白梅堂 【外国人が集まるお店のおもてなしレシピ】

@nishiyamasou

第1話【継がれていくもの】

「瞳ちゃん、沢山小豆を洗って待ってるから

次来た時は、またあの美味しいのを作ってね」

おばあちゃんの声を思い出そうとすると、どうしても頭に浮かぶ言葉がある。

そして、申し訳なさで、胸がつぶれてしまいそうになるんだ。



【継がれていくもの】                                        (一)

 鏡に映る自分の顔を眺めて思わずため息が出ました。寝坊した朝、こんな時に限って豪快に髪が跳ねてるんです。急いでブラシをあててはみたのだけれどダメ。で、ミストを使ったら余計に跳ねた髪が纏まってまるでアンテナみたいに立ってるんです。まあね、それがアニメのアホ毛みたいにつむじの辺りから出てたらワンチャン、チャームポイントだって言って誤魔化す事が出来るかも知れないのに、なかなかそう簡単にはいかなさそうです。だって、そこら中が跳ねてるんですもの。

 結局、寝癖はそのまま諦めてスーツに袖を通すと、ブラウスのボタンを止めながら自分の部屋から飛び出しました。だって、ここまで来たら、身だしなみも何もあったものじゃありません。いやあ、就職して二年以上が過ぎ、最近じゃ後輩も出来たって言うのに、目を覚ましたら始業十五分前とか、正直我ながらあり得ないって思いますもん。とにかく、今は遅刻しないでホテルにたどり着きさえすれば、後は向こうでなんとかするしか無いって覚悟を決めて、階段の残り三段を飛び降りたんです。いやあ、それにしてもいくら疲れているとは言え、ほんとやらかしてしまいました。

 ここ最近、私の勤めるホテルは連日大忙しです。近年、増加の一途を辿る日本を訪れる海外からの観光のお客様。以前は関東と関西を富士山や箱根を堪能しながら東海道新幹線で移動するゴールデンルートと呼ばれるコースが旅の主流だったのですが、北陸新幹線が金沢まで開通した事によって事情が変ったのです。そう、今では私の住む、この飛騨地方を経由する『東京―金沢―飛騨―京都』というコースを選ぶ方が急増したんです。そして、その評判はとても良く、金沢で兼六園を見て、美味しい北陸のお寿司を食べてから、白川郷や、北アルプスの絶景が楽しめ、、東海道新幹線で関東と関西をストレートに移動よりもより日本の田舎側に触れる事が出来る。と、皆さん喜んで下さるのです。

 ただし、ただしです。そんな大量の海外からのお客様が、一気にこの小さな山の街に集中するものだから、どのホテルや旅館さんも連日嬉しい悲鳴を上げてるんです。しかもこの、三月の中頃から五月の中旬までの桜の季節はさらに拍車がかかります。皆さん、日本の桜は楽しみにしてるみたいで、来客数がハンパありません。ホテルは連日満室のキャンセル待ち状態が続き、それこそ、ゴールデンウィークどころか、ゴールデンツーマンスです。入社したての去年もそうでしたが、この時期は希望休日が取れるなんて夢のまた夢で、週休二日がもらえるかどうかすら怪しい地獄の日々が続くのです。あ、ちなみに「キャンセル待ち」って言うと「どうせ、それ以上お客さん入らないんだから、仕事の量も上限打ち止めで、それ以上はたいして変わらないんじゃないの?」って思ってませんか? いえいえ、そんな生易しい物じゃないんですよ。だって、その「キャンセル待ち」の問い合わせの数が半端ないんですよ。夕方が近くなると、ただでさえ私達フロント係りは、満室のお客様の対応に追われているというのに、宿も取らないままノープランで街にやって来たお客様の電話が鳴りっぱなしになるんです。よっぽど『受話器外したままでいてやろうかしら』とか、思ってしまうくらいです。まあ、さすがにそれは出来ないから、しぶしぶ対応するんですけどね。

「瞳ー、朝ごはんはー!?」

「むーりーー!」

奥の暖簾に向かって叫びながら玄関に滑り込み、慌てて右側の靴に足を突っ込むと、下駄箱の上の時計は、すでに始業一〇分前を指していました。思わずゴクリと喉がなります。そして、大急ぎでトートバッグを持ちあげて肩に掛けた途端です、何かが落ちる音がして思わず足元を見ると、白くて四角い物体がくるくる回転しながらタタキの上を滑って行くのです。私はてっきり、バッグから何かがこぼれ落ちたかと思って拾い上げてみると、それはまったくもって見覚えの無いA4サイズのレターパックでした。宛先を見ると私宛です。振ってみるとカサカサと軽い音がします。はて? 最近は忙しくてネット通販もしてないと思ったのですが。

 少しだけ記憶を遡って考えを巡らそうとしましたが、そんな余裕なんて無い事を思い出すと、それをバッグに押し込んで勢いよく玄関の引き戸を開けました。その瞬間、私は開かれた戸に手を掛けたまま固まって動けなくなってしまいました。だって、目の前に、花束を片手にこっちを見ている中年の男性と目が合ってしまったのですから。

「え、誰!? 花束? 告白!?」

思わず頭がパニックを起こしそうになりました。いや、というか、なってましたね、完全に…。だって、私のすぐ目の前ですよ。目があったまま恐怖で視線すら動かせないんですよ? 

 でも、金縛りになりながらあれよこれよと考えると、何だか様子がおかしいのです。だって、よくよく見るとストーカーさんにしてはなんだか変です。だって、手に持った花束は菊ばかりの小さな仏花だし、目の前とは言っても、どうやらウチの玄関先にある路地を歩いていた様子で、体は横向いているのに顔だけがこっち見ているのです。そして、そこまで考えると、なんとなく状況が飲み込めて胸を撫で下ろしました。そう、たぶんあまりに勢い良く玄関を開けちゃったので、家の前を歩いてたこのオジさん、思わず音に反応してこっちを見てしまっただけなんですね。で、運悪く目が合ってしまった…と。

 それに、胸を撫で下ろす事が出来たのにはもう一つ理由がありました。それはこのオジさん、実は見覚えのある男性でした。とは言っても話した事はないけれど、この特徴的な銀色のメッシュが入った少し長目の髪に、眠そうな大きい二重、長身なのに猫背で全身黒づくめの、そんなちょいワルな姿は目立つから覚えました。はい、毎朝通勤途中に坂の下あたりで見かける人です。今日はいつもより出るのが遅れてしまったので、坂の途中にある私の家の前で出会ってしまったみたいです。まあ、この細い階段と路地ばかりの山の手の地域は、寺町と呼ばれていて、最近では外国人の観光スポットになるくらいに古くからの神社やお寺が沢山集中している場所ですし、手には仏花。きっとお墓参りが日課なのでしょう。

