第3話 ポスト・コロナ『チャイナ』&『アメリカン』


習近平を助けた最大の功労者はトランプだったと言える。アメリカの大失態がなければ、習近平政権の責任はもっと厳しく、国際的にも国内的にも問われたと思うのだ。1100万の突然の都市封鎖に世界は驚いた。欧米先進諸国は「強権的中国だから出来ること」と、冷ややかに評した。そのとき、まさか、自分たちがそれをやることになるとは想像さえしなかった。

アメリカがコロナにここまで弱いとは、見事にその機弱さを露呈してしまった。「アメリカン・ファースト」と叫んで、始めた対中国貿易戦争、そのお返しが「チャイナコロナ」の一発だったとしたら、余りにもトランプにとっては、想定外、強烈な一撃であったろう。好調経済をバックに大統再選と自信満々であったのが、一瞬にして断崖に立たされたのである。持って行き場のない怒りを中国にぶっつけるが、負け犬の遠吠えの感は歪めない。


米中貿易戦争、昨年12月「第1段階の合意」に達し、米国は予定していた追加関税を見送り、中国は小麦やトウモロコシなどの輸入拡大を約束した。トランプは、その額は400億~500億ドル(4兆3千億~5兆4千億円)規模になるだろうと語った。ディール、落とし込もうとした矢先のコロナであった。

貿易戦争変じてコロナ戦争となり、「ポスト・コロナは世界協調で」という美文調は、すっ飛んだものになった。吠えるトランプ、やり過ごせばいいのに、大人の対応が取れない孔子の国。「こんな時にと」世界は困惑の眉をひそめる。


ポスト・コロナの世界を語るとき、この両大国を飛ばして語ることは出来ない。きしくも、今日、6月4日は31年前、天安門事件のあった日であった。追悼記念式が香港で行われる予定であったが、コロナ感染を理由に式典を香港当局は中止にした。香港に国家保安法を直接適用することを人民大会議が決定し、その反発が予想されたからである。6・4天安門は中国本土では語られないものであり、香港だけで式典が続けられて来た。禁止された広場会場門の前では、静かに蝋燭を手にした5000人の香港市民の姿が映し出されていた。

またこの日、一人の黒人市民が白人警察官に殺された事件でアメリカでは拡大するデモの模様が報じられていた。このデモに対してトランプは連邦軍の派遣を語ったのである。アメリカではこのような事件はよく繰り返される珍しいものではない。しかし今回は様子が違った。各州に抗議は広がり、州によっては非常事態宣言が出され、夜間外出禁止令が出された。コロナ禍で溜っていた不満が同時にこの抗議と結びついた感がある。

トランプの火に油を注ぐ発言に、国防長官はそれに反意の姿勢を示し、かつて政権内部にいた元マティス国防長官も「分断を煽る大統領」と批判を口にし、政治的発言を控えていたオバマ元大統領も「チェンジ」の時と声を上げた。私はこの2つの集まりの映像を興味深く観た。


10万の死者を出した失政で、さど、トランプは支持率を落としているだろうと期待して検索して、私は驚いた。アメリカで権威ある調査会社ギャラップ社によると49%が支持で、彼にとって過去最高であるとしていた。コロナ惨禍の中でも「消毒液を注射したらいい」とか、ハチャメチャ発言は相変わらずであったのに、である。トランプはトランプである限り大丈夫ということになる。

この存在感は何を意味するのだろう、彼の存在が今のアメリカそのもののように思えて来たのである。今まで「トランプが大統領?アメリカも落ちたもの」と顔をしかめるだけだったが、ちゃんと知らないと、私は興味を倍にした。


覇権を競う2国であるが、その国際的地位の低下は免れない。特にアメリカは、経済・物質面もそうだが、受けたその精神的なダメージは計り知れないものだろう。ベトナム戦争の傷より深いのかも知れない。こんな数字がある。

ベトナム戦争    アメリカ人死者数5万8千人    ベトナム人190万人

今回のコロナ    アメリカ人死者数10万300人  ベトナム人  0人     

コロナ禍、緊急事態宣言の中でデモも出来なかったのだろうが、抗議の声もない。私は余りにもショックで声が出ないのかと思っていた。不満は思わない別のところで噴き上がることがある。黒人男性一人の死亡、この抗議デモの対応を間違うとトランプの命取りになるかもしれない。


