第4話【笑顔に包まれて(前)】
世界は、もっと僕達に優しいものだと思っていた。そりゃあ、今まで色々辛い事や悲しい事ばかりの人生だったけれど、それでも、ちょっとヤンチャした程度では命なんて落としはしないし、一度や二度の失敗なんて、誰もが笑って許してくれると思ってたんだ。
――でも、違った。
違ったんだ。そう、嵐の夜、たった数十メートル見なれた場所から足を踏み入れただけなのに、荒れ狂う真っ暗な森は、容赦なく僕の命を奪おうとした。
――何も、何も聞こえなかった。
辺りに響くのは、地鳴りや木々の葉を叩く無数の雨粒の音、そして風が吹き抜ける甲高い笛の音ばかりで、自分の息遣いどころか、たった今、踏みしめて折れた枝の音すら僕の耳には届かなかった。
――何も、何も見えなかった。
どんなに夜が暗くても、目が慣れればぼんやり程度には見えるだろう。そう思っていた。…なめてかかっていた。でも、月明かりすらない嵐の森は、ほんの数センチ先すらも真っ暗な闇で、ぶつかってみないと、そこに木がある事すら僕には分からなかった。
――濡れていた。
――そして、ただただ寒かった。
雨宿りする場所など何処にもなく、大木の影にいてさえも、叩きつける大粒の雨は葉をつたい、さらに大粒になって僕の身体を濡らし、吹き荒れる風は際限なく体温を奪った。痙攣する内股や顎は、どんなに止めようと思っても止まらなかった。
『獣道を行けば良い』
『どんな山だって、踏み固められた細い道はあるはずだ』
そう思って、山に入った。でも、そんな物はどこにも見えなかった。耳も聞こえず、目も見えず、匂いだって、濡れた木々や土の香りがするだけで、いつの間にか狂い始めた感覚で自分が今、登っているのか、それとも下っているのか、そんな簡単なすら分からなかった。生まれてこの方、ずっと勘違いしていたのだと思い知らされた。『僕達は守られていて、ちょっとやそっとじゃ死なない』それはそういう勘違いだ。今まで僕が『普通』だって思って歩いていたのは、実は凄く細い綱の上の物語で、ほんのちょっと足を踏み外しただけで、人はあっけなく、そして容赦なく死んでしまうのだと今さらながらに体で痛感した。
でも、僕にはもう進む以外の選択肢は無かった。
だって、すでに、帰る道すら分からなかったのだから。
帰る場所なんて、もう、この世界にはどこにも無かったのだから。
何度も転んだ、もう、雨で濡れているのか、泥で濡れているのか分からなかった。でも進んだ。だって、それしか出来なかったのだから。
…そうする理由が僕にはあったのだから。
突然、脳天に衝撃が走った。きっと頭から木に激突したんだろう。そして、頬を伝う濡れた感覚が、さっきまでの冷たい雨とは違ってほんのり温かかったから、額が割れて血が流れていたのかも知れない。それでも進んだ。進もうとした。でも、たったそれだけなのに、頭を打っただけなのに、僕の膝はくの字に折れて、そのまま濡れた大地に転がってしまった。初めて知った、強く頭を打ち一気に血が流れると、フワっとして立っていられなくなるんだと。
急激に意識が遠くなるのが分かった。だって、あんなにうるさかった地鳴りや、森を吹き抜ける風の音がどんどん聞き取れなくなって行き、あとはもう、ただただ、僕の身体を叩く雨粒が、なんともうざったいと思うだけだったのだから。
第四話【笑顔に包まれて(前)】
(一)
僕は、体の弱い子供でした。
未熟児で生まれ、病気ばかりしていたので、学校どころか外にも出してもらえず、趣味はと言えば、窓からの景色を眺める事くらいしかない少年だったのです。
僕が生まれ育ったのは、街外れにある古いアパートでした。
そこは、隣の家の話声が筒抜けな程に壁が薄く、毎晩のように、何処からか怒鳴り声や喧嘩する声、壁を叩く音が聞こえる。そんな所だったのです。
