第2話【いまさら〇〇だなんて】


「先生、さようなら。皆さん、さようなら」

 幾つもの元気な声に重なって、土曜日の放課を告げるチャイムが鳴った。それが、レーススタートの合図だった。号令一発、まだ皆がランドセルに教科書を詰めたり、午後からの予定を話し合ったりしているのを尻目に、勢い良く最初に廊下に飛び出したのは僕だった。そりゃそうだ、なんせ扉に近い一番後ろの席だったし、終わりの会の途中からこっそりランドセルに片手を通して準備していたんだから。なんてったって、相手は断然格上の強敵達、僕に勝てる可能性があるとすれば、あの手この手の策を練る事だけだ。

 飛び出した廊下には、まだ誰の姿も無かった。けれど、後ろから次から次へと勢い良く上履きを鳴らす音が聞こえてきたから、僕はそのまま振り返らずに駆け出すと、まだ終わりの会の途中の3組や2組の前を走り抜けた。先生の話を聞きながら、皆がこっちに注目しているのに気が付いて、どうにも恥ずかしくなって、思わず下を向いてしまったけど、それでも床を蹴る足だけは緩めなかったんだ。

「ずるいぞ、水野!!」

後ろから元気な新井の声がした。続いて

「待ってよ…」

と、少し甲高くて頼りない蔵田の声もしたけれど、一番負けたくないアイツの声だけが聞こえなかった。でも、いる。絶対にすぐ後ろにいる。いつもみたいに冷静で、うすら笑いを浮かべた余裕の顔で、僕のすぐ後ろを走ってるはずなんだ。

…うん。これは、絶対に負けられない勝負だ。

 僕はもう一度それを確認すると、手洗い場の前をくの字に曲がった。上履きがキュキュっと悲鳴を上げる。そして、そのまま目に飛び込んできた階段を駆け降りた。最初は一段抜かし、二段抜かし、最後は一気にジャンプした。そして、腕立て伏せの要領で踊り場の壁をクッションにして思いっきりターンした。次の階段は長かった。さすがにこれは飛べないと思っていたから、手すりにお尻を乗せてそのまま一気に滑り出した。本当は、こいつは禁止されているんだけど、まだ、下の階には誰の姿も見えなかったから、ここぞとばかりに滑り降りた。

思わず、心が躍った。だって、終わりの会の間中、頭の中で計画した通りに事が進んでいるんだから。僕達、5年4組の教室は3階、次が2階。このままのリードを守って、もう一回階段を下りればゴール。僕が下駄箱一番のりだ。

だけど、計画通りに作戦が進んだのはここまでだった。長い下りの階段の手すりを滑る勢いがつきすぎて止まれなかったんだ。僕は、二階の廊下に着地と同時にすっ飛んで、そのまま正面にある手洗い場に激突してしまった。幸運にも咄嗟に体をひねったから、ランドセルがクッションになってたいして痛くは無かったけれど、それでも転がってる隙にあっけなく新井と蔵田に抜かれてしまった。

「みっずのー、おっさきー!」

「ご、ごめん、水野―!」

そう言って、階段を駆け下りて行く二人の背中が見えた。

 そのすぐ後だった。

「大丈夫かい、水野?」

そんな声がして顔を上げると、目の前に差し出された手のひらが見えた。学校指定のジャージじゃないこ洒落たカーデガンの袖が見えて、僕は思わず悔しくなってしまった。そう、一番負けたくない相手に情けをかけられてしまったんだ。顔をあげると、それはやっぱり長門だった。 

ヤツは立ち止り、中腰になって、心配そうな顔をしながらこっちに手を伸ばしてた。僕は、思わずその手を払いのけると、そのまままた走りだした。悔しくて恥ずかしくて、顔が熱かった。

結局、下駄箱ダッシュは結局最下位だった。あいつ、長門には、次の階段であっけなく抜かれてしまった。そして、下履きに換えた僕らはもう一度競争を始めた。

まだ誰も居ない土曜日の校庭を僕達四人は駆け抜けた。見上げた空は曇天で、分厚くて濃い灰色の雲が空一面に広がっていた。いつもより中身の少ないランドセルが、地面を蹴るたびにマラカスみたいに踊っていた。



  第三話 【いまさら○○だなんて】


               (一)

 事の始まりは、今日の3時間目の終わりだった。あとは掃除と、最後の終わりの会だけの半ドンで、すでにお休み気分の皆は席を離れてお喋りを始めていた。僕は一人、机の上で頬杖をついたまま、廊下の窓から見えるたわわに稲の実った広がる田んぼを眺めながら、家に帰ったら新喜劇を見ようだとか、お昼はきっと鮭の切り身だとか、たまには赤魚とかハマチとかがお昼から食べれたらいいのに、なんて事を考えてた。

すると、次第に教室の反対側、窓側の席が賑やかになったんだ。でも、それはいつもの事だったから、見たところで気分が悪くなるだけのような気がして、僕はそのまま風に吹かれる田んぼを眺めてた。でも、そんな斜に構えた些細な犯行も、不意に隣の席の椅子が引かれる音がしてあっけなく崩れ去ってしまった。思わず、反射的に音がした方に顔を向けると、賑やかになり始めた方に向かって歩きだす泉さんの背中が見えて、そのまま目で追ってしまっていた。

 やっぱり、そこにあったのは固まって雑談するクラスメイト達の輪で、その中心には案の定、僕が嫌いな長門が笑っていた。皆、学校で決められた体操服を着ているのに、一人だけ私服で、髪も、男子のくせに長くてお洒落なのがますます勘にさわった。そうだ、あいつが転校してきてからは、いつだって皆の中心にいる。僕は、それが何となく嫌だった。なにが嫌かって、最近では僕と一番仲が良かったはずの泉さんまでもが長門にばっかり話しかけるのだから。アイツを見る度に心臓が胸やけするみたいな感じになったけど、そういうのをなんて言っていいかは分からなかった。


 長門が転校してきたのは、半年前、僕達が5年生に上がった時だった。親の転校で東京からやって来たって皆が噂していたのを覚えてる。うん、あの時もそうだった、始業式の後、ホームルームで紹介されたアイツは、私服だった。それも、僕達が着る服なんかとは全然ちがって、なんとも垢ぬけて大人っぽい格好だったから、まるで「お前達は田舎者だなぁ」と言われてるみたいで最初からあまり好きになれなかった。まあ、そんな調子だったから、あいつはあっという間にクラスでも浮いた。でも、不思議な事に誰もいじめようとか、無視しようとか、そんな話にはならなかったんだ。それどころか、日に日にアイツの周りには人が集まり始めて、今ではクラス一番の人気者になってしまった。まあ、よくよく考えると、それは不思議でも何でもないんだけど…