欧米の惨状で助けられ、コロナの封じ込めに成功したと自賛する中国だが、水際で見事に封じ込め、その死者の数たるや一桁の台湾の前に云う言葉があるだろうか。小さな中国は存在感を高めた。香港市民はコロナ発生源、隠蔽強権体制に益々反発することは確実。習近平の『中国の夢』の最終章が中国統一を意味するなら、中国が自らを変えない限り、それは遠のき、益々困難なものとなる。


私は、中国は『天安門事件』を総括するしかないと思っている。中国となるとTVの映像は天安門を映し出す。天安門は現代中国の最も歴史を語る象徴である。

毛沢東が1949年、建国を宣言したのもここ、紅衛兵の大群衆を集めて文化大革命の大号令をかけたのもここであった。天安門で語られる事件は実は2つあって、1976年の四・五天安門事件、周恩来哀悼のために天安門に集まった民衆を蹴散らしたのは文革派の江青ら4人組、これによって鄧小平は一時失脚させられたが、結果、4人組の逮捕となって復権に繋がった。

そして民主化を求めて集まった学生や民衆を、人民解放軍を使って弾圧した1989年の六・四天安門事件。この後者の方の天安門事件は国内では語られない歴史になっている。誰もが知っている大事件を歴史から消す、共産党トップを務めた総書記2名が歴代の名前にない。まさにそのことが全てを語っている。


改革開放のため、民主化を求めて天安門に集まった学生・民衆を『動乱』と決め、人民解放軍導入に踏み切った最高実力者鄧小平。集まりの始まりは、政治改革に理解を示していた胡耀邦元総書記の死を偲んでであった。同じく改革開放には一定の政治改革も必要とした趙紫陽総書記を、学生に同情的で弱腰として首を切ったのも鄧小平であった。二人は改革開放の旗手として鄧小平が自ら抜擢した人物であった。二人が相次いで失脚したのは、計画経済派の陳雲を筆頭とする8元老保守派が二人の行き過ぎに反対し、改革開放を何としても進めたかった鄧小平が保守派に妥協した結果であったとされている。ちなみに、習近平の父親はこの8元老の一人に名前を連ねている。


事件はよく報じられているので詳細は省く。8元老たちは建国では貢献組であったが、文革では失脚組であった。その点では鄧小平と共通する。彼らは4人組の行き過ぎた文革を早く終わらせ、毛亡き後を鄧小平に託そうと考えていた。そして四・五天安門事件で4人組を逮捕し、切った。鄧小平は政治改革より経済優先の改革開放路線を進めるためやむを得ずとしているが、私は政治的には鄧小平自身が保守長老派と同根であると感じている。鄧小平は表の一線を引いても、最高実力者であり得たのは、軍主席として軍を掌握していたからである。ならばそれを背景に8元老保守派を黙らせることも可能であったと考えるのだが・・。


学生たちの民主化運動は決して『動乱』と規定するような、共産党政権を否定するまでのものでなかった。現役を引退した保守派長老が隠然支配するようなことのない、党内民主化を求めるものであり、言論の自由ぐらいは認めて欲しいという改革要求であった。何より証拠には共産党トップの中央総書記趙紫陽が同情・理解を示したことでそれは分かる。その程度のものであった。


『中国の夢』が統一中国の実現であり、世界の中で大国として存在し続けることなら、天安門事件の総括は避けて通れない道である。歴史の否定ではなく、勇気を持って一歩前に進めること、それぐらいの力と余裕は、今の共産党は持っても良いと私は考える。

その様なリーダーを民衆は求めているし、時間軸は言えないが、必ずそうなるだろうと確信している。既にその様な民衆は存在したし、名は消されているがその様なリーダーも存在した。マルクスは「すべての偉大な世界史的な事実と世界史的人物は二度現れる、と述べている。一度目は偉大な悲劇として、二度目はみじめな喜劇として」と書いている。天安門は既に2回あった。一度目は4人組の喜劇として、二度目は偉大な悲劇として・・ひょっとして香港という場所に変えて、三度目の天安門が近い時間で行われるかも知れない。三度目はどんな劇になるのだろうか。