家族は、物心ついた時にはすでにお母さんだけで、始めはそれが当たり前で、全然気にもなりませんでしたが、さすがにある程度大きくなると、普通はどの家庭にも『お父さん』という人が居るのだと知りました。ある時です、お母さんにお父さんの事を聞くと、「立派な方でしたよ。だからお前もそんなお父さんの子供なのだから、元気に、たくましく生きなさい」と、聞かされただけでした。そして、その時見たお母さんの顔があまりにも悲しそうだったので、それ以来、僕の中で、お父さんの事を聞くのは悪い事、話ちゃいけない話題になり、二度とお母さんの前で口にする事はありませんでした。
外に出してもらえなかった僕の唯一の趣味は、外を眺める事でした。窓から見える景色はこの薄暗いアパートとは違って明るくて、とても広くて、僕の目にはこの外の世界がとても綺麗に映ったのです。そして、病気が治った時の事を想像して胸を躍らせるのです。まず一番憧れたのは、もちろん小学校でした。あの、毎朝家の前を通って登校する皆の列に混じり、一緒に学校に行くのです。途中、友達とどんなお話をして、どんな風景の中を歩いて行くのか、買い食いとか、道草を食っていたりしたら先生に怒られるだろうなあ…、なんて考えると、無性に胸が高鳴るのです。
天気の良い日は、窓から顔を出して青い空を見上げるのも好きでした。しばらく眺めていると、不思議な事にどっちが上で、どっちが下か分からなくなります。そして、実はやっぱり空の方が下じゃないか? と考えると、そのまま自分の身体が浮き上がり、青い空に向かって落ちて行ってしまいそうな感覚がするのです。そんな瞬間です、ふと、地面を見るんです。すると、目が回ったみたいになって、これがまた面白かったのです。
流れる雲が好きでした。外に出れるようになったら、元気に歩けるようになったら、ゆっくり流れる雲と一緒にどこまでも歩いて行きたいと心から願ったのです。
では、ずっと孤独な少年時代だったのか? と、言われればそうではありませんでした。もちろんお母さんはいましたし、それ以外にも仲の良い友達が居ました。それは、近所に住む正夫君という少し年上のお兄さんでした。丁度、僕が覗いている窓の前を通って小学校に行くので、いつの間にか仲良くなっていたのです。
最初に声をかけてくれたのは、正夫君です。ある日、窓から覗いてる僕に向かって駆けよって来ると、
「どうしたの君? いつも覗いてるよね?」
と、話しかけてくれたのです。僕は、自分の体が弱くて家の外に出れない事や、実は毎日正夫君達の姿を眺めていた事を話しました。あまりに嬉しくて、一気にいっぱい喋ったから、途中で喉がからからに乾いちゃって、上手に伝わったかどうか怪しかったです。それでも、正夫君はニコニコと笑って「じゃあ、これはから毎日遊びに来るからね!」と、言ってくれたのです。そして、いつも小学校からの帰り道、窓から僕が覗いてるのを見つけると、「幸太郎ー!」って手を振って僕が覗く窓辺へと駆け寄ってくれるようになりました。
正夫君は楽しそうに、その日小学校であった出来事や、授業の内容、友達の話なんかをいっぱい聞かせてくれます。たしかにまあ、体が弱くて学校に行けない僕はそれがうらやましくも思いましたが、それよりも何よりも、知らない外の世界の話はやっぱりキラキラしていて、ますます早く病気を治さなくちゃ。と、元気が出たのです。
そうそう、正夫君は、友達も連れて来てくれました。それは、小梅ちゃんという同じクラスの女の子でした。僕は、年上の女の子とちゃんと話すのが初めてだったから凄く恥ずかしくて緊張してしまったけれど、正夫君同様、小梅ちゃんも色んな話をしてくれるのが嬉しくて、いつの間にか、恥ずかしいのも忘れて聞き入ってしまうのです。中でも彼女のお父さんのずっこけ話は傑作で、釣りに行ってカッコつけてルアーを投げた瞬間に、足が滑って土手から転がり落ち、買ったばかりの高い釣り竿が折れて半べそをかいた話なんかはお腹をかかえて笑いました。特に、いつもは怖い顔してるのに、釣竿に向かって「ごめんよ」「ごめんよ」と言いながら接着剤でくっつけようと挑戦してもダメだったオチなんかは、何回聞いても飽きませんでした。僕にはお父さんはいないけど、もしいるならば、小梅ちゃんのお父さんみたいな人がいいな。一緒に釣りに行きたいな。一回でいいから、小梅ちゃんのお父さんに会ってみたいな。そんな風に思いながら聞いたものです。
ある日、正夫君だけが来た日に、そわそわしながら周りを見渡して、思わず「小梅ちゃんは今日はいないの?」と聞くと「幸太郎、ひょっとして小梅ちゃんの事が好きなんじゃないの?」なんてからかわれてしまいました。熱が出た時みたいに顔が熱くなって、その時ばかりは、また病気がぶり返したのかと思ってしまったのです。
でも、残念な事に、僕の周りいたのは好きな人ばかり…と、いうわけにはいきませんでした。特に、同じアパートの二つ隣に住む同じ年のはづきちゃんは、すごく気が強くて意地悪な女の子でした。それに、いつも威張っているのです。やめてほしいのに、窓から覗いてる僕を見つけると必ずこっちにやってきます。確かにそこらへんは正夫君や小梅ちゃんと一緒なんですが、ここから先が違うのです。だって、「私は幸太郎と違って、こんなに早く走れるようになった、凄いだろ!」とか「幸太郎は体弱いから、こんな事出来ないでしょ? 羨ましいか?」とか言って、わざわざ僕の見ている前で飛んだり跳ねたりして自慢をするのす。そうそう、『幸太郎にはお父さんがいない』と、知りたくもなかった事を教えたのもはづきちゃんです。本当なら、見つからないように、なるべく窓から外を見ないようにするのがいいのかも知れないけれど、やっぱり正夫君や小梅ちゃんと会いたくて話したくて、僕はついつい窓から外を眺めてしまうのです。
雨が降る日や、寒い日は、きまって熱を出しました。その度に、お母さんは心配そうに僕を看病してくれるのです。それは、とても優しくて、とても温かかったのだけれども、やっぱり、こうもしょっちゅうだと、なんだか申し訳なくて、不安な気持ちでいっぱいになりました。だって、もし、このまま僕が、身体の弱い大人になったらお母さんはどうするのだろう? ずっと、僕の面倒をみるんでしょうか? そう考えると、怖くて怖くて体が寒くなってしまいます。だから、元気になりたいっていう気持ちと同じくらい、もし、僕が居なかったらお母さんはもっと楽になれるのに…。ついついそう考えてしまうのです。
いくつもの季節が流れ、僕の背も伸びると「ちょっとくらいなら外に出てもいいよ」って、お医者様が言ってくれました。その日はとにかく嬉しくて、学校から帰って来た正夫君に、真っ先に外に出ている姿が見せたくて、下校時間まではまだまだ時間があるというのに、意味も無く家の前をうろうろしたのです。そして、前の道に人影が見える度に「正夫君かな?」「今度こそ正夫君かな!?」と、ドキドキしながら過ごしたのです。気がつくと、結構な時間、僕は何をする訳でもなく、ただただ家の前をうろうろしていました。よくよく考えたら、これだけの時間、外にいられたのだから、もうちょっと遠くまで行ったりすれば良かったと後悔もしたのだけれど、普段窓から見えている以外の場所は、さすがに怖くて一人では行く勇気が出ませんでした。まったくもって僕は小心者で臆病者です。いつも正夫君や小梅ちゃんが語ってくれる裏山の探検話や、川下りなんかの冒険話と比べたら、この『お外初体験譚』は、えらくこじんまりしていると、我ながら少し落ち込みました。そして、こういうのを『泣きっ面に蜂』と言うのかも知れません。さんざん正夫君が戻ってくるのを待っていたというのに、よりによって最初に僕を見つけたのははづきちゃんで、意地悪そうな顔をしてこっちに走ってくるから、思わず家の中に飛び込んでしまったのです。結局、この日は正夫君とは会えず、本当に、骨折り損のくたびれ儲けな記念日になってしまったのでした。