 僕は、他の教科はあまり得意では無かったけれど、音楽以外では算数が好きで、何回かクラスで一番を取った事がある。代わりに泉さんは算数が少し苦手で、僕の苦手な国語が得意だったから、たまに放課後に教え合えっこするのが、一番の楽しみだった。

あれは、5年生になって一番最初の算数のテストの時だったと思う。

「今回のテストは皆、あまり良く無かったぞ!」

そう言って、教壇に立つ先生がひとりづつ名前を呼んだ。プリントを返してもらった僕は、点数を見て心が躍った。でも、顔に出すのはみっともないと思ったから、必死にほころぶ口元に力をいれながら席に戻った。92点だった。隣の席の泉さんが「ねえねえ、どうだった?」と聞いてきたので、素直に点数を告げた。帰ってくる彼女の感嘆の言葉と、驚く顔を想像して心が躍った。でも、その反応は戻って来なかったんだ。だって、すぐその後に、クラス中からどよめきが上がって「長門、100点だってよ!」という声が沸き立ったのだから。泉さんも、もう僕の方なんか見てなくて、戻ってくる長門を見つめて拍手してた。「すごーい、長門君!」という声が、とても悔しかった。


 あれは、5時間目の音楽の時間だった。昼休みも終わって音楽室に向かう階段を上っていると、上の階からピアノの音が聞こえてきた。でもそれは、うちの学校じゃあよくある光景で、どうせ早めに音楽室に行った誰かが、昼休みを利用して『猫ふんじゃった』でも弾いているのだとあまり気に留めなかった。だって、それなら僕だって低学年の頃には弾けたのだから。

でも、階段を登り切り、音楽室の前まで来ると思わず足を止めてしまったんだ。だって、聞こえてきたのは猫ふんじゃったなんかじゃなくて、名前は分からないけど、優雅に流れるその音色はクラシック音楽だったのだから。

最初は「ひょっとして、先生、もう来てるのかな?」とか思って扉を開けたんだけど、なんと、弾いていたのは長門だった。クラスの皆がピアノを囲み、聞き惚れてるのも見えた。そして、やっぱりその中にうっとりしている泉さんの姿が見えて、僕はますますアイツが嫌いになった。でも、この事を皮きりに、全校集会や先日の運動会でも、長門がみんなの前で指揮をしたり、ピアノで伴奏するというのがうちの学校では当たり前になっていった。


 唯一、最後まで長門に反抗的だったのはスポーツ万能の新井だった。そりゃそうだろう、だって、アイツが来るまでは、彼がクラスで一番目立っていたのだから。正直、あまり勉強は出来なかったけれど、1年生の時から野球の少年団に入っていて、クラスで一番足も速かったし、体育の時間は自他共に認めるスターだったと思う。

 あれは、体育の50m走の時間だった。授業が始まると、新井はしきりに長門に話かけていた。何だかクラスの皆もそれを気にしていた様子だったので、何気に泉さんに聞いてみたら「新井君が、長門君に競争をもちかけてるみたい…」と、教えてくれた。そして、先生の「2列に並べよー」の声に合わせて二人が申し合わせたように隣に並ぶ姿が見えたんだ。というか、僕には二人の間に火花が散っているのすら見えたくらいだ。「どっちが勝つと思う?」皆がひそひそ声でそんな話題で盛り上がっていた。女子のほとんどは長門を応援していたし、男子は僕と同じで、新井がアイツをぎゃふんと言わせるのを期待する声が多かった。そして、二人の番が回って来た時に、僕は自分の目をうたがった。

 鼻息荒く、スタートラインに立った新井は、かけっこのポーズを取りながら気合を溜めていたのだけど、隣に立った長門は、まるでいじけた子供みたいに、しきりにグランドをつま先で蹴っていて、正直今から競争するヤツには見えなかったんだ。皆も「なにあれ?」とか「走る気あるの?」なんてなんて言っていた。でも、先生の「位置について!」の声で空気が変わった。

 かけっこのポーズの新井の横、長門の姿がふっと僕の視界から消えたかと思うと、次の瞬間、あいつはつま先で作った窪みに足を置き、地面に両手を着けてグっとお尻を突き上げていたんだ。そう、それは、テレビでしか見たことのないクラウチングスタートだった。

 風だった。悔しいかな、あれは風だったと思う。ピストルの音に合わせて飛び出した長門は、そのまま新井を引き離した。両方の掌は握られる事はなく、ピンと指先を伸ばした姿勢のままどんどん加速していった。そして、そのままゴールした。

 その日以来、新井や、他の男子達もまた、長門を取り巻く輪に加わった。

 そうなのだ、こいつは憎たらしい程に、僕達とは役者の違うスーパーマンだったんだ。そして、何よりも憎たらしいのが、それを一切鼻にかけずに、いつもニコニコしている事なんだ。いつの頃からか、席も隣だと言うのに、僕は泉さんと話す事は無くなっていた。泉さんは、いつでも長門の事を見ていた。だから、僕はあいつが大嫌いだ。


 

長門を中心に盛り上がるクラスメートを尻目に、波打つ稲穂を見ていると、突然名前を呼ばれて驚いた。慌てて振り向くと、そこには僕の嫌いな顔があった。

「あのさ、水野、今日の放課後、新井君達と一緒に遊ぶんだけど、良かったら一緒にどうだい?」

それは、そんな声だった。もちろん、その声の主はアイツだった。

 なんとなく、長門が声をかけた意図は分かっていた。いつまでも自分の輪の中に入らないまま、一人ぼっちであぶれている僕を何とかしようと思ったに違いないんだ。そう、僕を自分の陣営に入れようと思ってるんだ。『かわいそうなヤツ』って憐れんでるに違いないんだ。でも生憎様、僕はいじめられているのでも、あぶれているのでもなくて、そっちに行くくらいなら一人の方が良いんだよ。

 当然、誘いは即答で断るつもりだった。

…だったのだけれども。

それを聞きつけて、「じゃあ、玄関ダッシュな!」と新井が盛り上がり、それにのっかかる形で皆も面白がる声の中、

「長門君が一番に決まってるじゃない!」

という泉さんの声が聞こえたもんだから、思わずカチンときて、勝負する羽目になってしまったんだ。


 校庭を出ると、そのまま揃って『おばば横町』に出た。これは、校門側じゃなくて、グラウンドの横から学校を出る道で、車一台がやっと通れるような幅で、長い垣根が続く細い路地だった。そして、その途中に一軒だけ小さな『おばばの店』って呼ばれてる駄菓子屋があって、そこは僕達の溜まり場だった。