 とにかく、危ない人では無いのが分かったのは良いのですが、全ての問題が解決されたかと言うと、そんな事なかったんです。だって…

お互い目を逸らすタイミングが掴めずに、今も絶賛見つめ合ったままなんですもの。

『お、俺、ストーカーとかそういうんじゃないですからね。勘違いしないで下さいね…』

彼は、そんな感じの困った目でこっちを見ています。私も固まったまま、

『分かってます、分かってますから』

と、頷きます。さらに、よせばいいのに、そんなタイミングで春一番が吹くもんだから、瞬きする右目だけがゴロゴロしてしまったのです。私はしきりに右目だけをパチクリさせ、そのちょいワルさんから目が離せないまま

『こ、これは、ウ、ウインクじゃないですからね』

と、心の中で訴えました。すると、今度は彼が

『分かってます、分かってますから』

と頷くのです。まったく、時間の無い時に、私は何、コントみたいな事をしてるのでしょう。そして、そのまましばらく見つめ合うと、中年の男性はようやく言葉を思い付いたような顔をして、「お、おはようございます…」と、挨拶をしたのです。私も咄嗟に、「よ、よくお会いしますね」と、答えたのですが、男性は不思議そうに小首を傾げると、一拍置いて「あ、あ、えーっと、いつもお世話になってます…」と、あからさまに『どちら様でしたっけ?』という顔で大きくお辞儀をして、頭を掻きながら、また路地を歩き始めました。どうやら、面識があると思っていたのは私だけだったようです…。

 それにしても、そんなに毎日行くものなんですかねぇ、お墓参りって?

って、不思議に思いながらも去っていく男性の背中を見送った私は、ますます時間が無くなった事に気が付いて、慌てて玄関先に止めてある自転車のカゴにバッグを押しこむと、前と後ろを持って勢いよく方向転換しました。そして、力いっぱいペダルを踏み込むと、春の風を受けながら全力でこぎ出しました。

 薄緑色の山々、遠くの山々には深い雪帽子。寺町を縫うように下る細い坂道を進み始めると案の定、さっきのチョイ悪さんの背中が見えました。まあ、一本道だから仕方ないのだけれども、なんともバツの悪い気分になってしまいます。だって、挨拶をした方が良いのか、それとも知らん顔で通り過ぎれば良いのか咄嗟に分からなかったんですから。だけど次の瞬間、私の目の前にはそんな些細な悩み事を吹き飛ばすような状況が現れてしまったんです。

 それは、角のお寺の参道から突然姿を現した白人さんの集団でした。どうやら、この入り組んだ寺町に迷ったのか、それとも似たり寄ったりのお寺や神社の名前に混乱してるのか、各々が街の地図を広げたり、スマホを覗いたりしながら、遠目にも分かるくらいに『ああでもない、こうでもない』と口論を繰り広げているのです。確かにそれは、この寺町ではよく見る光景だったんですが、困ってしまうのはその後です。だって、だってですよ、事もあろうか、さっきのチョイ悪さん、それにまったく気が付いてない様子でどんどん集団に向かって歩いてるんです。

『助けようかな?』

『ほんのちょっとの間、道を教えるくらいなら大丈夫かな?』

時間が無いというのに、私はどれだけお人よしなのでしょう。気が付くと、ペダルを漕ぎながらそんな事ばかりを考えているんです。だってあの人、見るからに英語が話せそうには見えないじゃないですか。うん、そうです。袖触れ合う程度ですら何かの縁ならば、見つめ合っちゃった私達はもう赤の他人のような気がしません。私はゴクリと息をのみ込むと覚悟を決めました。答えは『助ける』です。それにあれです、私、一応ホテルのフロント係りですし、短大時代に培った英語力で入社しましたし、こんな状況、見て見ぬフリが出来るわけ無いじゃないですか!

 少し怖かったけど、下りの坂道をペダルを踏み込んでさらに加速します。まあ、あれです。一応、入社してから無遅刻無欠勤。いざとなればホテルに電話して事情を話せば何とかなりそうです。うん、それは良い案かも知れない。だって、そうしたら一〇分くらい遅刻しても何とかなりそうなんだもの。うん、待っててねチョイ悪さん! 今、助けてあげるからね!! 

 春風を切り裂いて進む自転車。どんどん近づく黒い背中。そして、やっとの思いで集団に追いつくと、私は顔を伏せ、そのままの勢いで通り過ぎたのです。恥ずかしくて、みっともなくて、耳まで熱くなっているのが分かりました。だって、近づいてみて分かったんです。ちょいワルさんを助ける必要なんて、私がでしゃばる意味なんて最初から無かったのですから。

 聞こえてきたのは、嫉妬しちゃうどころか、聞き惚れてしまうくらいに綺麗で流暢なチョイ悪さんの英語でした。彼は、少し面倒くさそうな顔をしていましたが、それでも下手なガイドさんなんかよりも丁寧に道を教えていたのです。

 通り過ぎるどのお寺や神社の境内もすでに桜が満開で、切る風も随分と暖かくなっていました。また春がやって来たのです。でも、あの日以来、私はどうにもこの季節が苦手です。いつだって、こんなのばっかりです。そう、失敗ばかりしてしまうのです。そして、舞い散る桜を見る度に、胸が締め付けられるように痛むのです。



                                                      (二)

 私の父と母は、東京のホテルで働いてた頃に知り合い、そのまま職場結婚をしました。そして、この街に戻ってきて、私が生まれたのです。

母の実家は島根の山奥で、出雲大社がある海側ではなく、むしろ広島県との県境に近い場所でした。そこは、私の住む飛騨からはとても離れていたけれど、それでも幼稚園や、小学校の頃は、何年かに一度は遊びに連れて行ってもらった事を覚えています。

 古い木造のおばあちゃんの家の前には大きな畑があり、四季折々、色んな種類の野菜が生っていました。そして、玄関を開けて中に入ると、まるで、細い通路のように奥まで土間が伸びていて、それに沿うようにして幾つもの部屋があったのです。なんだか、建物の中に縁側があるみたいで面白い家だと私は思いました。

並んだ一番奥の部屋はおばあちゃんの仕事場で、大きなミシンや、ぐるぐるに巻かれた太くて青い布の山がところ狭しと置いてありました。お母さんに聞くと、「お婆ちゃんはジーパンを縫う仕事してるのよ」と、教えてくれたんだけど、それが学校でも男の子達が自慢する海外ブランドのジーパンだというのを教えられると、私は絶対に誰にも言ってはいけないとんでもない秘密を知ってしまったとビクビクしたものです。そして、その後は怖くてその仕事場は覗けなくなってしまいました。

 そうそう、おばあちゃんの家のこたつも凄かったです。それこそ、初めて入れてもらった時は驚きました。だって、うちのこたつと違って中が掘ってあって、まるで椅子に座るようにして入れるのですから。私は、すぐに、そのこたつの座り心地にうっとりして大好きになりました。