それは、虫の声がとてもうるさい夜のことでした。その日、どなり声がしたのは、はづきちゃんの家で、最初はさすがに「ざまみろ!」と、思ったけれど、どんなに時間が経っても、その声はおさまりませんでした。だんだん怖くなって来た僕は丸まって、聞かないように、聞こえないようにってしたのだけれど、隣の声が筒抜けなこのアパートでは、どうやっても聞こえてしまうのです。随分と長い間、はづきちゃんのおばさんの怒鳴り声や、壁を殴る音、そして、大家さんが仲裁に入る声が聞こえました。僕はまるまって震えたまま、隣で寝ているお母さんにくっつきました。そして、いつか元気に、もう少し大人になったなら働いてお金を稼ぎ、二人一緒にこんなアパートは出るんだ。ちゃんとした家で暮らしたいんだ。そう思いながら震えたのです。だけど、そんなささいな夢どころか、弱いまま大人になって、一生お母さんに世話をかけるような不安な未来すらも、僕には来ないという事を次の日に知ったのです。
その日、朝早くに僕の家を訪ねて来たのは見知らぬ二人のおじさんでした。そして、
「幸太郎くん、おじさん達と一緒に行こうか?」
「これから行く所は食べる物も何も心配する事ない場所だから安心していいんだよ」
「幸太郎君みたいな子供が沢山住んでいる楽しい所なんだよ」
と、言って、嫌がる僕を無理やりアパートから連れ出したのです。
「昨日ケンカしてたのは、はづきちゃんの家だよ! うちじゃない!」
「お母さんは? お母さんは一緒にこないの!?」
僕は何度も必死にうったえましたが、返ってくる答えは
「おちついたら、きっとまた一緒に住めるようになるから」
「残念だけど、お母さんに君の居場所は教えられない決まりなんだ」
と、言われるだけだったのです。
僕は泣きました、さんざん泣いたけれど結局おじさん達は僕の言う事なんて何も聞いてくれず、そのまま引きずられるようにして車に乗せられてしまったのです。
(二)
「幸太郎兄ちゃん、遊んでよ!」
「幸太郎兄ちゃん、勉強を教えて!」
そんな声が聞こえて振り向くと、僕の部屋の入り口には幾人もの小さな子供達が集まっていました。そして、「やれやれ、今、勉強し初めてた所なんだよ?」と答えたすぐ後に、少しだけ天井を眺めて考えを巡らし「しかたないなぁ、ちょっとの間だけだよ!」と、しぶしぶ立ち上がったのです。
「かくれんぼだよ、かくれんぼ!」
「ちがうよ、先に勉強教えてもらうんだよ!」
「うーん、じゃあ、しりとりでもやろうか? 頭の体操にもなるよ!」
そう提案すると、子供達は嬉しそうに飛びあがりました。そして、広いホールの片隅で、輪になるようにして遊び始めたのです。ふと、視界に入った施設の窓には、鮮やかな新緑に縁取らた、頂にまだ白い雪を抱く輝く高い山々が見えました。僕は、あれからどれくらいの移り変わる季節を、新しくあてがわれた窓から眺めたのでしょう。舞う桜の花びらを見ました、降り積もる雪も見ました。そして、季節が移り変わるにつれて、僕の背がまた伸びるにつれて、いつしか外を眺める事も、病気をすることさえもめっきり減ってしまったのです。
「どうしたの、幸太郎兄ちゃん、またお外見てたの?」
