【10】

 並べられたテーブルには、二つの将棋盤が並べられていた。一つの盤では、初めて見る男性が二人、直方体の時計をたたきながら対局している。なんでも「ショーレーカイーン」という怪しい立場の人たちらしい。何度聞いても日本語に聞こえない。もう一人、まだ駒も並べられていない盤の前に座る女性。前回よりは落ち着いた感じだが、どこか物憂げな様子の江草美沙さん。

 そしてカウンター席には明乃さん。彼女は正真正銘ふつうのお姉さんである。

「来ないなー」

 腕時計に何度も目をやる明乃さん。集合は十時とのことだったけれど、今は十時三十分。

「なんかあったのかな」

「うーん、遅刻とかしない人なんですけど……」

 明乃さんは大きなため息をついた。つられて私からも息が漏れる。

 私と明乃さん以外の四人は普段から「研究会」というものをやっているらしく、日時を決めては将棋三昧の時間を過ごすらしい。いつもは誰かの家に集まってやるが、「たまにはいい雰囲気のところでやっては?」という明乃さんの提案によりここですることになったのだ。

 ただ、不安は少しだけあった。彼はあの日以来、店に来なくなっていたのだ。酔って醜態を見せたと思ったのかもしれないし、単に生活パターンを変えたのかもしれない。まあ、いつも行っていた店に久々に行くことの後ろめたさは、私にもわかる。

「せっかくなので指してもらったらどうですか」

「……え?」

「美沙も退屈でしょ」

「え、その……まあ……」

「よし、決まり」

 明乃さんは私を促して、無理やり美沙さんの前に座らせてしまった。美沙さんは上目づかいで「指します?」と聞いてくる。断るのも変な気がして、私も上目づかいで「お願いします」と言った。

 美沙さんが駒箱を開け、盤に駒を広げる。そして少し頭を下げてから、王将を取り上げ、自陣に置いた。私は目についた飛車を持ち上げ、「飛車は左、飛車は左……」とつぶやきながら飛車を置く。いまだに飛車と角の位置を逆にしてしまうことがよくあるのだ。

 駒を並べ終わると、再び上目づかい。

「どうします?」

「え?」

「落としましょうか」

「え? え?」

 私が何のことかわからずおろおろしていると、美沙さんは明乃さんに視線をやった。明乃さんが小さくうなずく。

「じゃあ、二枚落ちで」

 なぜか明乃さんはせっかく並べた飛車と角を駒箱にしまってしまった。訳が分からない。

「では、お願いします」

「は、はい、お願いします」

 まだ先後も決めていないのに……と思ったが、美沙さんはためらわずに初手を指した。なんだろう、上位者が先に指すという暗黙の了解があるのだろうか。抗っても仕方ないので私も続けて指す。相手は駒が少ないのだから、後手になったところでこちらが圧倒的有利だろう。

 有利なはずだ。

 はずだったのに……

 気が付くと私の玉将は追い詰められていた。気持ちよく攻めていたので、相手の持ち駒のことなんて見ていなかったのだ。一生懸命考えるが受けがない。

「負けました……」

「ありがとうございました」

 その声は凛としていた。いつの間にか、美沙さんの顔はとてもきりっとしていた。

「やはり、玉を囲うことが大事ですね」

「はあ」

「ちょっと振り返ってみましょうか」

 美沙さんが駒を再び並べ始めた、その時だった。ドアの開く音。

「遅れてすみません」

 池永さんだった。

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