 でも、ある時、従兄達とかくれんぼをしていて、自分の家と同じ要領でこたつの中に隠れると、思わず大きな悲鳴を上げてしまい、すぐに見つかってしまったのです。だって、掘ってあるこたつの中で火が燃えていたのですから。家が燃えてしまうのではないか、足をいれたら火傷するんじゃないかとこれまた怖くなり、それからは、掘りごたつに足を入れれなくなってしまいました。

 もちろん、怖い思い出ばかりではありませんよ。どちらかと言えば、楽しい思い出ばかりです。そう、私は、お婆ちゃんと一緒にお絵かきするのが好きでした。島根の従兄は男の子ばかりで、お兄ちゃんを連れてすぐに魚釣りだとか、山登りだとかに行ってしまうのです。最初は私も楽しくて一緒について行ったけど、川でおぼれそうになってからは、おばあちゃんの家でお絵かきする事が多くなりました。

私が遊びに来ると、おばあちゃんは必ず一冊のノートをくれました。それは、厳密にはノートではなくて、裏が印刷されていない広告を糊で束ねただけの物だったのだけれども、「瞳ちゃん、これ大好きだったから、また作っておいたからね」と、毎回嬉しそうな顔でプレゼントしてくれるのです。たしかに、それはどこかみすぼらしかったけれど、白いノートや紙にいたずら描きするのは心が引けた当時の私にはそれで十分でした。おばあちゃんも、私がお絵かきを始めるとジーンズを縫う仕事の手を止めて、こたつにあたりながら一緒に広告の裏に落書きをしたり、歌ったり、夏場なんかは、井戸水で冷やしてるうちに、ふやけて剥がれたビールやお酒のラベルも、「まるでシールみたいだね」と、笑いながら、二人でお手製ノートにペタペタ貼ったりしたのです。

 そうそう、おばあちゃんを語る上で欠かせない物があります。それは、お料理です。私達が遊びに来ると、毎回、食卓の上には沢山のお料理が並ぶんです。それも、お庭で取れた新鮮なお野菜のお料理です。もちろん、どれもこれも美味しくて、感動しながら食べたものです。ただ、さすがに一週間程滞在すると、実のところ『ハンバーグが食べたいなぁ』とか『スパゲッティが良いなぁ』とか思ったりもしました。それでも、お婆ちゃんをがっかりさせないように「美味しい」「美味しい」と言って食べていた事を覚えています。


最後に島根を訪れたのは、たぶん、小学校高学年の頃でした。その時も、案の定、食卓には沢山の野菜料理が並びました。久しぶりに食べるおばあちゃんお料理はおいしくて、どのお皿もすぐに空っぽになったのだけれども、やっぱり、このまま毎日これかと思うと、少し滅入ってしまいました。そして、私はとっておきの秘策を使う決意をしたのです。

 次の日のお昼頃、私は一人で近所の商店に行くと、おこずかいの中から鶏肉とケチャップ、そして、顆粒のブイヨンを買いました。そして、夕食の支度が始まる頃、「私も作る!」と、名乗り出たのです。

 そう、秘策とは、夏休み前の家庭科の授業で習った『オムライス』でした。玉ねぎと卵、ご飯はおばあちゃんの家にあるのを借りました。そして、「内緒だからね! 出来るまで絶対に見ないでね!」と念を押し、こそこそ隠れるように調理を始めたのです。

 家庭科で習った通り、左手は猫にして玉ねぎを切り、フライパンでチキンライスを炒り、ケチャップを絡めて味見すると、我ながら中々の出来でうっとりしました。これには、授業で作った時よりも美味しく出来る予感というか手応えを覚えたのですが、薄く伸ばした卵焼きでチキンライスを巻く段になって、おばあちゃんの家のフライパンがテフロンじゃないのに気がついたのです。案の定、卵はすぐにフライパンにくっついてしまい、何皿か作ったけれど一つも上手に巻く事ができませんでした。その日の夕食、一家の団欒のひと時。目の前に並んだまるで炒り卵や、穴だらけの破れたオムライス達を前に、私は悔しくて思わず泣きだしました。最初は、お野菜ばかりの晩御飯が嫌で作り始めたオムライスだったけれど、あまりの出来の良さに、皆に自慢したくなっていたんです。それでもおばあちゃんは、私の作った不細工なオムライスを何度も何度も「おいしいよ」「おいしいよ」と言って食べてくれました。こうして、私の秘策は半分成功、半分失敗に終ったのです。


 中学に上がると、私は吹奏楽部に入りました。最初は楽器が吹きたいという軽い気持ちだったのに、入ってみると運動部よりも忙しく、放課後も、週末も練習の日々が続きました。夏や冬の長い休みも大会があったので、ほとんど学校に行ってたような気がします。そして、数少ない休みの時間も、小学校の頃と比べて友達同士で遊びに出る事が増えたため、家族でどこかに行くというのはすっかり無くなってしまいました。その上、懲りもせず高校でも吹奏楽を続けたものだから、島根に遊びに行かない日々は続いたのです。


 そうそう、我が家ではたまに、お母さんが島根の親戚と電話してるところを目にします。それは、傍から聞いていてもすぐ分かるのです。だって、聞いた事ないような方言で喋っているのですから。そして、その相手はおばあちゃんだったりすることもあって、その時は必ず最後には電話を私に代わって

「小豆を沢山準備しておくから、また遊びにきてね」

と、言うのです。最初は、それが何の事なのか分からずに、ただ、小学校の頃のように遊びに行けないのが後ろめたくて生返事ばかりをしていたけれど、何回目かの電話で、

「前に瞳ちゃんが作ってくれたお料理がおいしかったら、小豆を沢山洗って待ってるね。

また、おばあちゃんにあの美味しいの作ってね」

と、言われて、それがオムライスを指している事に初めて気がついたのです。どうやら、おばあちゃんは、チキンライスが赤いのは、小豆を使っているからだと勘違いしていたようでした。でも、私は、それがケチャップを使うから赤いのだと言えなくて、やっぱり遊びに行けなくて後ろめたい気持ちでいっぱいになると、ついつい「うん、またね…」「ちかいうちに行くね…」と、生返事をしてしまうのです。


 高校三年生になると、吹奏楽で音大の推薦を受ける話しもありましたが、色々悩んだ末に、外語系の短大に進む事にしました。やっぱり、生まれ育った街が好きだったから、戻って来たい、ここで働きたいと思ったんです。そうなると、何かと学費が掛かる音大を選んでも、その後の就職が困ると思ったんです。

 短い短大生活は、平日も週末もアルバイトに明け暮れて、夏休みや冬休みの度に語学研修を兼ねて海外に行きました。最初は話すのもたどたどしく、相手が何を言っているのかチンプンカンプンでしたが、上達していくにつれ意思の疎通が出来るようになる頃には、私は完全に英語の魅力に取りつかれました。

 短大卒業後は念願だったフロント係として、外国人観光客で賑わう故郷に戻ってきたのです。

 そして、あのオムライス以来、一度も島根に行けぬままの二年前の桜の頃、大好きだったおばあちゃんは帰らぬ人となってしまったのです。



                                                     (三)