ふと、そんな声が掛けられて、しりとりの途中だというのに外の景色を眺めていた自分に気が付きました。そして「ごめん、ごめん」と照れくさそうな顔を作ると、また、小さい子達の相手をし始めたのです。そう、これが、今の僕の日課なのです。
あの日、幾つかの場所を連れ回され、最後に連れて来られたここは、あの古いアパートとは違って、白くて、広くて、清潔な真新しい建物でした。そう、僕と似たような家庭環境の子供達が入る、『施設』と呼ばれている所でした。あの時二人のおじさん達が言ったように、本当に沢山の子供達が共同で生活をしている所だったのです。もちろん、窓から見える景色も違いました。L字に建てられた施設の白い壁と並ぶ個室の窓、目の前に広がる大きなグラウンドと、その縁に並ぶように生えた背の高い立ち木は桜で、春が来て、吹く風が柔らかくなった頃には満開の花を咲かせたのです。
もちろん、景色や環境が良くなったから、すぐに新しい生活に馴染めたか? と、言われれば、そうではありません。ここに来てからしばらくの間はお母さんや、正夫君達の事を思い出して、毎日泣いて暮らしていました。それこそ、もし、この世にタイムマシンがあるならばあの日に戻りたいと、何度も何度も思ったくらいです。それと、辛かったのはそれだけではありませんでした。そう、ここで働いている職員さんの中には嫌な人もいたのです。とくに、あの時僕を連れに来た二人のうち、背の小さい方の浜本さんなんかは凄く意地悪で、「ここに入ったら、もうお母さんには会えないからな」とか言うので、来たばかりの頃は出される食事は豪勢でしたが、あまり食欲が湧かず、ただ、ただ外の景色を眺めてばかりでした。
でも、ここでの生活にも慣れ始めると、幾つか分かって来た事がありました。そして、それに気が付いて、僕は変わったのです。まず、最初に僕に元気をくれたのは、グラウンドから見下ろす街の景色です。たぶんこれは、あの頃も窓から外ばかり見ていた僕だから気付いた事なのかも知れません。そう、この、小高い山の中腹に立つ施設から見える街並みの中に、いくつか特徴的な建物があるのに気が付いたのです。そして、見える角度こそ違いましたが、それはあのアパートから見ていた物と同じだったのです。そう、あの日、色んな所を連れまわされて、幼心にもの凄く遠くまで連れて来られたように感じて落ち込みましたが、実は、同じ街に住んでいたのです。
次に僕に希望をくれたのが、ここに暮らす沢山の子供達でした。でもそれは『皆が仲良くしてくれた』というのとは違います。まあ、もちろんそれも大きかったのですが、むしろ重要だったのは、その顔ぶれでした。そう、ここは子供ばかりが集められる施設ではあるけれど、その年齢にはムラがあって、小さい子もいたけれど、まるで大人のようにも見えるお兄さんや、お姉さんも一緒に生活していたのです。そして、定期的ではないけれど、どれくらいか置きには、必ず新しい子供が増えるのです。こう言うと、とても当たり前の事を言っている気もしますが、そこが重要だったのです。だって、部屋の数も決まってますし、入って来る子ばかりでは、いつか施設はパンクしてしまうと思ったのです。
そして、それは案の定でした。ある日、僕は見たのです。自立できる年齢になったお兄さんや、お姉さんが卒園していく姿を。
そうなのです、一生ここに居る訳ではなかったのです。
そして、僕は泣くのを止めました。
一つの計画を思い付いたのです。そしてそれが、僕の日課となりました。