 視線のずっと先に、長門と新井のランドセルが見えた。悔しいけど、僕はどんなに頑張って足を速く動かしても、まるで水の中にいるみたいに上手に走れなくて焦っていた。たぶん、さっき階段で転んだせいだとは思うけど、それでも、普段は『僕は本を読むのが好きです…』といった感じの大人しい蔵田にさえ追いつけずにいるのだから、悔しくて悔しくてたまったもんじゃなかった。

 それでも、『おばばの店』の前を通り過ぎる時は、ついつい目線をお店に移してしまった。お目当ては、店先にズラリと並んだガチャガチャで、何日か前に一つ空になっていたから、案の定、土曜日の今日は新しいシリーズが加わっていた。どうせ、上手に走れないし、思わず一回回していきたい衝動に駆られてしまった。でもその瞬間、誰かに見られてる感じがして背筋が震えたんだ。慌てておばばの店の中に目をやると、それは、並べられた色とりどりの駄菓子の一番奥、真っ暗な所に居たおばばだった。座布団の上にちょこんと座ってて、目だけが赤く光って僕を見てたんだ。ふいに口元が「いらっしゃい」という形に動いたのに気が付いて、

「待って! 待ってくれよ蔵田!」

と、思わず怖くなって声を出さずにいられなかった。そして、ついつい目の前を行く蔵田に向かって駆け出した。案の定、物静かで、大人しい蔵田は「どうしたの、水野?」と言って立ち止まってくれたから、僕は一目散に駆け寄った。

「…い、いや、なんでもない、ただちょっと、走るのに疲れて」

「…実は僕もそうなんだ、声かけてくれて良かったよ。あの二人には叶わないから、ぼちぼち歩きたかったんだ」

と、笑ったから、一気に心が和んでしまった。


 新井と長門は、少し先、おばば横町が終わる四つ角で僕達を待っていた。そして、てくてくと、蔵田の好きな本の話を聞きながら歩く僕らが合流すると、新井はそのまま「じゃあ、1時に例の場所で!」と言って、ニカっと笑うと、角を曲がって走って行ってしまった。顔も腕も足も日に焼けて真黒なのに、妙に歯だけが白かった。

 それに続いたのは蔵田で、「じゃあ、僕もお昼食べてくるね、また後で」と、手を振って、今度は新井とは反対に向かって歩き出した。そして、僕は下駄箱ダッシュに気がとられて肝心な事を忘れていたのに気がついた。そう、それは単純な話で、蔵田が言った通りに「お昼ごはん」だったんだ。

 よくよく考えると、新井も蔵田も割とこの辺に住んでる町の子だったけど、僕の家はおばば横町とは全くの反対方向の田舎で、眺めていた田んぼのずっと先にあるから、今からお昼に戻っていたら、確実に1時なんて時間には間に合わないと思った。それに、何より二人が居なくなってしまって、長門と二人取り残されてしまったのがとにかく気まずくて、僕は適当な理由を探して昼からの誘いを断ろうと、あれやこれやと考えた。

「水野ん家は、こっちじゃないよね? よかったら、うちでお昼食べないか?」

ランドセルのバンドに親指をひっかけ、しきりに自分のつま先を眺めて断る理由を考えていたら、突然そんな言葉が聞こえてきて、思わず顔を上げた。目の前で、長門がニコニコとほほ笑んでいた。僕は、慌ててしまい、口を突いて出た言葉は「そ、そんなの悪いから」だった。どうせならキッパリと「いらない!」って言えば良かったと気付いたのは「いいよ、いいよ、心配しなくても、この時間はお父さんもお母さんも居ないから」という返事が聞こえてからだった。


 空はますます黒々としていて、空気は相変わらず湿っていたけれど、不思議と雨は降らなかった。僕は、いくつかの製材所に挟まれた小さな小道を、長門の少し後ろを黙って着いて歩いた。太い丸太が高く積まれて、木を切る回転のこぎりの音が甲高く響いてた。息をするたびに、まるで蒸かしたてのお芋のような甘い香りがした。そして、それに釣られてお腹がグゥとなると、物凄く恥ずかしくなって俯いたんだ。

――そういえば、長門の家はどんな所なんだろう?

ふと、そんな事が頭に浮かんだ。なんたって、悔しいかな、こんなに垢ぬけたスーパーマンなのだから、もの凄い家に住んでいるような気がしたからだ。きっと、お父さんやお母さんは仕事で忙しくても、執事とかメイドさんみたいな人達が居て、お昼もとんでもないご馳走が出てくるのではいかと考えると気が気じゃなかった。なんせ、僕の家なんか、土曜日のお昼なんて、いつも朝ごはんに毛が生えた、ご飯に振りかけと漬物の煮たヤツ、せいぜい良くても小さな切り身の鮭やサバが出るくらいだから、とんでもないご馳走とか出されても作法とか知らないし、何だか緊張して喉を通らないような気がしたんだ。

「どうしたんだい、水野。さっきから黙って俯いてるけど?」

不意にそんな声が聞こえた。僕は思わず慌てて

「い、いや、きっと長門の家って昼からハマチとか、赤魚の丸焼きとか食べてそうで…」

と、思わず口にしてしまって後悔した。すると、それを聞いた長門は小さく吹き出すと、そのまま笑って、

「やっぱり、水野は面白い人だ! だから、ずっと話してみたかったんだ!」

と続けた。『ずっと話したかったんだ』という言葉に思わず驚いて耳を疑った。だって、僕を誘ったのも憐れみからだって、ずっと思ってたんだから。そして、驚いて何て言葉を返そうか咄嗟に思いつかずに言葉を探していると、長門は急にいつもの笑顔を曇らせて、少し寂しそうに話しつづけたんだ。

「そんな、ハマチとか赤魚のお頭付きなんて食べてないよ、それに…」

「…ん? それに?」

「ハマチや赤魚なんてそんな立派な物じゃないよ、むしろ僕みたいな嘘つきの事だ…」

それだけ言うと長門はそのまま黙ってしまった。その姿が普段のヤツからは想像出来ないくらいに元気がなくて寂しそうに見えた。僕は『え、どうして? ハマチも赤魚も超高級じゃないか!?』と思ったけれど、なんだかこの話題を続けるのは悪い気がしたので、