「ハクバイドウ ノ ヨヤクヲ オネガイシマス!」

業務に追われ、パタパタとフロントカウンターの中を走り回っていると、先ほどチェックインされた若い欧米人のカップルさんがレストランの予約をしにフロントに現れました。きっと新婚旅行なのでしょう。お互いの左手の薬指には、真新しいおそろいの指輪が光っています。私は慌てて足を止めると、「ちょっとお待ちください。今電話してみますが、取れなかったらごめんなさい」と、英語で答えました。たしか、これで今日三組目です、白梅堂のディナーをご希望のお客様。時計を見ると、すでに六時半を回っているし、小一時間くらい前のお客様の時は、すでに席が無くてお断りしたはずです。でも、お店のスタッフでも無い私が、確認も取らずに「今日は満席で無理っぽいですよ」とも言えず、ダメ元を覚悟で受話器を取りました。必死に祈りましたよ「出てろ、キャンセル!」って。だって、満席でお席が取れないと、そこから先が長いんです。皆さんがハナからお目当てのレストランを決めて来ちゃってますから、そこがダメだと、今度は私達フロント係りが次のお店を色々紹介しないといけません。暇な時期だったらいいんですけどね、さすがにこの時期は、そんな時間すら捻出するのが大変なんです。

…ま、案の定、お席なんて空いて無かったんですけどね、白梅堂。


 この日のホテルも満員御礼で、私達フロントスタッフは、さながら大運動会のようにして走り回ってました。特に今日は、この四月から入った新人の水橋さんが、間違って禁煙のお客様を喫煙のお部屋に案内しちゃったもんだから、『臭う!』と、私が怒られたり、すでにお客様がチェックインされているのにも関わらず、ちゃんと入力しないから、あわやキャンセル扱いで違うお客様に売っちゃいそうになるわで、そりゃあ、もう、いつもの倍くらい働らかされましたよ。なので、水橋さんには通常のフロント業務はいいから、とにかくキャンセル待ちの電話対応だけに集中してもらいました。それがね、ちょっとくらい申し訳なさそうにするかと思ったら、『楽な仕事が当たった、ラッキー』みたいな顔してウキウキしてるんですよ。挙句の果てには「ありがとうございます、先輩! 私、英語苦手だから助かりました~」とか言ってるし。

 そんなこんなで、私は働きましたよ、がっつり二人分。でも、こういう時は必ず決まって追いうちが来るものです。はい、例の水橋さんが仕事の終わり間際に私の所にやって来たかと思うと、「せんぱーい、あのう、相談があるんですがぁ、明後日の土曜日、お休みを交代してもらえませんかぁ?」と、いちいち語尾を伸ばしながら聞いて来るのです。全くもって、この、週休二日が貰えるかどうかも怪しい忙しい時期に、この娘はいったい何を言っているのでしょう。さすがにお人よしの私でも、この時ばかりは首を縦に振る気になれなくて断ろうとしたのですが、彼女は、私が考えていた以上のシタタカ女子で、「マネージャーさんもぉ、土屋さんがいいのなら、代わってOKだよって言ってくれましたー」と、続けたのです。そうなのです、ちゃっかり前もって外堀から埋めてきてたのです。ちょっと待って下さいよ、そんなこと言われて断っちゃったら、まるで私が意地悪な先輩みたいじゃないですか。とにもかくにも、その瞬間、私の一〇連勤が決まってしまったのです。



                                                     (四)

 一日の仕事が終わり、私は夜の繁華街を自転車を押して歩きました。ここから寺町は上り坂なので、もう、乗る元気なんて残っていません。

 街燈に照らされた、人通りもまばらになったレンガ通りを歩きながら、思わず物思いにふけってしまいました。そうなのです、桜の季節というのは、私にとってこんな事ばかりが起きるのです。でも、それは天災なのかと言われれば、要所要所で自分が間違った選択をしてしまった結果のような気がしてなりません。

 水橋さんの事もそうです。もちろん、憎たらしい気持ちもあるのですが、むしろ羨ましく感じる方が強いのです。おそらく、社会人としては私の方が絶対的に正しいとは思うのですが、女子としては、圧倒的に彼女が上だと思ってしまったのです。明後日の休みだって、どうせ彼氏とデートでしょう。だって、土曜日ですもんね。本当は私だって、この時期に奇跡のような土曜休みを楽しみにしてたんですよ。 まあ、予定なんて無かったんですけど。

 でも、それを、遠慮しないで「代わって下さい」って言えるのが、同じ女子として凄いと、想ってしまったのです。うん、逆立ちしたって私には無理。だって、「あ、土曜はもう予定入れちゃってるからごめんね!」と、言ってしまえば終わりのはずだったのに、そんな小さな嘘でさえ言えないんですから。

「もし、それが言える私なら、おばあちゃんのお葬式に行けたのにな…」

まん丸なお月さまを見上げてそう呟きます。丁度二年前、就職したての桜の頃です。ずっと病気がちだった島根のお婆ちゃんが他界したのです。それを聞かされた時は、申し訳無くって、申し訳なくって、胸が潰れてしまいそうでした。だって、あんなに食べたがってた私のオムライス、結局最後まで作ってあげられなかったんですから。確かに、島根は遠いけど、その気になったら、この10年の間に一回くらいは行けたはずなのに、私はその都度、自分の都合を優先させてしまったのです。

 おばあちゃんが亡くなった日も、やっぱりホテルは忙しく、入社したばかりの私は「休みが欲しい」の一言が言えなかったのです。慌てて荷物をまとめ、島根へ向かうお母さんも「結婚式とは違って、お葬式は突然だから仕方ないよ。お婆ちゃんも、瞳が一生けん命働いてる姿を天国から見てる方が嬉しいと思うから、がんばりなさい」と、言ってくれました。言ってはくれたけど、だから、この胸の痛みや後悔が消えるというものではありませんでした。


 そのまま、上の空で自転車を押していると、自分が家とは違う、トンチンカンな方向に来てしまったことに気が付きました。すでに繁華街の明りはなく、辺りは暗く静かな住宅街になっていました。慌てて周りを見渡して胸を撫で下ろします。だって、ここら辺なら知ってます。昔通った音楽教室のあるあたりです。

 そして、辺りを見回していると、今居る場所より少し先、さらに住宅街の奥の方に、ぽつんと一軒だけ、場違いなくらいに煌々と明りの灯った場所があるのに気が付きました。なぜだかそれが気になった私は、明りに近づきました。すると、それは一軒の飲食店のようでした。携帯を見ると、時間はすでに夜の10時半を過ぎていました。私は小首を傾げました。繁華街ならいざ知らず、どうして、こんな場所にこの時間までやっているお店があるのでしょう。

