箱の外へ
午前七時ぴったりに、僕は目を覚ます。
今日もやっぱり、目を開けたときに真っ先に見るものは自分の手だ。だけど、今日はいつもとは決定的に違う。僕はいつものように水差しから水を飲んで、いつものように着替えるけれど、授業の開始を待つことはない。
昨日、吉田先生から連絡があった。個別で呼び出されるようなことはしていないはずだけれど、といぶかしがっていると、吉田先生は「そんなことじゃないんですよ」と細い目を細くして笑った。「菊池くん。もし、美山さんと手を繋ぐことができるとしたら、きみは、何をどこまで捨てることができますか」
「おはようございます、菊池くん。きちんと休息はとりましたか」
初めて見る、モニター越しでない吉田先生は、思っていたより背が低かった。
「はい。ちゃんと寝たし、朝ごはんも食べました」
「では行きましょう」
先生は僕に白い布の何かを渡した。不思議そうな顔をしている僕に、先生は「マスクですよ」と言った。「口と鼻を覆って、ウイルスの感染を予防するんです。外では、必ずこれを着けるように」
こんなものが感染の予防になるんだろうかと、不安に思う。マスクをつけていても、それが顔に出ていたらしい。吉田先生は、あっはっは! と笑った。モニター越しでないと、声だけでなく仕草にも空気の動きを感じるんだなあと、僕は感心する。
そうして僕は吉田先生に導かれ、文字通り生まれてから一度も出ることのなかった部屋の外へ、足を踏み出した。廊下は薄暗く、足元だけが白いライトで照らされている。
「普段はもっと明るいんですけどね」と吉田先生。
「今日は、
「それは……やっていいことなんですか?」
「いいえ。やってはいけない、悪いことです」
「先生が、悪いことをして良いんですか?」
「もう『先生』ではありませんから」
前を歩く吉田先生がどんな表情をしているのか、全く想像ができなかった。大股で速歩きの先生についていくのに必死で、そんな余裕がなかったせいもある。五分ほど歩いて、先生はようやく立ち止まった。廊下の壁には緑色のライトで四角い縁取りがしてあり、「MIYAMA」という文字がやはり緑色に光っている。ミヤマ……美山さんが、この壁の向こうにいる。
実感がわかなかった。美山さんには――もちろん、他の誰とも――モニター越しでしか会うことはできない。厚い壁は生活の気配も吸い取ってしまうし、まさかこんな近くで暮らしていたなんて、思いもしなかった。ここに来るまでに通ってきた廊下にも、いくつか緑色の縁取りをされているところがあった。それはもしかしたら、広場で時々会う西川くんの部屋かもしれないし、歌が上手な飯島さんの部屋かも知れないし、僕の描いた油絵を褒めてくれた斎藤くんの部屋かもしれない。
吉田先生が壁にキーコードを入力すると、部屋のドアは音もなく開いた。早く美山さんを見たい――僕の気持ちを察してくれたのか、先生が僕に場所を譲った。先生の代わりに、僕がドアの正面に立つ。美山さんは、アーモンドの形をした大きな目を真っ直ぐこちらに向けて、凛然とそこに立っていた。長い髪の毛はばっさりと切られ、毛先は耳の下あたりで揺れている。
「……邪魔になると思ったから」
僕の視線に気が付いたのか、美山さんは恥ずかしそうにうつむく。初めて、何の障壁もなく、美山さんの声が僕の鼓膜を震わせる。僕は少しどもりながら「似合ってるよ」と言った。美山さんの頬が赤く染まる。たぶん僕も、同じように頬を染めている。けれど、鼓動は思いのほか冷静だった。僕はモニターに触れたときのように、右手を前に出した。美山さんもこちらに歩み寄り、右手を出す。僕たちの手は触れ合う。何にも邪魔をされず、何にも阻害されず、美山さんの肌を感じる。
「……人間って、温かいんだね」
美山さんが言った。自分の右手で自分の左手を触るのとはわけが違う。他人の体温、他人の鼓動を感じる。
ずっとそうしていたかったけれど、吉田先生に「そろそろ行きますよ」と急かされた。美山さんにもマスクを渡し、準備は万端だ。僕たちはしっかりと手を繋いだ。あのとき想像したように――美山さんの手をしっかりと握る。僕は初めて知った。手を繋ぐと、手汗で少しだけべたべたすること。握った手はどんどん温かくなっていくこと。僕が手を握ったら、向こうも握り返してくること。
手を繋いだまま、吉田先生の後を追って暗い廊下を進む。誰も僕たちを止めに来ない。誰も僕たちを止めることはできない……。
やがて、廊下に終わりが来た。突き当たりの壁、赤いライトで縁取りされた四角形が、僕たちを待ち受けていた。
「ここから先は、外の世界です。私は……この先には行けません」
「えっ、どうして」
「ドアを閉めなければならないからです。開けっ放しでは、
「でも……」
僕たちはまだ子供で、外の世界のことを何も知らない。先生がいれば安心だと思っていたのに、その梯子を外された形だった。だけど、ドアなんて放って行きましょうとも言えない。ここで暮らしているのであろう友達たちを見捨てるなんて、考えたくもない。黙り込む僕の手を、美山さんが強く握った。
「先生、私たち、大丈夫です」
美山さんの方を向く。モニター越しに会うときは、いつもお互いに正面を向いていたから、横顔を見るのは初めてだ。赤いライトに照らされて、白い肌が薄闇に際立っている。マスクに隠されて見えないが、きっと緊張に震えているのであろう唇が紡ぐのは、覚悟の言葉だ。
「きっと二人でやっていけます。だから先生、大丈夫。そうよね、菊池くん」
昨日の夜、吉田先生に問われたことを思い出した。「もし、美山さんと手を繋ぐことができるとしたら、きみは、何をどこまで捨てることができますか」……。
右手につながるぬくもり。美山さんの体温。それと引き換えに、僕が捨てるべきものを考える。「うん」と僕は言った。それが、嘘偽りのない答えだ。
「怖いけど……でも、大丈夫です」
吉田先生は、安心したように笑った。笑うとなくなってしまうんじゃないかと思うほど細いこの目も、もう二度と見られない。
「では、先生の言うことをよく聞いて。外の世界に出たら山を下りて役場に行って、
「叔母さん……先生の家族が、外の世界にいるんですか?」
「私の家系は、
先生の言っている意味はよく分からなかったけれど、とにかく言われた通りにしなければならない。役場へ行く。よしだふみえさんを探す。先生の教え子だと説明する。やるべきことを忘れないように、頭の中で繰り返す。
「では、ドアを開けます。すぐに閉めますから、走って外に出てください。良いですね?」
頷く。ごくりとツバを飲み込みたかったけれど、口の中はカラカラに乾いていた。吉田先生がキーコードを入力する。ドアが開く……。
「さあ、走って!」
僕たちは手を繋いだまま、外の世界に飛び出した。靴の底が土を踏む。耳を風がかすめる。熱を持った光が、僕たちに降り注ぐ。僕は走りながら振り向いた。ドアの向こうに、まだ先生の姿が見える。
「先生、さようなら!」
僕が叫ぶと、吉田先生は笑いながら右手を上げた。
「はい、さようなら」
歴史の授業が終わった後で、通信を切るときに交わす別れの挨拶。それと何も変わらない調子で、僕たちはさよならを言う。そして先生はドアの向こうに見えなくなり、僕たちはたった二人になった。
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