「…ところで、長門の家ってどのへんなの?」

と、話題を変える事にしたんだ。すると長門は、

「僕の家はあそこだよ」

と、今歩いている小道のずっとずっと先を指差した。そこに見えたのは小高い丘の上に立つ幾つも並んだ背の高いビルの群で、まだ少し遠くて霞がかかっていたけれど、そこだけ雲の切れ間から光がさしていたもんだから、僕は『これが、噂に聞く高級マンションってやつか…、やっぱり都会モンは住む所も違うんだな…』と、絶句した。


「ここから先は似た建物が多くて始めて来る人は迷いやすいから、なるべく僕から離れないように歩いてね」という声がして顔を上げると、どこをどう歩いたかは分からないけれど、僕はすでにさっき見上げていたビル群のすぐ近くに来ている事に気がついた。そこは、まるで色がないように思えるくらいに白黒のコンクリートの世界で、まるで大きな図書館の本棚みたいに、ずらりと並んだ幾つもの四角い建物が見えた。どれもこれも物差しで揃えたような4階建てで、壁面には建物の順に手前から番号が振ってあったけれど、遠くまで並ぶ建物は、途中から霞んでしまって終わりが見えなかった。棟と棟の間にある芝生や、立木だけが妙に緑色だった事を覚えてる。

「う、うっわ、すご…」

思わず口をついて出た言葉はそれだった。でも、長門はまた少しだけ寂しそうな顔をして、

「こんなの少しも凄くないよ、ただの団地。いっときの仮住まいみたいなものだよ」

と、呟いた。たしかに、言われてみればそうだ。よくよく間近で見てみると、そこは高級マンション街なんかじゃなくて、まるで白黒写真のように殺風景で、どこか肌寒い感じがする団地だった。これが、俗に言うマンモス団地っていうヤツなんだろう。確かに、言われてみれば、長門はまだ転校してきたばかりだし、噂では、この街に来る前も、お父さんの転勤で何回か転校しているって聞いた事がある。一見凄く華やかに見えるこいつも、実は僕が想像してたのよりずっと、味気の無い寂しい暮らしをしているような気がした。

 僕達は、さっきよりも少しだけ間隔を詰めて、団地の建物を番号に沿って歩くと、長門は2と書かれた建物と、3と書かれた建物の間を曲がった。

「ここからは、あまりキョロキョロしないで、黙って着いてきてね」

長門は、突然そんな事を言ったけど、こんな場所に来るのは初めてで、僕はついつい3と書かれているコンクリートの建物を見上げてしまった。今にも雨が降りそうな薄暗い日だったから、ずらりと並んだベランダの窓の奥は真っ暗で、色とりどりのカーテンが束ねてある以外は、どこも同じ殺風景な窓だった。でも、次の瞬間、僕は思わず「ヒッッ」と、声を上げてしまった。暗い窓の中、束ねたカーテンの端から、顔を半分出すようにしてこっちを見ている瞳と目が合ってしまったんだ。それは、お爺ちゃんなのか、お婆ちゃんなのかは分からなかったけど、とにかくお年寄りの姿だった。そして、他の窓からも同じように僕達を見ている瞳が沢山ある事に気がついた。

 中庭に立つ僕を見つめる無数の赤い瞳。そう、僕は完全に硬直してしまったんだ。

「…ここはね、お年寄りが沢山住んでいて、僕たちみたいな子供が来るのは珍しいんだよ」

長門はそう言うと、固まって動けない僕の手を引いて、また歩きだした。

そのまま無言で『3』と書かれた建物に入った僕達は、薄暗いコンクリートの階段を登った。そして「ここだよ」と、言われたのは最上階の4階だった。長門は淡々とポケットから鍵を出すと、幾つも並ぶ赤く塗られた鉄製のドアの一つを開けた。内に見えたのはやっぱり殺風景な玄関だった。小さなキッチンがある細い通路の向こうに、大きな部屋が見えたけど、驚いた事に、そこも必要最低限の家具があるだけの、絵も花もない生活の匂いがしない殺風景な所だった。

「驚いたかい? もっと、ピアノとかある部屋を想像したんだろ?」

長門が苦笑いをしていた。僕は呆気にとられたまま思わずコク、コクと頷いた。

 食卓に着かされた僕は、まるで借りて来た猫みたいにしていると、長門は通路にあるキッチンの戸棚をあさり始めて「あった、あった、土曜日だから買い置きしててくれたみたいで助かった」と、声を上げた。そして、その中から何かを取りだすと、ニコニコしながら僕の所にやって来て「水野はどっちがいい?」と言って差し出してきたのはラップで包装された菓子パンだった。右手には焼きそばパン、左手にはカツサンド、さすがにカツは高そうで気がひけたから、僕は迷わず「…こっち」と言って、やきそばパンを手に取った。「ほら、ハマチでも、赤魚でもないだろ?」長門は笑ってた。

あんなに、煌びやかだと思っていた長門が、なんだか凄く身近に思えたというか、実は僕なんかよりずっと寂しい生活をしてたのだと思うと、迂闊にもいつの間にかすごく親近感がわいてしまったんだ。


 これと言って会話も無く、手早くパンを食べた僕達は、約束の時間が近くなってきていたので、そのまま外に出た。そして、コンクリートの階段を降り始めると、二つ目の階あたりで急に僕の後ろ手が何かに掴まれた。そしてまた背筋が凍ったんだ。だって、今度のは長門じゃないんだ。だって、長門の背中は僕の目の前にあるんだから。恐怖に駆られて恐る恐る振り向くと、それは一人のお爺さんだった。僕は泣いていたと思う。あまりに怖くて、あまりに驚いて震える事しか出来なかったんだ。でも次の瞬間、何段か下を歩いていた長門が物凄い勢いで駆け昇ってきて、爺さんの手を払ったんだ。そして、

「だめだよ、お爺さん。この人は僕のお客さんなんだから、連れて行っちゃダメだ!」

と、言った後に僕の手を掴み

「水野、走って!」

と大声を上げた。僕は短くコクリと頷くと、そのまま階段を蹴った。もちろん、学校のように木製の階段ではなくて、転ぶととんでもない事になりそうなコンクリート製だったから、一段一段確かめるように、だけど全力で駆け降りた。