 何だか、子供の頃に聞いたキツネやタヌキに化かされた人の話しを思い出しましたが、それでも、一応あれです、フロントマンの端くれとしては、知らない店があるのが釈然としなかったので、とりあえずお店の名前だけでもチェックしようと、私はそのまま足を進める事にしました。そして、看板を見て驚いたのです。

―白梅堂

そこに書いてあったのは、良く知っているお店の名前です。海外のガイドブックでも星がついてるし、確か去年は、外国人観光客が選ぶ日本のレストランで、こんな小さな田舎町にもかかわらず全国で5本の指に入ったお店です。今日も、結局、4件くらい予約の電話を入れて、予約が取れたのは最初の1つだけでした。そう言えば、同僚からも、街外れにあるって聞いていたのですが、まさか、こんなとんでもなく外れた住宅街の中にあるとは思いませんでした。

 おっかなびっくりお店に近づき、お洒落な硝子の引き戸を覗きこむと、中は海外のお客様でいっぱいでした。皆、楽しそうにお酒を飲んだり、お料理に舌鼓を打ったりしながら、お話に花を咲かせているのです。それは、とても不思議な光景でした。だって、周りは暗くて静かな住宅街なのに、ここにだけいっぱい人が居るのです。思わず『皆さん、明日の朝、葉っぱを咥えていませんか、大丈夫ですか?』と、心配をしたくなってしまったくらいです。

 その時です、お店の中で飲んでいる数人のお客様が、覗いてる私に気が付いて手招きしはじめました。それも、チョイチョイなんて優しいのではなくて『そんなトコで見てないで、一緒に飲もうぜ!』と言っているかのように、グイグイ手招きするのです。

「いや、あの、その…」

私は思わず固まってしまいました。だって、飲みに来たとかそんなんじゃないんです、ないんですよ? でも、ここまで来ると、『もう、後には引けない』と、覚悟を決めました。

「お、おじゃましま…す…」

と、いった感じて、おっかなびっくりガラスの引き戸を開けると、一気に沢山の笑い声が溢れてきました。そしてそれは、私の想像していたのとはかなり違う雰囲気のお店でした。実際に来たのは初めてですが、一応、フロントマンですし、人気店は事前にネットで情報だけは調べていましたから、検索して見つかる大きな和のお皿に盛りつけられた白梅堂の綺麗な生け花のようなお料理達に、もっとこう、肩が凝りそうな高級レストランだと思っていたのです。でも、実際には少し暗めの店内に流れてくるジャズや、長い木製のカウンターを見ると、なんだか、レストランと言うよりも、パブやバーに近い雰囲気だったのです。そして、見た感じ、どうやら私以外の日本人は誰も居ないようでした。

 さて、呼ばれたはいいけれど、何だか席が無さそうで入口で困っていると、私に手招きをした男性が、『こっち! こっち!』と、自分の隣の席を指差しています。遠くからひょいっと覗きこむと、確かに、カウンターの一番奥が空いていました。

 私は、横一列に並ぶ背の高いお客様の背中の壁の隙間からカウンターの中を見ると、黒いシャツに黒いベストを着た小柄なバーテンダーさんが、俯いてお料理を盛り付けている姿が見えました。どうやら、この賑わいで、こっそり入って来ちゃった私には気が付いてないみたいです。

「あ、あのぅ、予約とかしてないんですけど、大丈夫ですか?」

これまた恐る恐る尋ねると、バーテンダーさんは、俯いたまま「あ、この時間はもう予約も途切れてるんで大丈夫ですよ。」と、言ってくれたので、ホっと胸を撫で下ろし、私は鮮やかな生け花が飾ってある一番奥のカウンター席へと進みました。

「今日は、ご丁寧にありがとう!」

席に座った途端、隣から聞こえて来たのはとても滑舌のよい英語でした。私は思わず驚いて隣を見ると、そこにはお揃いの結婚指輪をした、若いご西洋人のご夫婦が笑っていました。そう、それは、夕方フロントにみえて「ハクバイドウノ ヨヤクヲ オネガイシマス」と、言ってきた、うちのホテルにご滞在中のカップルさんだったのです。

「あの、予約、取れませんでした…よね?」

私が恐る恐るそう尋ねると、二人は少し申し訳なさそうな顔をして、

「はい、紹介していただいた店も覗いてみたんだけど、やっぱりこの店に来たくって、奥さんと相談して、遅い時間にもう一度チャレンジしてみたら、幸運にも席が空いていたんだよ! その節は丁寧に違うお店を紹介してもらったのにごめんなさい!」

「親切に案内してくださったから、あなたの顔は覚えてたの! ねえ、お礼に、私達から一杯ご馳走したいんだけど、いいかしら?」

と、笑ったのです。

 最初から決めていた白梅堂で夕食が取れて、ご満悦な様子を見ると、フロントマン的には良かったと思いましたが、いきなりホテルのお客様からお酒を奢ってもらうのは申し訳なくって、私は両手を開いて、いいえいいえとブンブン横に振りました。でも、そこらへんはお酒の入った海外の方です、もう、私の言い分なんてお構いなしでした。突然、奥さんが聞きなれない外国の言葉で何かを言ったかと思うと、カウンターの端で背を向けて、おしぼりウォーマーに手を突っ込んでいたバーテンさんが、一言「ゲアネ!」みたいな事を言ったのです。

 私はこれまたびっくりしてしまいました。だって、英語じゃないんですよ? なのに、伝わってるみたいなんですよ? すると、私の様子に気が付いた二人はまた笑いました。

「ああ、今のはドイツ語よ、びっくりした?」

「この店は、シェフが長い間ドイツで修業した人だからドイツ語で雑談が出来るんだよ。だから、どうしても来たかったんだ。ほら、2週間も日本にいると、たまに恋しくなるんだよ、母国語が」

「で、な、何て言ったんです?」

「ああ、うちの奥さん『おしぼりよりも先に、彼女にビールを出してあげて』って言ったんだよ!」

 それは、なんだか不思議な体験でした。だって、満席のお店の中、見渡す限りの外国人さん。飛び交うのも海外の言葉ばかりで、まるで私が旅行に来たような気分になるのです。

 そして、本当に、おしぼりより先に私の前に生ビールが置かれると、私達は乾杯をしました。教えてもらったドイツ語の乾杯は「プロスト!」で、三人でグラスを重ねた途端、あちかこちらからも、私達に向かって「チアーズ!」という声が上がりました。ほんとに、ここは日本なのでしょうか?

