吉田先生
午前七時ぴったりに、私は目を覚ます。
目を開けたときに真っ先に見るものは白い天井だ。仰向けに寝ているのだから当然だ。ベッドから下り、何か通知が届いていないかモニターを確認する。特になにもなく、私はほっと胸をなでおろした。
教え子たちが規範を越えた思考や会話をしていることに気付いたのは、半年ほど前だ。菊池くんは優秀な子供だが、ここでは危険視されるような思考を有していた。すなわち、自律心。第三者的視点から自分や自分を取り巻く環境を観察・分析し、普通の人間ならば放棄してしまうような困難な問題について考え続けられる胆力。それだけならば問題なかった。彼が美山さんと出会ってしまってから、彼の思考は明確に「危険」な域まで達してしまった。
清潔な水で淹れたコーヒーを飲んで、私は深くため息をついた。
「
初めは「自粛」と言われていたらしい。家の外に出ず、人と会わない。今でこそそれが当たり前になっているが、昔はたいそう苦労したそうだ。技術が発展し、部屋から一歩も出ずとも不便しないようになったのは「自粛」から二百年ほど経ったあとだという。人類は逃れられない本質――競争と侵略の本能――のために何度かのデジタル戦争を経験していたが、皮肉なことにそれも技術の進歩を促す要因となった。そして人類は、生まれてから死ぬまで、他人と一切会わずに生きていけるようになった。新型コロナウイルスの新規感染者は発生しなくなり、「封じ込め」が成功したのである。
人類は、ついに新型コロナウイルスに打ち勝ったのだ。そう沸き立った世論が一気に絶望の底に叩き落されたのは、「封じ込め」が発表されてからわずか数週間後のことだ。その時の世界の混乱ぶりは、あらゆるメディアに生々しく記録されている。
『オオサカ
『サンフランシスコ
『シャンハイ
一切の「人間同士の接触」が絶たれているにも関わらず、世界各地で同時発生的に新規感染者が発生したのだ。物資、食料、水。あらゆるものの「汚染」が疑われ、徹底した調査が行なわれたが、結局感染源の特定には至らなかった。人類は一種の恐慌状態に陥り、恐怖は疑心を産んだ。国と国、
高い電子音が鳴った。今日は休息日だが、私は生活のペースを乱さないため、労働日と同じタイムスケジュールで動くことにしている。今の電子音は、そろそろ授業が始まる時間を知らせるものだ。私はモニターの前に座り、歴史の授業では決して使わない、極秘の映像資料を表示した。防護服を着た男性が、白いスチールデスクに両肘をついて頭を垂れたまま、低い声で喋っている。
「そうです、ウイルスはどこからも検出されなかったと……ええ、その発表は事実です……」
コロナ禍「再発生」期の、医師へのインタビュー記録だ。
「そもそも、
そこまで再生したところで、また電子音が鳴った。今度は甲高い警告音だ。私は映像を一時停止し、すぐに画面を切り替える。モニターには、教え子である菊池くんのモニター画面が共有される。もちろん、彼には分からないように、だ。菊池くんは図書閲覧システムで調べ物をしているようだった。検索キーワードは……「ウイルス」。
私は遠隔操作で彼の部屋のネットワークを遮断した。これが初めてではない。彼が「危険思想」の片鱗を見せるたびに、私は彼に婉曲な警告を与え続けてきた。そして、彼の「危険思想」の履歴を抹消し続けてきた。交流日における、美山さんとの会話だってそうだ。私が一部映像と音声をフェイクと入れ替えていなければ、彼も美山さんもとっくに「処理」されているだろう。
リスクを冒してまで、どうしてこんなことをしてしまうのか、自分でもよく分からない。ただ、モニター越しに手を触れ合わせた菊池くんと美山さんを見たとき、彼らをかばってきて良かったと心底思ったのは確かだ。
私は再び映像資料を再生する。凍りついたように動きを止めていた防護服の男性が、再び動き始める。
「その仮説というのは……私のことを、頭がおかしくなったと思うかもしれませんが……つまり、コロナ禍は永遠に終息しないのではないかということで……。全ての感染者が死亡、もしくは回復した時点で、一切の理屈を無視して、世界のどこかに問答無用で新規感染者が発生するのではないか……そういう……仮説でして……」
防護服の上からでも、男性がひどく汗をかいていることが分かる。
「分かっています。おかしなことを言っていると、ありえないことだと……分かってはいるのですが、けれど、そうとしか考えられない。そうでしょう? あなたも薄々、分かっているのではないですか? 人類はもう、永遠にコロナウイルスから逃れることは出来ない……どんなに清潔な
何度も繰り返し見たせいで、彼の言葉も表情も、声に合わせて揺れる身体の動きすらすっかり覚えてしまった。このあと、彼は人類の愚かさを恥じ、ウイルスへの呪いの言葉を並べたあとで、自らの頭を拳銃で吹き飛ばすのだ。そこまで見る気にはさすがになれず、私は映像を停止した。
彼――私の曽祖父にあたる男の仮説は、正しかった。地上から感染者が根絶された瞬間、現存する人類の何割かが自動的に感染者になるという摩訶不思議な現象は、残念ながら再現性が取れてしまった。いくら引きこもったところで、新規感染者は発生してしまうのだ。この事実を知るのは、
菊池くんのように賢く行動力もある人間が、真実に辿り着いてしまうこともある。そうした人々は「処理」される手はずとなっている。殺されるわけではない。
せっかく淹れたコーヒーを、半分ほど飲んだまますっかり忘れていた。温め直そうと立ち上がったとき、メッセージの受信を示す赤いバッジがモニターに現れた。コーヒーカップを電子レンジにかけてから、私はバッジをタッチしてメッセージを表示する。私の住むここ――クラシキ
「…………」
オレンジのランプの中で、コーヒーカップはくるくる回る。私の思考もくるくる回転する。いつかこの日が来ると分かってはいた。菊池くんをかばうのにも限度があるし、私はその限度をとっくに踏み越えていたから。
不正なネットワーク遮断処置と、監視資料改鼠の疑いについての取り調べをするという告知だった。取り調べ日時は明日の午後。危険思想の兆候を意図的に見逃したのだから、厳重注意では済まないだろう。私は「処理」行きだろうし、そうすれば菊池くんも、美山さんも……。
熱くなりすぎたコーヒーを手に、私はベッドのふちに腰掛けた。私は一体何がしたくて、彼らをかばい続けてきたのだろう。早期に思想洗浄をしていれば、彼らだって危険水域に達さずに済んだかもしれないのに。私は一体、菊池くんと美山さんに何を期待していたのだろう。ふと、子供のころを思い出した。モニターの感触を思い出した。私も彼らのように……誰かに手を触れたいと願っていたことを思い出した。ささやかだが大それたその願いは、無機質で幸福な日々の中にいつしか埋没してしまったけれど……。
コーヒーを一気に胃に流し込む。頭をフル回転させて、私にできることを探す。幸い私は、
身体の奥に熱いものがふつふつと湧いてきたのは、温めすぎたコーヒーのせいだけではなかっただろう。
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