キューブ

深見萩緒

箱の中の子供たち


 午前七時ぴったりに、僕は目を覚ます。

 目を開けたときに真っ先に見るものは自分の手だ。天井を見上げ仰向けに眠っても、起きたときには左を下にして横になり、胎児のように丸まっている。僕はベッドから下りて、水差しからぬるい水を飲んだ。超純水に何種類かのミネラルが添加された、極めて清潔な水だ。とはいえ、僕は「不潔な水」がどういうものなのか知らなかった。全人学校の授業で習うことには、昔の人間は「不潔な水」ばかり飲んでいたらしい。でも、そんなことをしていたらすぐに死んでしまうに決まっているから、僕はそれをあまり信じていない。

 そんなことより、僕の気は別のことにとらわれていていた。今日は全人学校の「交流日」だ。あの子に会える。


「おはようございます。本日も美しい地球に感謝し、健やかに生きましょう。一時限目は歴史の授業です。近代史の途中でしたね。前回、どこまで学んだか覚えていますか?」

「二千四十三年に発生した、第一次世界デジタル大戦のところまでです」

「はい、その通りです。よく覚えていましたね」

 目の前のモニターに、吉田先生の顔と授業で使う資料が映し出される。吉田先生は細い目を更に細くして微笑んでいる。

「戦争がどういうものかは、前回お話した通りです。醜いことですが、人間は過去に何度も、互いに互いの命を奪う行為を繰り返していたのです。デジタル戦争というのは、情報を操作したりデジタル機器の接続を遮断したりすることにより、相手に致命的なダメージを与え合うことです。二千二十年に発生した新型コロナウイルスの蔓延――通称「コロナ禍」以来、私達の暮らしは機械に依存していますから、それを攻撃されたらどうなるか想像してみてください」

 吉田先生に促された通り、僕は「戦争」を想像してみた。デジタル攻撃をされたら、この授業も受けられなくなる。音楽や映像といった芸術作品も見られないから、毎日が暇だろうな。そこまで考えて、それよりずっと大変な問題が発生することに遅れて気付く。そういえば、僕の毎日の食事を作ってくれるのも機械だし、水や空調の洗浄をしてくれるのも機械だ。それに、機械が使えなくなってしまったら、「交流日」にあの子に会えなくなってしまう。

 モニター越しに、僕の沈んだ表情を読み取ったのだろう。吉田先生が「そうです、戦争はとても恐ろしいものなんです」と言った。

「人類が命の価値に気付くのには、あまりに長い年月がかかってしまいました。しかし第四次デジタル大戦を経て大陸文明がほぼ崩壊したことをきっかけに、人類の意識は変化しました。つまり……人命にかえられる利益などない、という認識が広まったのです。大陸に存在した旧文明については、歴史の授業だけでなく倫理の授業でも習うと思いますが……」

 それから先の説明は、よく頭に入ってこなかった。僕は恐ろしい「戦争」、そして「コロナ禍」について、ずっと考えていた。もしデジタル戦争が起こったら……今の生活が送れなくなって、病原体コロナウイルスに満ちた外の世界へ出なければいけなくなったら……。僕は映像でしか見たことのない外の世界を、自分が彷徨っているところを想像した。僕は歩く。清潔な水と食べ物を探して……歩く僕は、あの子の手を握っている。……誰かの手を握るというのは、どんな感触がするのだろう。


 昼ごはんは、何だかあまり美味しく感じなかった。僕の体調、僕の好みに完全に合うような食事が出てくるはずなのだから、美味しくないわけがないのだけれど。残しでもして、精密検査を受けさせられるのは面倒だ。無理に口に押し込んだけれど、食事のペースも記録されているはずだから、どちらにしろ精密検査は免れないかも知れない。

 オルゴールの可愛らしい音色が部屋に流れ、午後の「交流」の時間を知らせる。気を取り直して、僕はモニターの前に座る。広場にはアクセスせず、個人コードを打ち込んだ。モニターに「呼び出し中」の文字が点滅する。この時間ほど緊張するものもない。二十秒ほどまたされ、モニターがパッと明るくなったときの嬉しさも、これにまさるものはない。