「いらっしゃいませ、うちにはもう、何度かおみえですよね?」

グラスを傾けて喉を鳴らしていると、突然日本語で話しかけられて私は驚いてしまいました。そして、思わず慌てて

「い、いいえ、は、初めてです!」

と、答えながら正面を見ると、デジャヴでしょうか、そこには知ってる顔があるのです。

「あ、ごめんなさい、見覚えのあるお顔だったので、何度かご来店された事があるお客様だと」

いや、ほんと、お互い同じ事を思ってたんですね。確かによく知ってるような、どこかで会った事があるようなそんな気がしてならないのです。でも、あれですよ、私、本当に始めてですよ、この店…。そして、しばらくお互いの顔を見合った後

「あれ?」

「あれれれれ?」

と、二人で声を上げました。

 そうです、面識があるのは当たり前です。だって、この少しウェーブがかった長い髪に銀色のメッシュ。スウェットではありませんが、黒いシャツに黒いベストの黒づくめ。見覚えがあるはずです。だって彼は、今朝のチョイ悪おじさんだったのですから。お店に入っから、何度か正面以外からは拝見したのですが、その時は随分と小柄な方だと思ったので、まさか彼だとは思わなかったのです。

「カウンターの中って、掘ってあるんですか?」

不思議に思って尋ねると、ちょいワルさんは何が言いたいのか気付いた様子で、

「ああ、こっちは20センチ程低くなってるんですよ。ほら、同じ高さにしちゃうと、僕が座ってるお客さんを見降ろしちゃうでしょ? それじゃあスナックみたいだし威圧感もあるから、同じ目の高さになるようにしてるんです」

と、笑いながら教えてくれたのです。そして、「食べたいもの見つかったら教えて下さいね。この時間だったら、メニューに無くても『こんなのが食べてみたい』でもいいですよ。和食でも、フレンチでも、イタリアンでも何でも作ります」と言って、またパタパタとカウンターの端に向かって小走りに進むと、今度は英語で他のお客様の対応を始めました。

 なるほど、どおりで英語が上手なはずです。だって、彼の正体は海外のお客様に人気のお店のマスターだったのですから。それにしても忙しそうです。さっきから一人で右や左に走り回っています。私は改めて店内を見渡すと、ざっくりですがお客様の数を数えて驚きました。

カウンターは私を入れて七名。

テーブル席は三つで、それぞれ3~5名が腰かけています。

そう、全部で20人ほどのお客様がいるのに、見た限り、スタッフは彼だけで、一人でお酒を作ったり、料理したり、その上外国語で接客までこなしているのです。

「この店は彼が一人で回してるんだよ」

「だから、1時間に6名までしか予約を受けれないんですって」

不思議な顔をして回りを見ていたからでしょうか、私の考えてる事が分かったみたいで、お隣のドイツ人のカップルさんが、疑問に答えてくれました。

「え、でも、もったいないですよ。20席以上あるじゃないですか、これだけ繁盛してるならスタッフを入れて、制限掛けずにもっと回転させればいいのに」

すると、ご夫婦は笑い出しました。

「僕もさっき同じ事を聞いたんだよ。でも、お料理のクオリティを守りたいんだって。確かに彼、情熱的に料理を作る芸術家肌だから、それ以上の人数は集中力が保たないと思うよ」

「それに、この店は居心地いいから、どの道、何回転もは無理ね。見てると、どのお客さんも、3時間以上は滞在してるから、結局、一日一回転くらいしかしなさそうよ、このお店」

なるほど、これでずっと抱いていた疑問が解けました。お客様全員の滞在時間が長いから一日に一回転しかしないお店。しかも、マスターが一人でやっているから、その一回転も小分けして一時間に六名ずつしか入れない。そりゃあ、いつ電話したって席が取れないはずですよ。

「で、お料理はどうでした? 評判通りでしたか?」

クオリティの話しを聞いた私は、思わずそんな質問をしました。実際、気になっていたんです。だって、いつもお店を案内するばかりだし、自分も初めての店だったので。

「料理は凄く良かったわ! ここ、一切の作り置きがないから全部作りたてなの。注文が入ってから目の前で食材の説明をしながら野菜やお肉を切って、調理を始めるのよ。ほら、カウンターの中にコンロがあるでしょ? 盛り付けだって目の前よ、カウンター席からだと最初から最後まで見られるわ」

彼女の説明に覗き込むようにカウンターの中を覗き込むと、確かに言われた通りに私の目の前には大きなコンロがあって、今も何やら茹でられているではありませんか。そして、驚いたのはそれだけではありませんでした。

「ほら、そこのお皿、見てちょうだい!」

奥様のその声に、私の目の前にある鮮やかな生け花をまじまじと見ると。それが、カウンターの上に活けられたお花ではありまえんでした。そう、それは、大きな和皿の上に盛りつけられた色とりどりのお野菜だったのです。

「日本はさ、どこに行ってもお料理は値うちでおいしいのだけど、野菜が少ないのだけが残念なんだ」

「そうそう、炭水化物のお店と、お肉料理のお店ばっかり。私達西洋人は、とにかく山盛りの野菜と果物がないとダメな人種だから、こういう新鮮なお野菜がお腹いっぱい食べれるお店は有難いのよ」

「俺達には夜にお米を食べるのはヘビー過ぎるんだよ」

ふと、会話の途中からドイツのカップルの向こうでそんな声が聞こえました。これまた覗き込んで見ると、先ほどのオーストラリア訛りの英語の主は、器用にお箸でサラダを食べてます。

 確かに、今まであまり気にしてきませんでしたが、言われてみればそうかも知れません。回転ずしに、ラーメン、お好み焼きに、お蕎麦、うどん、カツドン、天丼、パスタ屋さんに定食屋さん。うちの街だと飛騨牛が有名だからさらに焼肉屋さんとステーキハウス。普段街中で目につくお店は炭水化物とお肉のオンパレードです。

「日本というか、アジアには『主食』って考えがあるからね、どうしてもお米が食事のメインになっちゃうけれど、西洋の人は違うんですよ」

突然聞こえた日本語に私はまた驚きました。慌てて振り向くと、いつの間にか料理を終わらせたちょいワルさんが、カウンター越しに立っていたのです。

「で、でも、西洋人の主食はパンですよね??」

「いや、その考え方もどうかと思うよ? 強引にアジアのロジックに当てはめてるんじゃないかな。だってほら、西洋人の場合、山盛りのパンを食べたいからおかずを食べるって感じじゃないでしょ?」

言われてみれば、短大時代、休みを利用して行った、イギリスやオーストラリアの事を思い出してみると確かにそうです。外国人の食卓にパンは欠かせませんが、日本人みたいな食べ方はしないように思います。なんて言うか、食事の合間に口直しのパンを一口。という感じがしたのです。

「まあ、強いて言えば西洋人の主食は野菜だと思う」

突然、ちょいワルさんは、そんな考えもしなかった事を言いました。

「野菜…ですか?」

「そそ、野菜。ドンブリいっぱいの野菜が食べたいからお肉を食べる。お魚を食べる。それならしっくりくる」

確かに、見渡すどの席を見ても、パンは無くても、野菜料理だけは何皿もテーブルの上に並んでいるのです。

そして、それを見た瞬間、私の胸が締め付けられました。だって、テーブルいっぱいに並んだお野菜のお料理達。それは私におばあちゃんが作ってくれたお料理の数々を思い出させてしまうのですから。