 団地の建物を出ても僕達は走り続けた。途中で、長門に抜かれたけれど、この時は悔しいなんて思わなかった。ただただその背中がたのもしく見えたんだ。

僕達はとにかく必死でお爺さんから逃げた。中庭から側道に出ると、そのまま建物に振られた番号を数えながらひたすらアスファルトの長い坂道を走った。長門の背中を追いかけて走ったんだ。すると不思議な事が起こった。いや、なんて事ない、笑ってたんだ。いつの間にか恐怖は消えていて、二人で全力疾走してるのがおかしくて、気がつくと僕達は笑いながら走っていたんだ。長い、長い登り坂を走ってたんだ。



「遅いぞー! お前らー!」

「僕達、もう始めてるからねー!」

しばらく坂道を登っていると、突然そんな声がした。見上げると、少し先に広場があって、まるでだるま落としのように所狭しと二段や三段に重ねられた古い自動車の上で、こちらに向かって手を振っている新井と蔵田の姿が見えた。

「…こ、ここが『例の場所』?」

「そう、僕と新井君達の秘密の場所」

それは、小高い丘の上にある、自動車の廃棄所、スクラップ置き場だった。振り向くと、足元には僕達の町が広がっていた。

「お前ら遅いから、もう結構お宝見つけちまったぜ!」

駆け寄って来た新井が手にしていたのは、随分と歯抜けの目立つ小さなドライバーのセットだった。そして、それに続いて

「僕なんかこれだよ! なんと、まだ電池も生きてるんだ!」

自慢げに差し出した蔵田の手の中にあったのは、古い形のトランジスタラジオで、そのままスイッチをいれると、ギー、ガーという音がした。そして、しばらくダイヤルを回していると、雑音に混じって擦れた音楽が聞こえてきた。それは、何を歌っているか分からない外国語のロックンロールだった。

「じゃあ、僕達もお宝を探そう!」

それは、まるで号令だった。各々がまるで蜘蛛の子を散らすように、思い思いの車の中に消えて行く。大半は窓ガラスも割れて、シートや床に、砕けたクラッカーみたいに散らばってるのが多かったけれど、皆、器用に潜り込んでは何かかしらを漁っていた。

「ちょ、ちょっと危ないから…」

「き、汚いよ…」

と、僕が声を掛けるのにもお構いなしで、皆が宝探しに夢中になっている。そして、「うお!!!」って声がして驚くと、新井が雨でヨレヨレになった雑誌を手にして喜んでいた。それは、大人の人が読む、エッチな漫画雑誌だった。僕もさすがに、それにはドキドキしたけれど、呆れた顔を作って見せたんだ。ほっぺたや耳が熱いのがバレないか、むしろ、そっちの意味でドキドキした。

 結局、僕が車の中に潜り込む事は無かった。ただ、初めて来る自動車の廃棄所が珍しくて色んな車を眺めて歩いた。高く積み上げられた自動車と自動車の間の小道は、まるで迷路みたいでそれだけで少し楽しかった。そして、少しの間、散歩がてらに歩いていると、目の前に何だかこの廃棄所とは不釣り合いな物を見つけて目をぱちくりとさせたんだ。

…それは、一台の、ピカピカに光るオープンカーだった。

深緑の車体は艶々で、今にも走り出しそうだった。

「へぇー、NA6CE、一番最初のユーノスロードスターじゃないか、凄くいい車なんだよ、これ!」

不意にそんな声がして振り向くと、僕のすぐ後ろに長門が立っていて、目をキラキラさせながらそのオープンカーを眺めてた。

「こんなに綺麗で、今にも走り出しそうなのにスクラップなの?」

思わず、感じたままの疑問を投げかけると、長門は少し寂しそうな顔をして、車を撫でた。

「たぶん、エンジンがダメなんじゃないかな?」

「それだけ!?」

「うん、それだけ」

「他は壊れてないんだよね? 直せば走るんだよね!?」

「ああ、走るよ」

「じゃあ、なんで、捨てるんだよ!?」

「お金がかかるからさ」

「でも、エンジン以外は壊れてないんでしょ!?」

「たぶんね、でも、そのエンジンが高いんだ。この車はもう古いから、中古も安いんだよ。新しいエンジンを買ってきて、工場で乗せ換えてもらうと、同じ程度の中古車を買うよりも、逆に高くついちゃうのさ。だから、捨てられたんだよ、きっと」

 僕は、その話を聞いてなんだか悔しくて、悔しくてたまらなくなった。そして、気がつくと、目に涙の粒が浮かんでるのに気がついた。

「しかたないよ、それが豊かさなんだから」

ずっと、ずっと我慢しようと頑張ったのに、長門のその言葉を聞いた瞬間に堰が切れた、流れ始めた涙は止まらなかった。理不尽で悔しくて、止まらなかった。『豊かさ』ってこんなんじゃない。『豊かさのイメージ』ってのは、もっとふんわり柔らかくて、温かい物なんだ。でも、これは違う、冷たくて、カクカク尖ってて、全然豊かなんかじゃない。そんな気がしてならなかったんだ。

「ありがとう、水野。泣いてくれて…」

慰めるでも、なだめるでもない。聞こえてきたのはそんな長門の声だった。

「直そうよ! 皆でお小遣い集めてこの車を直そうよ! 僕、ずっとお年玉貯めてるんだ!」

長門は少し笑った。そして、「やっぱり水野に会いに来てよかった。ずっと想ってた通りの人で良かった」って言ったんだ。


 新井と蔵田が宝探しを続ける中、僕と長門は積まれた車のボンネットに並んで腰かけると風に吹かれていた。いつの間にか、頭の上を覆っていた分厚い雨雲にはいくつもの切れ間が出来ていて、隙間からは真っ赤に焼けた空が顔を覗かせていた。少しだけ肌寒い秋の風が僕達の髪を揺らした。遠くでは雑音の混じったロックンロールが聞こえていた。

 二人、言葉もなく眼下に広がる街並みを見ていると、その中に一本、細い煙があがっているのに気がついた。随分と距離はあるはずなのに、目を凝らすと細かい所まで見えて来て、黒い服を着た人達が、ハンカチで涙を拭いているのも見えた。

「あれ、僕のお葬式なんだよ」

隣から、長門の声がした。もっと目を凝らすと、一番前で泣いている喪服のお婆さんが見えて、何故だか僕は、それが長門のお母さんなのだと直感した。

「水野、ずっと君とこうやって話したかった」

「君が、想ってた通りの人で良かった」

遠くのお葬式を見つめる僕の横で、そんな声がした。そして

「最後に君に会えてよかったよ」

という、声がしたような気がしたけれど、最後の方はもう、風にまぎれて聞こえなかったような気がする。今の今まで長門が腰かけていた隣に目をやると、そこにはもう、誰の姿もなかった。眩しいくらいの夕焼けの中、夕風はスクラップカーの上で一人たたずむ僕の前髪を揺らし、遠くからは擦れた音のロックンロールが聞こえるだけだった。



                (二)

 紅葉も始まったばかりだというのに、気の早い初雪が舞う寒い夜でした。私はブラウスの上に羽織ったコートの襟を立てて、一人暗い住宅街の中を歩きました。新井君はご丁寧に住所も添付してくれたけど、一応私も長くこの街の住人をやってますからね、そこらへんは見なくても分かります。割と有名ですもん白梅堂。それに…

 今朝、何年か前の同窓会で交換して以来、初めて新井君から届いたメールは『今晩、蔵田の店で集まれないか?』という一斉送信のものでした。私は手帳に目を通し、『職員会議があるから少し遅れるけれど顔を出します』と、返信したのです。

 しばらく歩き、住宅街の中に飲食店にしては少し珍しい名前の看板が見えた時に、改めて蔵田君が、あの小梅ちゃんのお父さんだという事を思い出しました。

 彼女は、何年か前に私が担任したクラスの児童でした。よくよく考えれば、あの頃の蔵田君に似て、物静かで本が好きで、でも、優しく笑う女の子でした。彼女が私の勤める小学校を卒業し、中学に上がってしばらくすると、風の噂を聞いて驚きました。私は、どうして、あんなに良い子が…と、少し理不尽さを覚えて悔しかったのを覚えています。

『今日は小梅ちゃんの話には触れないでおこう』

お店の引き戸に手をかけた時、私は短くそう自分に言い聞かせたのです。


 噂で聞いた通り、ジャズが流れる白梅堂の店内は外国人で埋め尽くされていて、楽しそうに喋りながらお料理やお酒を楽しむ姿がたくさん目に付いたけれど、よくよく見ると、カウンターの一角だけは懐かしい顔ぶれが並んでいました。

「由紀恵ちゃん、久しぶり!」

「お、水野、来てくれたか?」

最初に私に気が付いて声を掛けてくれたのは小学校の頃一番仲が良かった泉優子ちゃんで、続いて、相変わらず浅黒い新井君の声が聞こえたと同時に、あちらこちらから、

「お、僕っ娘登場か!?」

なんて声がして、思わずそんな時期もあったと恥ずかしくなってしまいました。

「あ、あれは、五年生の頃の一時だけだったじゃない!」

耳まで熱くなるのを感じながら、なんとか反論すると、私はそそくさと空いている席に腰をおろしました。

「久しぶり、ありがとうな。長門の奴も喜ぶよ」

そう言って温かいおしぼりを渡してくれたのは、ソムリエ姿が板についた蔵田君でした。久しぶりに見たけれど、すっかりロマンスグレーが似合う渋いおじさまになっていたから驚きです。とりあえず私は、おすすめをお願いすると、「じゃあ、俺の好きなやつで」と言って、レモンをたっぷり搾ったジントニックを作ってくれました。

 不思議な事もあるものです。正直、中学の途中でまた転校してしまった長門君の事は、もう何十年も忘れていたと言うのに、まさか久しぶりの再会が『夢枕』だなんて思いもしなかったのですから。

―そう、一昨日、彼は亡くなったのです。

 遠い、東北の地で。

事故だったとか、自殺だったとか、受験に失敗していい大学に入れなかったとか、仕事でミスして首を切られたなんていう声が久しぶりに会ったクラスメイトの間から聞こえてきました。今でもたまに連絡を取っていた新井君が、今朝、長門君のお母様から訃報を聞いたそうだけど、結局、転勤先の東北で亡くなった事以外は、誰一人として詳しい事は分からないままでした。

 最初は、突然届いたクラスで一番最初の訃報に、誰もが神妙な面持ちで、「人生八〇年。神様は最初からあいつが半分しか生きられないって知ってたから、一生分の幸せと才能を詰め込んで与えてくれたんだろうな」なんて言いながらグラスを傾けていましたが。お酒が進むにつれて、話題は当時の彼のスーパーマンっぷりや武勇伝、彼の家が立派で、グランドピアノが置いてあったなんていう話へと変り、あちらこちらから笑い声が聞こえ始めたのです。亡くなった同級生を偲ぶのに、笑い話はどうかとも思ったのですが、たぶん、いつも笑ってた長門君ならば、皆に悲しまれるよりも、こうやって久しぶりに集うダシに使われて、笑ってくれる方が嬉しいような気がしました。

 しばらく同窓会気分で思い出話に花を咲かせていると、ふいにお腹がなりました。よくよく考えると、職員会議が終わってそのまま来たから、晩御飯を食べていなかったのです。隣の席を見ると、西洋人の熟年のご夫婦が蔵田君のお料理を食べて絶賛していました。

「ねえあれ、なんてお料理なの?」

何気に聞いてみると、

「ああ、あれはガンドの軽いスモークさ、自家製の梅干しのサワークリームで食べてもらってる」

と、蔵田君は答えてくれたんだけど、私は思わず小首を傾げてしまいました。だって、『ガンド』なんていう名前の魚見た事も聞いた事も無かったんですから。

 私は改めて、『ガンド』とはなんぞ? と、尋ねると、

「ああ、ガンドはブリより一サイズ小さいやつさ、正式には『がんどぶり』かな」

という答えが返ってきました。それを聞いて思わず驚きました。だって、生まれてこの方、ブリより一つサイズ小さいのは『ハマチ』だと思っていたのですから。いつから呼び名が変わってしまったのでしょう? そして『ハマチ』という言葉を思い出すと、不意に昨晩の夢の中の、長門君の寂しそうな顔を思い出したのです。

『ハマチや赤魚は僕の事だよ…』

そう、あの時言葉にならなかった疑問が、蘇ってきたのです。いったい彼は、何を私に伝えようとしたのでしょうか。『ひょっとしたら、蔵田君なら分かるかも知れない』そう思った私は、ハマチと赤魚について尋ねてみる事にしたのです。すると、蔵田君は少し驚いた顔をして「良く知ってるな、その話」と、言ったのです。


 お店を出た私達は、二次会に行こうというテンションにもなれず、でも、クラスの中で一番最初に旅立って行った人気者を偲んで「さよなら」も言えなくて、気付けば街の繁華街の中にある小さな公園にたどり着いていました。まるで散る桜の花びらのように舞う雪の下。誰が買ってきたか分からない缶コーヒーを受け取ると、封も開けずに手の中で転がしながら、さっき木村君に教えてもらった話を思い出していました。

それは、『日本人を騙し通したハマチと赤魚』という話だったのです。

『鰤(ぶり)という魚は出世魚で、稚魚から最終段階のブリになるまで何度も名前を変える』これは、とても有名な話で私も知っていたけれど、実はその出世段階の呼び名に統一された物が無く、大きく分けると関東、北陸、関西、九州では、最後にブリになる以外、途中の名は全く違うのだと蔵田君は教えてくれました。そして、『ガンド』『がんどぶり』これは、寒ブリの本場、北陸富山での呼び方で、ブリになる一つ前の大きさを指す名前らしいのです。そして、北陸から近い、私達の街は、最近ではこの呼び名を多く使うようになったのだそうです。

では、何がいったい『ハマチ』が私達を騙したのでしょう?

と言うか、そもそも『ハマチ』って何者なのでしょう?

その答えは簡単でした。数ある地方名の中に鰤のワンサイズ小さい物を『ハマチ』と呼ぶ土地は、日本中探しても無かったのです。そう、実は、関東でも、関西でも、北陸でも、九州でもです。私はそれを聞いて驚きました。すると蔵田君は「厳密に言うと、関西地方では出世の段階で確かに『ハマチ』という名前を使う」と教えてくれたのですが、それは私達の知ってるサイズではなく、サバくらいの大きさの時の名前なのだそうです。では、そもそも私達の知っているハマチとは何なのでしょう?

私がその質問を投げかけると彼は一言

「ハマチは養殖ブリの総称だよ」

と、言ってほほ笑んだのです。

高度成長期の頃、天然のブリは高くて、中々食卓には上らない高価なお魚でした。そこで登場したのが『ハマチ』です。ハマチは養殖だけあって、ブリに比べると価格もお手ごろで、家計を預かる主婦のお財布にも優しかったのです。そう、

『ハマチは養殖だから値うち』

これが正解だったんです。でも、伝言ゲームってあるじゃないですか。ちょっとずつ内容が変ってしまうアレです。そう、いつの頃からか日本中の誰もが

『ハマチはブリより小さいから値うち』

と、勘違いされるようになってしまったのです。

次に教えてもらった赤魚の話も何だか似ていました。最初に蔵田君は、私に「赤魚のお頭付きとか、姿造りとか見たことあるかい?」と尋ねました。よくよく考えると、私が知っている赤魚は、いつも開かれているか、一夜干しになっている物ばかりで、たしかにその中ではずば抜けて高級感はあるのですが、鮮魚として頭の付いた姿は見たことがありません。

それもそのはずでした。実は、赤魚というのは『俗称』で、本来のお魚の名前では無かったのです。本当は『アラスカメヌケ』という、名前の通り遠洋漁業で獲れる深海魚だったのです。実際、私達が生まれた頃までは、『アラスカメヌケ』という本名で売られていた時期もあるそうです。

では、どうして『アラスカメヌケ』は『赤魚』になってしまったのでしょう?

彼曰く、その秘密は『メヌケ』というお魚にありました。実は、『アラスカメヌケ』の名前の元となった近縁の魚がいるのです。そしてその魚は日本では別名『赤魚鯛(あこうだい)』と呼ばれる超高級魚だったのです。ちなみに、「メヌケ」の語源は、この魚が深海魚で、陸揚げされる時に水圧の違いで目が飛び出でてしまうからなのだそうです。

さて、ここからが本題です。アラスカメヌケとして登場した赤魚でしたが、当初はその名前のイメージがよくなく、あまり売れなかったそうです。そして、頭を抱えた販売者さんや漁師さんが近縁である「赤魚鯛」から名前を拝借して「赤魚」として売ったところ、これが大ヒットしたそうなのです。蔵田君曰く『実際、この二つを見分けるには頭の形くらいしか方法がなく、熟練の魚屋ですら、頭を取ってしまうと、身だけでは区別がつかなくなるんだ』だそうです。

本当は実在しない『ハマチ』と『赤魚』

そう…、恐らくあの時、長門君が私に言いたかったのは、

『僕は、皆が思ってるようなスーパーマンじゃないよ、偽物だよ』

『本当の僕を知って欲しいんだ』

というメッセージだったのかも知れません。

 

 夜の公園に舞い散る初雪。皆がそれぞれに語りつくせない思い出話をする中。私はあの頃のようにその輪から離れて雲の切れ間から顔を出した丸い月を眺めていました。そして、当時、意地を張らないで話しておけば良かったという後悔や、なんとも言葉では言い表せないモヤモヤとした胸のつかえのような気持ちの正体を考えていたのです。

 たぶん、当時の私も長門君から目が離せなかったのです。そして、憧れていたのです。だって、よくよく考えると、音楽の教師になったのも、あの時、音楽室から聞こえたピアノがキッカケだったような気がするのですから。

いつか、彼のようにピアノを弾いてみたい。

ずっとそう思っていたのですから。

 少しだけ雲の切れ間から姿を現した朧月に私は呟いた。

「長門君、君はそう言ったけど、やっぱり私達のスーパーマンだよ。蔵田君も言ってたよ。嘘もつき通せば真になり、今では全国のスーパーやお魚屋さんで、ブリの一つ前をハマチだって正式に教育するお店も増えているんだって。赤魚だって不動の干物四天王トップだよ」

瞳を閉じると、微笑む彼の顔が見えた。風を切り、駆け抜ける姿が見えた。そして、手の中にある缶コーヒーを抱きしめてあの頃の言葉にならないモヤモヤとした感情に、私はこっそり名前を付けた。そう、

「いまさら初恋だなんて…」


二品目 おわり
















【白梅堂レシピ by白梅堂店主・蔵田龍二】

二品目『お家でも出来る簡単お魚のスモーク。オリジナルサワークリーム添え』


 今回ご紹介するのは、特別な道具がなくてもお家やキャンプ場で簡単に出来る魚のスモークと、自家製サワークリームです。

 皆さんは『燻製』と聞いてどう感じますか? 恐らく「興味はあるけど難しそう」と、お答えするのだと思います。そして、それは正解で、本格的に燻製を作ろうとすると結構ハードルが高いのが正直なところです。まず、ハードルを高くしているのが『道具』。そして、事前に食材をマリネしておく『ソミュール液』の存在だと思います。後は、根本的な『燻製の仕組みが分からない』というのもあるかも知れません。ですから今回は、燻製の仕組みを説明しつつ、特別な道具やソミュール液を使わない、美味しくて敷居の低いスモークのレシピを紹介します。


【燻製の材料】

〇お魚の切り身(無塩または、薄塩)