そうなのです、一日でも早く、自立出来る大人だと認めてもらえれば、その分だけ僕の卒園が近付くと考えたのです。それからというもの、入園したばかりで元気が無い子や、泣いてばかりいる子を見つけると、率先してお話を聞いたり、一緒に遊んであげるようにしたのです。とりわけ、子供が好きという訳ではありません。どちらかと言えばうるさいし、面倒臭いです。でも、優等生であれば、早くこの施設を出られる。お母さんに会いにいけると考えたのです。もちろん、小さい子の世話は簡単ではありませんでした。でも、そんな時は、立派な大人になった僕の姿を見て、驚くお母さんの顔を想像するんです。すると、不思議と頑張れました。そうなのです、真っ暗だと思っていた未来に、一本の道が現れたのです。そして、諦めてしまっていた子供の頃の夢、いつか自立して、自分で家を借り、お母さんと一緒に暮らす。僕が歩いているこの道の先に、確実にそれがあるように思えて嬉しかったのです。
それは、窓の外に植えられた紫陽花のつぼみが膨らみ始めた日の出来事でした。その日も僕は、日課の職員さん同伴の外出の時間から戻ってくると、施設の別棟、職員室のあたりが賑わしいのに気付いたのです。それは、ここに来てもう何度も見た、さして珍しくもない光景でした。そう、遠目に、新しい子が車から降りてくるのが見えたのです。同行していたのも、僕の時と同じ浜本さんと、吉岡さんだったので間違いありません。
『次は、どんな子だろう』
『早めに施設に馴染んでくれるとありがたいな』
僕は、そんな事を思いながら、施設の玄関に入ると、すでに小さい子達が新しい仲間の話題で盛り上がっていました。確かにまあ、ここは、何かと至れり尽くせりな所ではありますが、日々の変化があるかと言えば、あまりありません。ですから、連れて来られる子には申し訳ないけれど、こういう変化は嬉しいですし、特に、小さい子達にしてみれば、今度は自分達が先輩になり、少なからず威張れるだろうと想像すると楽しくて仕方ないみたいです。まあ、なってみると、先輩は先輩で何かと大変なのですけどね。
部屋に戻り、窓から外を見ると、すでに新しい子の姿はありませんでした。たぶん、今は色々手続きをしているのでしょう。そして、そのまましばらく遠くの山を眺めていると、突然辺りが暗くなり稲光が走りました。僕は思わずベッドの上に尻もちをつくと、ものすごい勢いで屋根に雨粒が落ちてくる音が聞こえたのです。僕は、新しい子の心配よりも、雨が降り出すよりも前に戻って来れた事に胸を撫で下ろすと、そのまま瞳を閉じました。
その日の夕方、部屋の外が賑わしいのと、さらに強くなった雨音で目を覚しました。どうやら、あのまま眠ってしまったみたいです。寝ぼけた頭のまま窓から見える空は暗い雨雲ばかりで、自分がどれくらいの間寝ていたのか、すぐには分かりませんでした。ほんのちょっとだけなような気もするし、実はとんでもなく長い時間眠ってたんじゃないかとも思いました。そして、そのままぼんやりと思いを巡らせていると、不思議な事に気が付いたのです。そう、いつもならこんなに長い間寝てる事なんてないんです。そう、昼寝する間も与えてもらえずに、小さい子達にせがまれて遊びや勉強に付き合わされるのに、今日に限っては一度も催促の声が無かったのです。
大きなあくびをして、一つ、二つ背伸びをしながら部屋を出ると、その理由はすぐに分かりました。ホールの先にある玄関に黒山の人だかりが出来ていたのです。そうです、僕は、新しい子がやって来た事を思い出したのです。
少しだけ気になってつま先立ちになったけど、見えるのは皆の背中ばかりで、肝心の新しい子の姿はほんの一瞬しか見えませんでした。どうやら今回は女の子のようです。俯いて涙を流しているのが見えました。しかも、おそらく職員室から来る途中に雨に濡れてしまったのでしょう。その姿はますます悲しげに見えたのです。