突然、私の頬を涙が流れる感触が走りました。

もう二度と、叶えてあげることの出来ない、私が作るオムライスを食べたいというおばあちゃんの些細な夢。それさえも、私は自分の事ばかりを優先して叶えてあげる事が出来なかった。これは、お酒のせいなのかもしれません。お酒のせいで、思わずツボにはまっただけなんです。でも、一度それを考え始めると、もう、他の事が考えられないのです。おばあちゃんの事ばかりを考えてしまうのです。申し訳なさで、胸がつぶれてしまいそうになるのです。きっと、この桜の季節に、私がミスばかりしてしまうのはこのせいです。まるで、指先に小さな棘が刺さった時みたいに、ずっとそれが気になって、他の事に集中が出来ていないのです。そして、おばあちゃんが居なくなってしまった今、もう、解決する事は出来ないのです。

「だ、大丈夫? 悲しい事でもあったのかい?」

ドイツ人の旦那さんに声を掛けられて、私は慌てて手の甲でごしごしと涙を拭うと、

「何でも無いんです! 折角の新婚旅行なのにシンミリさせちゃってごめんなさい!」

と、謝りました。

「ど、どうしてそれが分かったの?」

私が咄嗟の謝罪をすると、二人はとても驚いた顔でこちらを見ています。

「あ、フロントに居る時に気付きましたよ。だって、おそろいの指輪が真新しかったので」

「そうなのよ! ずっと日本に憧れてて、やっとハネムーンで来れたの!」

半ば強引に話題を変えようと振った話題。そして、その返答に私はなんだか救われた気がしました。だって、この人達って優しいなあ。って素直にそう感じたんですから。そう、気になってるはずなのに、私の涙の理由にはこれ以上触れず、自然に楽しい方へ楽しい方へと話題を変えてくれるのですから。

「ほら、これ見てよ!」

そう言って、ほろ酔いで上機嫌な旦那さんが次に見せてくれたのは、左腕に巻かれた傷だらけの古い腕時計でした。

「こいつは、うちの爺さんがひい爺さんに成人の祝いに買ってもらったロレックスでね、結婚の祝いに『お前ももう一人前だから』って言ってプレゼントしてくれたんだよ! 僕は、子供の頃からこいつが欲しくて、欲しくて、やっと認められて手に入ったのさ!」 

すると、今度は奥様が負けじと立ち上がります。

「あら、そんな事言ったら、私もお母さんからタンスを貰ったわ! もう、100年以上も、お嫁に行く娘に代々受け継がれてる自慢のタンスなのよ!」

涙を拭いながら、私はそれを聞いて驚きました。だって普通、どう考えたって結婚のお祝いでもらうのならば、そんな100年近く使ったボロボロじゃなくて、綺麗な新品が良いに決まってるじゃないですか。なのに、こんなに嬉しそうに自慢するのです。でも、そういうものに喜びを感じられるって、何だか家族というか、強い一族の絆みたいなのがあって、羨ましいような感じもします。オムライスを作ってあげられなかった私が言うのもアレですが、もし、おばあちゃんから何か思い出の品を貰えたならば、それは、なんて素敵な事なのだろうって、今の私は素直に思ったのですから。

「日本も昔はそうだったんだけどねぇ。ほら、『家宝の○○』とか『先祖代々の○○』ってよく言うよね?」

いつの間にかまた目の前に立っていたしたちょいワルさんが、目を閉じて腕組みながらしんみりそう言っていると、突然、私の携帯が震えました。急いで画面を見るとお母さんからのSNSです。私は思わず慌ててしまいました。当たり前です。いつもは仕事が終わってとうに帰ってる時間なのに、連絡もしないまま成り行き任せでこんな遅くまで飲んでいるのですから。

 でも、よくよく携帯電話の画面を見てみると、要件はそれとは違いました。

『出雲の姉さんが、瞳宛てに荷物を送ったって言うんだけど知らない?』

『配送の会社に聞いたら届けたって言うけど見当たらないのよねぇ』

それは、そんな内容だったのです。

 それを見て、私は出勤前にレターパックを拾った事を思い出しました。時間が無かったから、差出人までは見ませんでしたが、てっきり何かの通販だと思ってバッグにしまい込んだままだったのです。改めてレターパックを取りだして確認すると、確かに、お母さんが言った通り、それは島根の叔母さんから私に宛てられたものでした。しかし、なんでしょう、いったい。お中元やお歳暮で、お父さん宛てに果物が届く事はありますが、私宛てに荷物が届くなんて初めての事です。

 小首を傾げながら、爪の先で丁寧にパックの封を開けて行きます。そして、中身を覗きこんだ瞬間、止まったはずの涙がまた流れ始めたのです。

 そこにあったのは、色とりどりの広告の束でした。見えたのは角の方だけでしたが、私はそれが何だか分かってしまったのです。そう、おばあちゃんお手製のノートです。大事にレターパックの袋から取り出すと、さらに一枚の便せんが入っていました。それは、島根の叔母さんからのもので「母の遺品を整理してたら見つかったので送ります」と、書かれてありました。

 ページを捲ると、まるでクロッキーブックのように、所せましと貼られたお酒やビールのラベルが目に入って、子供の頃の思い出が蘇ります。当時の私のいたずら描きもありました。さすがに、おばあちゃんが書いた達筆な草書の文字や、数字の羅列みたいなのは読めませんが、どれもこれも、懐かしい思い出の塊だったのです。

「見てください! 私もおばあちゃんからこんなに素敵なプレゼントをもらっちゃいました!」

まるで、100点を取った小学生のように見えたかも知れません。でも、私はそれが嬉しくて、嬉しくて、思わず席から立ち上がると、両手で掲げて皆に自慢したのです。

「どれどれ、僕にも見せて」

と、言って、広告の束を手にしたちょいワルさんは、ぱらぱらとページをめくると

「こりゃあまた、凄いお宝だなぁ」

と、言いました。もう、私は嬉しくなっちゃって

「でしょ、でしょ!」

と、胸を張ったんです。

 その後、彼が私達のカウンター席の前から離れてオーダーを作り始めた後も、私は嬉しくて、何度もドイツのご夫婦と乾杯をしたのです。そして、三杯目かのビールを飲み干した時、何品かのお料理が私の前に置かれました。

「あ、ごめんなさい! 私、お料理注文するの忘れてました! でも、これ、頼んでませんよ?」

と、私が言うと、マスターは機嫌よさそうに、

「いいのいいの、良い物見せてもらったお礼に、僕からのプレゼント」

と、言ってほほ笑みました。

 そこにあったのは、揚げた茄子をお醤油で和えたものと、ホウレン草のおひたしっぽいもの、あとは、水菜のサラダのようでした。

 私は恐縮しながらも、とりあえず茄子の和え物を頬張りました。そして、次の瞬間、また涙が止まらなくなってしまったのです。

「さっきのメモ帳、あれ、本当に宝物だよ。一生大事にするといいよ。だってあれ、全部手書きのレシピ帳なんだから。数字の羅列は調味料の配合表。出汁、醤油、酒、みりんの割合が書いてある。自家製の出汁割り醤油のレシピまで書いてあるし、しかもご丁寧に、使ってる醤油やお酒のラベルまで貼ってあるんだから。まあ、同じ醤油はウチには無いけれど、似たような地域のがあったから、近い味になってると嬉しいが」

 そうなのです、出されたお料理は、おばあちゃんの味がしたのです。私はボロボロ泣きながら食べました。どれもこれも子供の頃に食べた懐かしい味です。そして、一人で食べるのがもったいなくて、お皿を隣へ回します。すると、一口食べたお客さん達から、次々に感嘆の声があがりました。そうです、これが、私の自慢のおばあちゃんの味なのです。

「あのですね、マスター!?」

「な、なんですか、突然!?」

「小豆を使った美味しいオムライスのレシピってありますか!?」

うん、本当に突然だ。でも、急に思いついてしまったんだから仕方がないじゃない。私はどうにも作りたくなったんだ、小豆が入ったオムライス。今更だけど、どうにも食べてもらいたくなったんだ。

 目の前に立つ、大きな二重が少し眠そうに見えるダンディなおじ様は、腕組みしながら「前もってスープで炊いておく?」とか「いっそ、ピラフみたいに米と一緒に…」なんて突然降ってわいた突拍子も無い私のリクエストにウキウキしながら呟いています。本当に料理が好きな人なんですね、このちょいワルおじさん。


 遅くなってごめんね、おばあちゃん。

 忙しいのが終わったら、島根に行くから。

 一人でも絶対に行くから。

 そしたら食べてね、私の作ったオムライス!


                               第一話

【継がれるもの】 おわり




















【白梅堂レシピ  by 白梅堂店主・蔵田龍二】

 一品目『瞳ちゃんのおばあちゃんのお醤油』


今回ご紹介するのはお醤油のレシピです。とは言うものの、大豆から醤油を醸造する…という物では無く、醤油をブレンドして作る『ダシわり醤油』のレシピと、そのアレンジ料理です。


皆さんは『ダシわり醤油の造り方』と聞いて、何を想像しますか? 恐らく、醤油をダシで割った物を想像する方も少ないないのではないかと思います。でも、実は違うのです。『ダシわり醤油』とは、お水でお出汁を取る代わりに、お醤油でお出汁を取った物を差します。


 ではまず、材料です。

〇濃い口しょうゆ:10

〇薄口しょうゆ :1

〇みりん    :1

〇酒      :1

〇昆布     :適量

〇かつおぶし  :適量


お気付きの片もみえると思いますが、分量は対比です。グラムとか、リットルではありません。これは、私達プロの料理人が使う分量の覚え方で、この配分を覚えると臨機応変な量が作れるのです。例えば『スプーンに十杯、一杯、一杯、一杯』といった具合に、量るのに使う道具をスプーンではなくオタマやコップに変える事によって、同じ味のままさまざまな分量が作れます。


では、次に作り方です。


【作り方】

1) 濃い口しょうゆ、薄口しょうゆ、みりん、酒をお鍋に入れる。

2) 合わせた物に昆布を浸す。

3) 昆布がふやけたタイミングで火にかける。

4) 鍋の淵に気泡が生まれ始めたら昆布を取り出して、かつおぶしを入れる。

5) ひと煮たてさせたら濾し網でこす。

6) 水や氷を張ったボウルなどを使い一気に粗熱を取る。

7) ペットボトルなどにいれて冷蔵保存。


以上が、基本的な作業工程となります。尚、ここでも細かい分量や温度等は書いておりません。と、言うのも、その振れ幅が『人それぞれの味』となるからです。人それぞれ違う種類の醤油や酒、昆布を使い、それぞれのタイミングで昆布を入れたり、出したりする。そこに個人差が生まれて面白いのです。ただし、全てが気ままにやれば良いのかというと、そうではありません。次は、前記のレシピにての注意点やポイントについて触れます。


【ポイント】

〇『昆布の香りが強いのが好きな人は、昆布を抜かずに鰹節と一緒にひと煮たて。』

 こうする事によって、昆布の風味が強くなります。低温で抜くと淡く、高温で

 抜くと強くなる。と、いった具合です。瞳ちゃんのおばあちゃんレシピでは、ほどほどの70℃~ 鍋の淵に気泡が生まれる段階で昆布を抜いています。

〇『かつおぶしの量』

 かつおの風味は温度よりも量で調節します。しっかりと濃いダシの風味が好みの場合は多めに入れてください。(注)完成後の鰹節はたっぷり醤油を含んでいます。もったいないの

 で、しっかり絞ってください。

〇『一気に粗熱を取る』

 これは、蒸発に起因します。ゆっくり熱を取ると、その分長い間湯気が出続けます。そして、これは抜けて行った水分の事を指します。ようは、煮詰まってしまうのです。その結果、塩分濃度が濃くなり『しょっぱい醤油』や、気温によっては『毎回違う味の醤油』が、出来てしまうので、完成したら一気に熱を取るのが良いです。

〇『醤油のチョイスについて』

 今回のレシピは万能ダシ割り醤油になっています。元の濃い口に対して1割の薄口を混ぜる事で、軽やかよりのブレンドになっています。おひたし、サラダにも使えますし、もちろんお刺身も食べれます。特に白身魚向けのキレの良い味になっています。また、この1割を薄口に代って『たまり醤油』にすると今度は濃厚レシピとなり、マグロ等の赤身のお刺身に耐える醤油となります。


 以上が、ダシ割り醤油のレシピとなります。まずは、手に入る材料で作ってみてください。そして、お好みに合わせて醤油や酒、みりんの種類や配合を変化させていってもも面白いと思います。それぞれのオリジナル醤油をご堪能ください。





【裏レシピ】

 〇極上おかか

 

 【材料】

 〇ダシ割り醤油を作った後のおかか(絞った物)

 〇みりん

 〇しろごま


 【作り方】

 〇ダシ割り醤油で使った鰹節を包丁で切る。

  絞った後の鰹節をまな板に広げ、一センチ四方くらいにカットする。

 〇鰹節に白ごま(好みで適量)を混ぜ、みりんと一緒にフライパンで炒る。

  9割方の水分が飛んだら完成。

  残り1割は、粗熱が取れる段階で蒸発します。

  みりんは糖度が高く、フライパンの上で完全に水分を飛ばそうとすると

  焦げてしまう事が多々あるのでご注意ください。


 完成したおかかは、ふりかけ、おにぎりに最適です。また、そのままお酒のつまみにもなりますし、簡単に生の胡瓜やキャベツにもみ込んでもおいしいです。(もみ込む場合は、プラスダシ割り醤油少量を追加)

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