いち早くコロナを抑えて、経済活を始動した中国だが、先進諸国の反発は相当なものだろう。今は自国のことで精いっぱいだが、「我がもの顔に大きな顔はさせない」との思いは強い。

チャイナリスクを相当認識したと思う。しかし、ここまで成長した中国マーケットを世界資本主義は見捨てる程の余裕はない。またサプライチェーンの生産基地中国の見直しは一部国内回帰、一部他国への振替はあるだろうが、ここまで出来上がった体制をそう大きく動かせるものではない。

一方、やはり世界あっての中国経済、先行きは相当厳しいと見なければいけない。中国の国家的大構想『一体一路』は、欧州と中国を陸と海で結んで貿易取引を発展させようとするものであったが、そのEUはコロナのダメージは深く、しかも中国に反発を強めている。この構想に友好的であったドイツでさえ、鎧の袖の下のマスク外交に警戒感を強めている。

覇権的な振る舞いをする限り、中国は相当な厳しさを覚悟しなければならない。


私は歴史を見るとき、大きな時間軸、流れの中で歴史にも〈義〉があると考えている。例えば、先の大戦でドイツや日本が勝っていたら世界はどんな世界になっていただろうと考える。原爆を除けばアメリカが勝って良かったと思っている。勿論、後の歴史知恵で語っているのだが、当時に生きていたら「ハイルヒットラー!」と手を前に突き出していただろうし、「天皇陛下万歳!」と叫んでいただろうかと思う。 


欧米諸国、ロシアに日本、先発組も後発組も資本主義諸国は寄って、たかって中国を食い物にした。土足で台所に入り、米櫃に手を突っ込んで一番行儀が悪かったのが日本であった。

毛沢東なくして建国はなし、蒋介石より毛沢東に軍配が上がる。文化大革命の毛沢東と走資派とされた鄧小平、食べさせられなかった毛より、食べさせられるようにした鄧の粘り勝ち。〈義〉とは歴史を一歩でも前に進めるものだとしたら、今アメリカはその〈義〉たるものがあるだろうか。『中国の夢』が実現するにはどのような〈義〉がいるのだろうか。


鄧小平は走資派と呼ばれたことに関して、「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」と語るなど、分かり易い例え話で味のある人物である。直接、彼が天安門事件と関係付けて改革開放について語った海外記者への言葉の方が、私の下手な解説より分かり易いいだろう。

「中国は特に今は経済発展に注意力を集中させなければならない。形式上の民主を追求したら、結果的に民主は実現できず、経済的発展もまた得られず、国家の混乱を招く。私は『文化大革命』のひどい結果をこの目で見てきた。もし我々が現在10億人で複数政党制の選挙をやったら、必ず『文化大革命』の『全面内戦』のような混乱した局面が出現するだろう。民主は我々の目標だが、国家の安定は絶対に保持しなければならない。」と。


また別のところでは「経済改革がある地点に達したら、それに伴う政治改革が必要になる。われわれは政治改革に決して反対しているわけではない。しかし、現実を考えねばならない。党内のどれだけの老同志がいまただちにそれを受け入れられるか考える必要がある。人は一口食べただけでは肥え太れない。それほどやさしいことではない。わたしは老いた。人はわたしを『もうろくジジイ』と呼びたければ呼べばいい。ボケていると云いたければ云えばいい。しかし党内の同年代のものと比べてそれほど保守的ではなかろう」と語っている。

改革開放で鄧小平が果たした役割を否定する人はいない。安定も20年以上、30年になる。彼が語った「経済改革がある地点に達したら、それに伴う政治改革が必要になる」、ある地点は既に超えている。鄧小平が生きていたら私はこう言いたい。「口には役割が二つある。食べる口、物言う口」と。


鄧小平は毛沢東についてこう総括している。

「毛沢東同志の歴史と思想についても適切な評価を行ってきた。毛沢東同志の晩年の誤りに対する批判については過度に行ってはならず、常軌を逸してはならない。なぜならばこのような偉大な歴史上の人物を否定してしまっては、我が国国家の重要な歴史を否定しまうことを意味し、思想の混乱を招き、政治的不安定をもたらすからである」

鄧小平もボチボチ、このぐらいの範囲内で『もうろくジジイ』と総括されるのを待って居るのかもしれない。コロナはそのようなことを考えさせてくれる。


話はアメリカとトランプに戻そう。アメリカのコロナ対応はどのようなものであったのか?