僕は、そのまま人ごみの中には進まず、踵を返して再び自分の部屋に戻りました。せっかく小さい子達が夢中になってくれているのだから、今のうちにもう少し横になろうと考えたのです。もちろん、悲しそうな女の子の姿は気になりましたし、胸に言いようのないザラザラした感じが残って『せめて声をかけてあげた方が良いかったかなあ』とも思ったのですが、それはそれ、過去に幾度か失敗していたので、最初の数日はそっとしておいた方がいいと決断しました。
『小さな子の面倒を見て、優等生として一日も早くこの施設を出る』
それを思い付いた頃は、新しい子がやってくる度に、真っ先に人ごみを掻きわけて「何かあったら、僕に言ってね!」「相談してね!」と、声を掛けた時期がありました。でも、無理やりに親元を離されてすぐです、全員が全員、素直に話しを聞いてくれるとは限らないのです。実際、「大きなお世話だ、お節介焼きめ!」と、怒鳴られた事もありましたし、その子は今でも僕の事を嫌っています。だから、最初はほっておくのが良いと学んだのです。数日様子を見て、自然と皆に馴染んでくれれば恩の字ですし、馴染めない場合は、日に日に取り巻く子供達の数が減り、いつかは孤立するはずです。声は、そこで掛ければ良い。そう学んでいたのです。
でも、部屋に戻り、一歩、もう一歩とベッドに近づくにつれて、自分の中にあるザラザラした感情が益々膨れ上がっているのに気がつきました。何だか大切な事を忘れているような、そんな違和感があったのです。そして、しばらくそれが何だか考えると、どうにも浮かんでくるのは、さっきの濡れた女の子の顔でした。そして、次の瞬間、僕は慌てて部屋を出たのでした。そのまま人ごみへと近づき、掻きわけ、皆の背中越しに女の子が良く見える位置に来ると、自分の持った違和感と胸騒ぎの正体が分かったのです。
女の子は、やはり雨に濡れたまま俯いて泣いていました。周りを囲む賑やかな子供達とは対照的に、一言も喋らず、ずっと俯いて肩をすぼめ、震えるようにして泣いていました。そう、遠巻きにちらりと見た時は、その寂しげな印象ばかりに気を取られてしまい気がつきませんでした。
そこに立っている女の子が、あの、はづきちゃんだったという事に。
いつしか、つぼみだった紫陽花は、綺麗な水色の花を咲かせました。日に日に、静かに雨が降ることが増えて行く頃になっても、はづきちゃんは誰とも口をききませんでした。いつも部屋にこもっているからなのか、施設の中で彼女を見る機会はあまりありませんでしたし、稀にホールで見かける事があっても、楽しそうに遊ぶ皆の輪には入る事なく、少し離れた壁際で、膝を抱えるようにしている姿ばかりが目に付いたのです。
僕は、そんなはづきちゃんが気になりながらも、一向に彼女の元へは行けませんでした。もちろん、周りの皆からも「幸太郎兄ちゃんの出番だよ!」「幸太郎、お前がなんとかしろ!」と、何度も背中を押されましたし、自分自身、いつもならとっくにそうしていたはずです。でも、どうにも足が前に進まなかったのは、やっぱり彼女が、あの意地悪で嫌な思い出しかないはづきちゃんだったからなのでしょうか。それとも、あまりにも変わってしまった様子に、掛ける言葉が見つからなかったからなのでしょうか。そして、日に日にはづきちゃんは、やつれていったのです。
梅雨の間も、僕は日課の外出を続けました。中には、雨の日には外に出たくないと言って、施設に留まる子供達もいましたが、僕は率先して散歩に出たのです。なぜって、部屋の中でじっとしていられなかったからです。だって、気がつくと、はづきちゃんの事ばかりを考えてしまうのです。いいえ、きっと、うじうじと色々考えて何もしてあげられていない情けない自分の事ばかり考えていたのだと思います。だって、優等生であるために、施設に馴染めない子達を助けると目標を立てたのに、彼女に対してはちっとも実行できていない後ろめたさで胸が痛んでばかりだったのですから。