〇味塩コショウ(無塩の魚の場合使います)

〇桜のチップ

〇グラニュー糖(上白糖でも可)

〇サラダ油(少量)


【燻製に使う道具】

〇同じ大きさのフライパン二つ(または、一〇〇均の大き目の金属製ボウル二つ)

〇焼き網(お餅を焼くような単純な金網)

〇アルミホイル



【作り方】

1) 魚の切り身に味塩コショウを振る。量の目安は普通にそれを焼き魚として

  食べるだけの分量で良いです。

  (薄塩の切り身の場合はそのまま使います)

2) 浸透圧で味塩コショウの味が中まで沁みるまで一〇分程放置します。

3) アルミホイルでお皿を作り、そこに桜のチップを入れ、上から一つまみの

グラニュー糖(もしくは上白糖)をふりかけます。理由は、熱した時に、

糖分が気化したキャラメルとなり、燻製に良い色を付けるためです

4) 一つ目のフライパンの底に、チップの入ったアルミホイル皿を敷き、

上からサラダ油を塗った焼き網を乗せ、味を付けた切り身を置く。

(サラダ油は張り付き防止です)

5) 上から蓋をするように、同じ大きさのフライパンを被せて火を付けます。

火力は中火です。

この時のざっくりしたビジュアルはハンバーガーのようになります。

魚の乗った金網を、二枚のフライパンでサンドするのです。

6) 魚は火加減にもよりますが7~8分で焼けます。最初はかなり景気よく

煙が出ますが、5~6分程してフライパンをめくって覗いてみて、美味しそうな

茶色になっていれば完成です。((注)覗くときは火を止めて下さい。発火します)



 今回ご紹介したスモークは、いくつかある燻製の手法の中でも比較的簡単な『熱燻』という物です。感覚的には『オーブンで焼く』に近い物で、中にチップを忍ばせる事で、手軽なオーブン調理をしながら燻製の香りを乗せる事が出来ます。

 下味についてですが、肉などのズシリと重く密度の高い食材は、ソミュール液等を使ってマリネや塩漬けにしますが、水分の多い魚は、簡単に味が沁みるので、味塩コショウで充分に美味しく仕上がります。また、味塩コショウにはグルタミン酸(化学調味料系)も含まれていますので、不慣れでも問題ない味に仕上がります。

 アルミホイルの皿は無くても燻製はできますが、その場合、焦げたチップの炭がフライパンにこびり付くのであまりお勧めはしません。

 また、魚の代わりに鶏のササミでも同様のレシピで美味しい燻製が作れます。

 ※ササミの場合、燻製の時間は長くなります。




【お手軽、自家製サワークリーム】

 次に、魚のスモークのソースとなるサワークリームのレシピです。

 と、言うか、これは簡単過ぎてレシピとすら呼べませんが、味、相性ともにバツグンですので、是非色々試してみてください。


【材料】

〇お好みのドレッシング(市販品でも可)

〇生クリーム(ホイップクリームでも可)

〇お好みで、塩、砂糖、レモン汁(お酢でも可)

〇お好みで、万能ねぎ(カット)


 女性だけでは無く、おそらく多くの男性も生クリームを泡立てた経験があるかと思います。

あれは、うちら本職でも面倒くさい時があります。ハンドミキサーを使ってもなかなか固まりませんし、ピーター握っての手作業となると、なおの事気が遠くなってしまいます。でも、実は簡単に生クリームを固める方法があるのです。それが

『酸』

僕風に言うと

『フルーチェ現象』

です。そう、生クリームにお酢を入れてスプーンで軽くかき混ぜると、即座にホイップしたような硬さに変るのです。今回の自家製サワークリームはこれを使います。一応、レシピも書きます。


1) マグカップに生クリームを入れる。

2) そこに、お好みのドレッシングを入れてかき混ぜる。

3) 塩、砂糖、レモン汁で味を調える


 はい、以上です。おそらくスプーンで一〇回も混ぜないうちに、サワークリームが完成すると思います。この時のドレッシングの目安として

少ない=シャバシャバしている

丁度いい=固い

入れ過ぎ=再びシャバシャバ

という具合に、生クリームの固める力を越えてドレッシングを入れると、また液体になってしまいます。ですから、ドレッシングを入れる時は、少量ずつかき混ぜながらどうぞ。適度な固さになったら、味を調えて完成です。燻製自体に塩気はありますので、そんなに濃い味でなくても良いです。




【おまけ】

『チップの選び方について』


 燻製の敷居を高くしているもう一つの要因に『チップの選択』という物があります。おそらく、初めて燻製に挑戦される方は、ここで躓く人も多いのではないかと思います。ここでは、そんな方のために、簡単なチップの選び方をご紹介いたします。

 現在、市販されていて、ホームセンターなどで簡単に手に入るチップは大きく三種類あり。それぞれ

〇さくら

〇ヒッコリー(鬼クルミ)

〇ブレンド

となります。今回はこのさくらとヒッコリーについて触れます。

 まずは、味・風味の特徴です。


【さくらのチップ】

 ガツンとしたパワフルな香と風味が特徴です。ジャンケンで例えると『グー』のような

 力強い風味の付くチップです。


【ヒッコリー(鬼くるみ)のチップ】

 こちらは品の良い、スマートで尖った風味が特徴で、まるでお香のようにも感じるチップです。ジャンケンで言うと『チョキ』です。


 次は、食材に対する私なりのチップのチョイスを説明します。

【さくらのチップ】

 魚類、鶏肉、がっつり香を付けたいお肉。

【ヒッコリー(鬼くるみ)のチップ】

 赤身のお肉。脂の多いお肉。


と、分類しました。要は、食材自体が淡泊な場合は、ガツンとした香のさくら。

食材自体に深い味や、脂が多い場合は品よくすっきりとしたヒッコリーの香り。

という使い分けです。もちろん、これは長年やってみての私のチョイスであり、チップのパッケージには『ヒッコリーは魚向け』と、書かれている場合もあります。おそらくこれは、サーモンのような身に脂がのっている濃い味の魚はヒッコリーという意味だと解釈しています。


 それでは今回もお楽しみいただきありがとうございます。料理には『こうでなくてはならない』という決まりはありません。私の恩師の言葉を借りると

『Dein Fantasy freilaufen lassen!』

「君の思い付いた事を、そのまま自由に走らせてあげなさい」

それが、ひとそれぞれの持ち味になると思います。


 それでは次回もよろしくお願いします。


白梅堂店主 蔵田龍二

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