トランプは1月28日、一早く武漢にチャーター機を飛ばした。アメリカが動けば、世界が動く。世界各国はこれに続いた。2月2日トランプはどこよりも早く大統領令により、アメリカ国籍以外の者の中国全土からの入国を禁止した。中国へ遠慮のいらないアメリカは水際作戦で一早い対応を取り、トランプは、「アメリカは大丈夫」と大見得を切った。


2月3日横浜港に着岸したクルーズ船の対応には、ニューヨーク・タイムズ紙は専門家の見方として、「公衆の衛生に関わる危機について、『こうしてはいけない』と教科書に載る見本だ」と伝えた。この時、日本のメディアはアメリカにはCDC(アメリカ疾病予防管理センター)があって、日本にもこのような組織が必要だと報じた。脅威となる疾病には、国内外を問わず駆けつけ、調査・対策を講じる上で主導的な役割を果たしている。軍民が一体となり、組織力、予算規模においても世界でも群を抜く存在だと報じられていた。


そのアメリカが試される時が来た。

その名も姉妹船『グランド・プリンセス』であった。ダイアモンド・プリンセスとほぼ同じ乗船者数であった。3月9日、カリフォルニア州のオークランド港に入港した。コロナ対策指揮官としてトランプはペンス副大統領を直々に指名した。ペンスは、「アメリカは十分な検査キッドを持っている、検査は大丈夫」と胸を張った。日本から学習していたのか、乗客は下船させて米軍基地に、乗組員は船にと別けた。まずは船上の武漢にはならなかった。ただ、陸上ではそれが許されなかった。


アメリカで最初の感染が確認されたのは1月21日、2月25日までにアメリカで確認された感染者は53人。サンフランシスコ市長は非常事態宣言を早々に発表した。感染拡大を受け、カリフォルニア州知事は3月4日、州全域に非常事態宣言を出した。続いて7日、ニューヨーク州アンドリュー・クオモ知事は非常事態を宣言。ニューヨーク州で初の感染者が確認されたのは3月1日である。初動としては決して遅くはない。しかし、サンフランシスコ市や同市が属するカリフォルニア州とのこの僅かな差が後にニューヨーク州に大きな惨禍をもたらすことになった。

 

3月13日に入って、トランプ大統領は全米非常事態宣言を発令した。


4月10日時点

ニューヨーク州では死者数7067人。前日より799人増え、1日の増加数としては過去最多。病院の遺体安置所がいっぱいになり、冷蔵トラックに遺体を運び込んでしのいでいる光景が映像として映し出されていた。葬儀場も新たな受け入れが難しくなっている。全米での感染者469,021人 死亡者16,675人、感染者数ではイタリア、スペインを抜いて1位。死者数ではイタリアに次いで2位となった。トランプ大統領は死者10万で収まれば上出来だと嘯いた。日本で首相がこんなことを語れば、一瞬にして首が飛ぶ。コロナ戦争に立ち向かう大統領として支持はまだ落ちていないと云う。何ともアメリカという国はというより、アメリカに於いては大統領と云うのはそれ程の存在なのである。犯罪では弾劾されるが、失政では任期中は地位を失わない。


5月17日時点

感染者150万人、死者89,420人、どちらもダントツに世界一、グレートであった。図らずもトランプの10万予想は当たり、更に越す見込みである。そんな中、経済活動再開に大統領は舵を切った。


CDCがありながら、なぜアメリカでかくも急速に感染が拡大し、多くの死者を出すに至ったのであろうか?これについて、専門家は初期の検査体制の不備、遅れを指摘している。CDCが独自開発にこだわった(WHO基準でない)検査キットを2月第1週に全米の各州に送ったが、正しい判定結果が出ないものが多数あり、使い物にならないことが分かり、多くの州で検査できない状態が続き、検査態勢が整ったのは3月に入ってからであった。

この間CDCによる検査は1日100件程度に限られ、対象も中国をはじめとするアジアからの帰国者やその接触者に限定された。


それから、トランプ大統領を筆頭に、国民一般も新型コロナ感染症を対中国蔑視も含め、アジアの一角中国、韓国、日本で騒いでいるアジア病的な見方があった。それが、イタリアが炎上し出してから、「ちょっと違うな」と危機感を募らせた。ヨーロッパからの入国規制は対中国のようにはいかなかった。表玄関は閉じられたが、裏玄関は空いたままになっていたのである。

