【11】
「あ、じゃあここに」
私は席を立ち、池永さんに着席を促した。そして職務に戻る。
「すみません。寝坊してしまって……」
本当に申し訳なさそうに、そして少しは気まずそうに頭を下げる池永さん。席に座る直前、美沙さんと視線がぶつかった。ほんの、数瞬。けれども、不自然な停止時間。今まで見たことのない、襟のピシッとした服。無精ひげも全く見られないし、髪型もかなり決まっているし、爪まできれいに切られている。寝坊なんかしてないでしょう。
「何か飲みますか」
私は池永さんにメニューを差し出す。何気なく受け取ってから、目を丸くする。そして、私のことを見上げる。
「えーと」
「どちらが良いですか」
池永さんはメニューに視線を戻し、しばらく唸っていた。それもそのはず、今日のために特別に用意したメニューなのだ。そこには、コーヒーとジンジャーティーしか書かれていない。ここまですれば私の意図は伝わるだろうと思ったが、彼はそれでも「コ」と発音するために口を開いた。私は思わず睨みつけた。
「……カッ……ジンジャーティーで」
何とか口の形を修正して、ようやくこのかたくなな男は私に紅茶を頼むに至った。
数分後、テーブルに運ばれるジンジャーティー。ちなみにその間、会話はなかった。
「まだ熱いですから気を付けてくださいね」
「あ、はい」
怪しげなものに恐る恐る見る目で、池永さんはティーポットを見ている。ひょっとして……注ぎ方を知らない? 声をかけようかと思ったその時、美沙さんがポットを手にして、さっとカップに紅茶を注いで池永さんに差し出した。
「いい香りしますよ」
「ありがとう」
池永さんはカップを持ち上げ、鼻を近づけた。
「あっ」
「どうですか」
「不思議な香りですね」
口を付けて、ジンジャーティーをついに飲む彼。そして、こう言った。
「紅茶もおいしいですね」
思わず私はガッツポーズをしそうになった。それを抑えて、にっこりとほほ笑む。
「あの……」
そして、美沙さんが口を開いた。ただならぬ空気が流れて、ショウレイカイーンたちも将棋を中断して彼女に注目した。
「どうしたの?」
聞きはするものの、池永さんも何か覚悟したような顔をしている。明乃さんも、小さく頷きながら妹のことを見守っている。
「私……研修会やめます」
「そっか」
おそらく、ずっと前から結論は出ていたのだろう。本人が言い出すのを、周囲はずっと待っていたのだ。
「将棋は好きだけど……他のこと、頑張ります」
「師匠には」
「まだ……今度言います」
「うん。全部、江草さんが決めることだからね。やりたいことはあるの」
「まだ……正直、やめること以外考える余裕がなくて」
「そっか。……じゃあさ、結婚する?」
思わず持っていたレモンを落としてしまった。ショウレイカイーン二人もあっけにとられている。明乃さんは大きくうなずいていた。そして、美沙さんは。
「……はい」
私の理想からすると、20点ぐらいのプロポーズだった。だが何となく、気付いてはいた。将棋のプロというのは一般的な常識から離れたところにいて、そんなところで幸せを模索している人なのだと。
その後、なぜか何事もなかったかのように研究会は続いた。私は美沙さんと将棋を指していた。そして一時間もたったころ、池永さんは言った。
「あの……コーヒーを一杯」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます