお前さんの一生を、そんな形で終わらせはしない。させてなるもんか。それが、俺が出来る唯一の償いだ。お前さんの最後は、沢山の笑顔に包まれるんだ。皆に喜ばれて感動されて旅立つんだ。一片のかけらすら、肉汁すら残させはしない」

そう言って、何度も僕を撫でたのです。

 おじさんの最後の質問は、

「お前さんは、どんな姿になりたいんだい?」

というものでした。僕はたった一言

「任せるよ」

と、言いました。それは、決して投げやりで出た言葉ではありませんでした。素直に、任せようと思ったのです。だって、ほほ笑むおじさんの顔が、なんだか見覚えのある、懐かしい笑顔に思えたのだから。

それから僕は、ゆっくり温められ、塩と胡椒をかけられて熱いフライパンに乗せられたのでした。そして、いっぱいの花に包まれるように、色とりどりの野菜と一緒に大きなお皿に盛りつけられたのです。正直、男の僕が、こんなに綺麗にしてもらうのは、ちょっとばかり照れくさかったです。

 おじさんが言った通り、僕がこの世界から消えて無くなる最後の瞬間に見た景色は、驚き、感動する笑顔の数々でした。まあ、正直言いたい事や、悔しい事もありますが。とりあえず、それに免じて飲み込む事にしました。


 そして、僕は天国へと続く長い階段を登ったのです。

胸を張りました。これでもかって程に堂々と階段を上ったのです。

だって、こんなに誰かを喜ばせた僕はきっと立派なのですから。

 皆さん、これだけは知っていてください。

僕達は、食べられるためだけに生まれてきました。

だけど、恋もしたんです。

いっぱい悩んで苦しんで、それでも一生懸命生きたんです。

そう、皆さんと同じように。だから、せめて、ちゃんと最後まで残さず食べてください。そうじゃないと、本当に報われませんからね。


どこまでも高く、青く澄んだ空が広がっていました。いくつかの白い雲も見えたので、しばらく雲と並んで歩いてみました。僕、一度これがやってみたかったんです。ちょっとした道草です。そして、ひとしきり雲と歩いた後はどうしましょう。そうですね、この階段を最後まで登り切り、今度ははづきの子供として生まれて来るのもいいかも知れません。そうしたら、また一緒にいられるのですから。




四品目 おわり

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