遠いところのものとして危機感を感じていなかった証拠として、『謝肉祭を開催したルイジアナ』が挙げられる。人口456万人のルイジアナ州ニューオーリンズでは、2月24日、例年通り盛大なカーニバル(謝肉祭)が行われ、約140万人の旅行者でごった返した。CDCが警告を発した前日であった。その2週間後から感染者が出はじめた。4月3日現在、州の感染者数は1万297人に膨れ上がり、死者も370人に上る。うち3476人がニューオーリンズでの発生で、感染者急増の「ホットスポット」になってしまった。ニューオーリンズのカントレル市長は、「トランプ政権が新型コロナウイルスの危険について早期に警告していてくれれば、謝肉祭は中止していた」と連邦政府への不満を隠さなかった。


驕れるアメリカの油断!新型コロナはアメリカの一番弱いところを突いた。

極端な格差社会。一部の富裕層の下に広がる広範な貧困層の存在。その多くがヒスパニックや黒人たちである。感染爆発の中心になった、ニューヨーク州の貧困地帯の劣悪な住環境が報じられていた。そして国民皆保険を拒む民間保険が中心の医療保険制度がある。人口の15%(5000万人ほど)は、無保険状態である。この中には不法移民1,110万人、アメリカ人口の3.5%を占めると推定される存在がある。彼らは病気にかかっても、病院には行かない。べらぼうな高額医療費は払えないし、仮に払えても、不法移民が分かり強制送還されることを恐れる。


ニューヨーク州のクオモ知事は人工呼吸器が足りないと悲鳴を上げた。中国は4月5日、その呼吸器を1000台ニューヨーク州に寄贈した。3日後の8日、中国は77日振りに武漢の封鎖を解除した。アメリカはトランプが「武漢ウイルス」「チャイナウイルス」と揶揄したウイルスとの戦いの真っ只中にあった。


トランプと云う存在


1946年、裕福な不動産会社の第4子としてニューヨークで生まれる。ペンシルベニア大学の経営学部を卒業、父親の後を継ぎ、不動産王として名前を売った。自己顕示欲が旺盛であり、代理人を使い各種メディアに積極的に露出、自らが開発・運営する不動産に「トランプ・タワー」、「トランプ・プラザ」、「トランプ・マリーナ」など、自分の名前を冠している。

大統領選予備選には2000年改革党より、2012年の大統領選挙には共和党候補として支持率2位であったが、ロムニー支持に回った。泡沫候補と揶揄されても、このように大統領選には並々ならぬ意欲を示していた。2016年大統領選挙には共和党より出馬すると表明。


共和党予備選では、圧倒的な彼の存在感が光った。彼の過去の言動から、共和党に所属する連邦議会議員、州知事331人のうち少なくとも160人がトランプを批判し、うち32人はトランプに選挙戦からの撤退を要求した。ネガティブキャンペーンがあればあるほど彼には有利に動くという不思議、それがトランプと云う存在であった。


2016年大統領選、ヒラリーとトランプ、嫌われ者同士の選挙戦と云われたが、誰もが実績のあるクリントンと思った。米国の新聞・雑誌の支持動向では、ヒラリー425に対してトランプは僅か12。支持率では選挙戦スタート時点では(5月)ヒラリー45%、トランプ35%、10ポイントの差があった。それがヒラリーは総得票数ではトランプを上回ったが、代議員獲得数では負けたのである。誰もが予想しない結果であった。

それには、トランプ陣営選挙参謀スティーブン・バノン(評価されて首席補佐官になったが関係は決裂)の作戦勝ちがあった。オハイオを制する者が大統領選を制すると言われている。アメリカは赤い国・青い国と云われているように西海岸と東海岸は民主党、中西部・南部は共和党というように州によってはっきりと分かれているが、オハイオ州は選挙のたびに変わるという州であった。5大湖周辺の従来民主党が地盤としていたペンシルベニア州、ミシガン州、ウィスコンシン州のラストベルト地帯で、「製造業を戻して雇用を!」と訴えるトランプ、白人労働者層の不満を背景に僅差で勝利を重ねたのである。