山肌に沿った雨上がりの農道を、田植えが終わったばかりの水田や、小川のほとりに咲く水仙の花を見ながら思いを巡らせます。少し冷たい透き通った空気を吸い込むと、何だか頭の中の靄も晴れていくような気がしました。
やっぱり、こうやって悩んでばかりいるくらいなら話しかければいい。何度考えても、何通り考えても、行き着く答えはそれだけでした。そう思うと、気分も清々しくなるのですが、でもやっぱり、言葉にしてしまうとたった一言なのに『どのように』という段になると、やはり簡単に答えは出ないのです。足がすくんでしまうのです。
『相談事があったら、気軽に僕に言ってね』
『施設で分からない事があったら、僕に聞いて』
新しい子供がやって来る度に、何度も何度も繰り返してきたその言葉が、今回ばかりはどうにも出て来そうにないのです。あのヤンチャで我儘な彼女を知っているからこそ、あそこまで変わりはてた悲しげな姿を見ると胸が痛くなって、どの言葉も無責任な上辺ばかりの物のように思えてしまうのです。しかし、どうして彼女はあれほどまでに変わってしまったのでしょうか。この施設に連れてこられたばかりの子らは、もちろん最初は泣いて過ごす子も少なくはありません。でも、時間が経つにつれて少しずつ打ち解けて行くのが普通なのですが、彼女の場合は違ったのです。とても、とても長い間、深い悲しみの中にいるような気がしたのです。
お決まりの散歩コースも終盤に入り、施設の門へと続く谷川に沿って舗装された坂道を登る頃になっても、僕は彼女に声をかける勇気が出ないままでした。見上げると、梅雨時の暗くて重い雲が見えました。
敷地に入ると、植えられた紫陽花を眺めながら職員室の壁に沿って進みましたが、その道のりはいつもより遠く、重く感じました。一歩、また一歩と足を進める度に、掛ける言葉も思いつかないまま、はづきちゃんに話しかけなければいけない時が迫って来るように思えたのです。それとも、やっぱり今日も先送りにして、部屋でうづくまるようにして思い悩むのでしょうか。なんだか、それも嫌なような気がしました。
「幸太郎…」
職員室を通り過ぎた辺りで僕は、思わず足を止めました。不意に名前を呼ばれたのです。それは、聞き覚えの無い声でしたが、何故だか声の主が誰だかすぐに分かってしまったのです。
「…幸太郎、だよね?」
辺りを見渡しても、誰の姿もありませんでした。そして、しばらく考えると、それが、僕が立つ壁のすぐ後ろにある窓から聞こえて来る事に気がついたのです。
「…随分大人っぽくなったんだね、幸太郎」
すぐに返事が出来ませんでした。しばらくの間、足元の土をつま先でいじりながら、言葉を探して、ようやく、
「…よく、僕だって分かったね」
と、たったそれだけ答えたのです。壁の向こうの彼女は小さく笑いました。
「幸太郎、毎日散歩してるでしょ? だから分かったの。だって、ここに来てからずっと窓の外ばかり見てるんだもん。なんだか、私があの頃の幸太郎になっちゃったみたい…」
と、語った言葉の最後の方は、とても寂しそうでした。
そうです、それは、はづきちゃんの声だったのです。
結局この日、僕達がこれ以上言葉を交わす事は無ありませんでした。本当は、せっかく話しかけられたのだから、これを機会にもっと沢山話さなきゃ、元気づけてあげなくちゃ。と、思ったのだけれども、頭に浮かぶ言葉はどれも違う気がして、結局言葉にならなかったのです。そして、僕の外出時間は終わり、浜本さんに連れられて建物に戻ったのです。
窓の外では、まだ花を咲かせていない紫陽花達が風に葉を揺らしていました。
つづく
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