「こんにちは、菊池きくちくん」

「こっ、こんにちは、美山みやまさん」

 美山さんは、長い髪をお下げにしていた。確か先月はポニーテールだったし、その前はウェーブがかかっていた。オシャレで可愛い美山さんが、広場で色んな人と交流するより僕と話すことを選んでくれる。僕の顔は自然とニヤける。

 僕たちが広場で出会ってから、もう一年が過ぎようとしている。交流の回を重ねるたびに、僕は美山さんのことが好きになっていった。

 今日の話題は、コロナ禍とデジタル戦争について。僕たちの生活がいかに容易に破壊され得るものであるか、人類の良心に頼らずに生活を維持するには、どのような対策が必要か。二人で議論を重ねる。ほとんどの女子は――いや、女子だけでなく男子も、こういう話題を避けようとする。考えるのが怖いとか、難しいとか、考えても意味がないとか。僕はそういう姿勢が嫌いで、だからこそ僕と同じ――「考え続けることに意味がある」という姿勢を持つ美山さんに、惹かれてならないのだ。

「コロナ禍の前ってどんな世界だったんだろう」

 美山さんがふと呟いた。

「人と人とが肌を触れ合わせてたって本当? 一緒にご飯を食べたり、手を握ったり。でも、それって汚くない?」

 さっきまさに美山さんの手を握る妄想をした僕は、彼女の言葉に動揺する。「うん、汚いと思う」と答えたが、少し声が裏返ってしまった。

「コロナ以外にも、病原菌ってたくさんいるでしょう。いつ病気になるか分からないのに社会的距離ソーシャルディスタンスを取らないなんて、昔の人たちって本当に、人間の命を軽視していたのね。でもコロナ禍をきっかけに、人類は正しい方向に進めた。私たち、良い時代に生まれて来られたのね」

「そうだね。先生たちも、いつも言ってるし。美しい地球に感謝して、健やかに……。本当に、その通りだよね」

 沈黙が流れた。僕は美山さんとの距離感を測っていた。ここでもし僕が「でも、美山さんと手を繋いでみたい」と言ったら? 彼女は嫌がるだろう。何を言っているんだと、怒るかもしれない。けれど……。

「ねえ、菊池くん」

 先に口を開いたのは美山さんの方だった。

「本当に、そう思う?」

 モニターの向こうから、美山さんは真っ直ぐにこちらを見ている。アーモンドの形をした大きな目が、部屋の照明にきらきら輝いている。僕は思わず手を伸ばし、モニターに触れた。美山さんも手を伸ばし、同じようにモニターに触れた。画面を介して、僕たちの手は触れ合う。マットな手触りのモニターは、どう取り繕おうが美山さんの手では決してない。

 画面の中で、美山さんは泣いていた。それを見たら僕も悲しくなって、でも美山さんの前で泣くのは格好が悪いような気がして、唇を噛んで涙をこらえた。

 僕には分からない。どうして美山さんが泣くのか、どうして僕も泣きたいのか。どうしてこんなに悲しいのか、僕には分からない。他人と触れ合うことは汚いはずなのに、他人と触れ合えないことは悲しいことなんだろうか。考え続けることに意味がある。けれど、いくら考えても分からない。僕たちは長いこと、手を触れ合っていた。

 やがて可憐なオルゴールの音が、交流の終了時間が迫っていることを知らせる。

「じゃあ、またね」

 名残惜しそうに画面から手を離し、美山さんが言った。「またね」と僕も言った。僕たちはまた会える。だけど、永遠に会えない。


 昼ごはんを嫌々食べたのがやっぱりバレていたようで、晩ごはんは僕の好物ばかりが並んでいた。お腹いっぱい食べて、温かいお風呂に入って、柔らかい布団にくるまって眠る。約束された幸福の中、美山さんの頬を伝う涙が、いつまでたっても頭から離れなかった。

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