逆に言えば、ヒラリーの作戦負けである。民主党予備選ではこのラストベルト州はサンダースが勝ったところである。サンダースを副大統領候補としていれば、トランプの勝利はなかったことになる。ヒラリーは外交面では共和党に近いタカ派であるが、それ以外ではリベラルと見られていた。クリントン大統領のもと特別委員会委員長として健康保険問題(皆保険)にも積極的に取り組んだ。性的マイノリティにも理解を示していた。政策的にはサンダースと共通する部分もあったのだ。


ヒラリーは何故相手がトランプなのに勝てなかったのか、私も不思議で一生懸命考えた。世論は彼女が嫌われていたことを上げるが、トランプもそれには充分負けていない。彼女は「ガラスの天井」女性の壁を嘆いた。ファーストレデイ経験者でなく、キャリアとして政治の世界を登り上がって来た女性であったなら当選したかも知れない。それだけではトランプが勝った理由にはならない。

トランプには「アメリカン・ファースト」と云う言葉があった。ヒラリーには思いつかない。彼女は自分の実績を語った。女性大統領の歴史的意味も語った。政策もいろいろ語ったが、「自分は社会主義者である」とするサンダースにも、トランプにも対抗する言葉がなかった。届く言葉がないことは政治家として致命傷である。オバマは「チェンジ」や「イエス、ウイキャン」と語って大統領になった。


「アメリカン・ファースト」、アメリカは一番であり、一番のアメリカを守るという意味であり、政策より政治手法を手短に語った。全ては「ディール」であると。無茶苦茶な発言も、極端な政策も、敵を作ることも、脅すことも、国際組織から脱退することも、貿易ルールを変更することも、全てこの二つ言葉の中に納まってしまうのである。

トランプの政策はと聞かれたら、オバマのしたことを全部ひっくり返した「ちゃぶ台返し」と答える。至ってシンプルである。オバマケア反対、不法移民寛容政策反対(メキシコ国境に壁を作る)、イラン核合意反対、TPP反対、パリ協定離脱、キューバ国交回復に反対etc・・これほど見事に前政権をひっくり返した例はない。まさに青い国・赤い国である。


オバマはこの分断を語り、統一を期待されたのである。初の黒人系大統領として人種間の分断も期待された。外交政策では、ブッシュ前政権の外交を否定、それはアフガニスタン、イラクからの完全撤退を意味した。2つの戦争で疲弊した国民の厭戦感をとらえ歓迎された。

圧倒的な陶酔感の中で現れた「国民統合」の象徴がオバマだった。熱狂的な大観衆を前にして、オバマが勝利宣言で語ったのは、「われわれはもはや民主党員や共和党員ではなく、白人や黒人でもない、われわれはユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカだ」という統合のメッセージだった。

そして事実、彼の2期8年間は、人種や所得や宗教で分断された国民を統合するための努力に費やされた、彼は、人種や性別や性的指向にかかわりなく、すべての人の人権と市民権が守られることを求めた。できるだけ多くの人が医療保険の恩恵を受けられる制度の導入をはかった。


1期目の最初の2年間は上下両院で民主党が多数派だったため、リーマンショックからの回復を目指した大型景気刺激策、医療保険改革(オバマケア)、ウォール街規制などの画期的な政策を何とか実現できた。だが、2010年中間選挙の大敗で、下院多数派が共和党に奪われた後は、重要な政策はほとんど動かず、特に、財政をめぐる共和党との対立は、予算をめぐって対立で2013年10月には16日間にわたって、連邦政府の機能の一部停止というワシントンの閉塞感を生み出した。

核なき世界、オバマが理想を語れば語るほど、何も出来ない大統領と見られるようになっていった。

オバマが「脱ブッシュ」を強く意識したように、次の大統領が誰になっても何かしらの「脱オバマ」を標榜することが予想された。トランプを生んだのはオバマとも言える。トランプ誕生によって「国家の分断を」更に深め、固定することになってしまった。アメリカで今もっとも懸念されている課題はこの「国家の分断」なのである。


アメリカには白人中産階級を起点にした「メインストリーム(主流)」の価値観があるという意識があった。ヒラリーもそれを言った。しかし最早、白人中心の中流神話を信じる者はいない。人口構成上、いずれ白人が総体としては、マイノリティになる状況が現実的になり始めたという危機感がある。

アメリカの平均的な労働者の実質賃金は1990年代以降、ほとんど上昇していない。これはグローバルリズムが始まった時期と重なる。グローバリゼーションは人々に大きな恩恵をもたらすと同時に、一部の人々に耐え難い苦痛も与えてきた。途上国との競争に直面した先進国の労働者は雇用喪失を経験し、増え続ける移民・難民は経済的、社会的、政治的な摩擦を引き起こしつつある。


反知性主義、ダイバーシティ(多様性で語られることが多い)を排除し、人種差別発言を繰り返すトランプの勝利が「反知性主義」の文脈で語られることも多い。実際トランプの言動には「知性は痴性?」と疑ってしまうことも多い。衆愚的な系譜で語られ易いが、知的権威やエリート主義に対しプロテストする立場から、必ずしもネガティブな言葉ではなく、健全な民主主義における「必要な要素としての一面」もあるとされている。


ヒラリーとトランプの3回に渡るTV討論を読んでみたが、酷い中傷合戦はお互い様として、その知的権威やエリート主義とも受けとられかねない発言をヒラリーはしてしまったのである。

「ドナルド・トランプの支持者の半分は嘆かわしい人種差別主義者で、男女差別主義者で、同性愛嫌悪症で、外国人嫌いで、イスラム教嫌いだ」と述べたのである。

これに対してすかさずトランプは「彼女は私たちの支持者を嘆かわしい人たちと呼びました。とても多くの人たちです。救いようがない人たちと呼びました」と非難し、こう続けたのです「私はすべての国民のための大統領になります。私は大統領として、貧困街の状況を好転させ、人々に強さを与えます。そして、人々が経済に参加できるようにし、雇用を取り戻します」。これが本心なら赤飯を炊きたいものなのだが・・。

次回討論会で、司会者はヒラリーに「あなたは後日、半分と言ったことを後悔している、と述べました。数千万人の国民を見かぎるのなら、国を結束させることなどできますか」と問い質されたのである。ヒラリーの上から目線、トランプに1本取られたのである。


政策的な細部を省けば、トランプは「逃げ出した製造業を戻し、雇用を増やす」「世界との協調と云う縛りより、アメリカの利益優先」という、反グローバルの考え方で一貫していた。これに対してヒラリーは、オバマが推維して来たTPPに選挙戦を睨んで反対に転じたのである。TPPは少なくともアメリカの農民にとっては有利なものになる筈だったのだが、ヒラリーはその優位を語らなかった。中西部の農民の多くはトランプに投票した。

ヒラリーはオバマ政権で国務長官を務めた前期の4年だけだったのだが、トランプは名前で呼ばず、常に「長官」と云う呼称を使い、オバマ批判を通じて彼女をも批判した。その辺に彼の選挙戦術の巧みな知的を感じた。彼はツイッターという武器を使った最初の大統領である。ツイッターは囁き、短いお喋りであり、政治的な公式発言ではないのである。観測気球を上げる。いつでも訂正、もしくはそんな意味ではないと言える。


トランプは、これ以上アメリカは世界に関わらないと云いながら、世界をかき混ぜた。コロナで大失敗しても、敵を中国に絞り、支持率は落とさず、再選を目指す。トランプの中には「協調してお互いの利益」と云う考えは微塵もない。「片方が得をすれば、片方は必ず損をする」という発想である。これは大衆には通じやすい論理である。彼のアメリカン・ファーストは所詮トランプ・ファースト

でしかないのが、それを見抜けないほどアメリカは余裕をなくしているのだろうか?


世界大学ランキングベスト10

1位オックスフォード大学、2位ケンブリッジ大学の英国を除けば、スタンフォード大学、マサチューセッツ工科大学、カリフォルニア工科大学、ハーバード大学、プリンストン大学、イェール大学とアメリカが続く。世界から留学生を集めて、トップクラスの研究機関が存在する。


世界時価総額で企業を見れば、ベスト10

1位はサウジアラムコ、7位中国、アリババ、8位中国テンセント・ホールディングスを除けばマイクロソフト、アップル、アマゾン、フェイスブックとアメリカ企業が占める。GAFAの時価総額合計は3兆ドル(約330兆円)を超え、ドイツの国内総生産(GDP)に匹敵するほどである。


世界製薬売り上げベスト10、2位ファイザーを入れて5社、

世界の食品・飲料業界ランキング10、穀物メジャー、食肉を入れて7社

世界銀行総資産ベスト10、上位4社は中国、アメリカ3社、だが、投資銀行となるとアメリカ勢が並ぶ。


種苗業界売り上げベスト10、1位、2位はアメリカ、その両者で半分を占める。種を制する者は食糧を制すると云われ大事なものである。日本の〈サカタのタネ〉は7位にある。


GDP、軍事力、世界の食糧庫農業生産額NO1、そして世界通貨ドル。アメリカの危機感とは常に1番でなければならないという危機感なのだろうか、日本の女性議員が云った「2番ではダメなんでしょうか?」という言葉が浮かぶ。人種の多様性があるから人種問題がある。不法移民があるから底辺の労働力が確保される。特権階層とプロフェッショナル階層は、総世帯のたった5%未満しか占めないが、そこに全米の富の60%が集中していると云われている。格差の矛盾が云われるが、しかしこの層がアメリカの強さをリードしていると思わざるを得ない。格差こそがアメリカの強み。共和党、民主党、分断があるからアメリカであると言える。1位がこれを担保する。2位では全てが崩れるのである。


今でこそ大統領制は多くの国が取り入れているが、近代共和制も大統領制もアメリカで始まった。独立宣言はフランス革命に多大な影響を与えた。自由の女神像は建国100年を記念してフランス市民たちの手によって寄贈されたものである。独立戦争、独立宣言、憲法制定と建国に関わった大統領はワシントンから5代大統領モンローまで、この時代を「建国の父達の時代」と呼んでいる。自由と民主主義のアメリカの基礎を作った時代である。

この時代の政治をリードしたのが、アレクサンダー・ハミルトンと第3代大統領になったトーマス・ジェファーソンである。ワシントン大統領の下で、ハミルトンは財務長官、ジェファーソンは国務長官を務めている。ハミルトンはフェデラリストらと連邦党を結成、ホイッグ党を経て、後の共和党に繋がる党である。ジェファーソンは反フェデラリストとして民主共和党(後の民主党)を作る。

ハミルトンなど連邦派(フェデラリスト*)はその名の通り強い連邦政府をめざした。そのためには農業国家ではなく、イギリスのような産業国家になるべきだと考えた。これに対してジェファーソンは州権に重きを置き、農本主義的国家像を考えていた。


ハミルトン対ジェファーソンの対立は、南北戦争に繋がる南北の対立構図そのものであった。南北戦争で北部が勝ち、連邦制のもとで急ピッチにアメリカが産業国家になっていく過程をみれば、ハミルトンに先見性があったといえる。しかし当時のアメリカを考えると、ジェファーソンに現実味があった。事実、ジェファーソンが作った民主共和党の政権が南北戦争まで続いたのである。

ハミルトンは「大統領になれなかった男」として知られる。決闘事件に巻き込まれ49歳で命を落とす。ブロードウェイ・ミュージカル『ハミルトン』は2016年、トニー賞やグラミー賞に輝いている。

リンカーンはこのハミルトンの系譜をひく共和党の大統領となって、奴隷制を廃止した。奴隷制を残して近代国家にはなり得ない。南北戦争は避けられない戦争であった。大恐慌戦時の民主党ルーズベルトは4選された例外的大統領である。ニューディール政策と第二次世界大戦への参戦による戦時経済はアメリカ経済を世界恐慌のどん底から回復させたと評価される。労働者の雇用にシフトしたニューディールは民主党を都市の政党にした。彼の時代の若き官僚たちがニューディーラーとして日本の占領、民主化に関わったのである。大統領ベスト3は、保守派はワシントン、リンカーン、ルーズベルトの順で、進歩派は1位と3位が入れ替わる。こうしてアメリカは世界のリーダーになり得たのである。


リンカーンで共和党は黒人から支持される党であった。それが入れ替わったのが、キング牧師の公民権運動であった。これに理解を示したのが民主党のケネディ、ジョンソンがその後を継いで、公民権法を通した。これに反発を強めた南部民主党員が離脱、この層を共和党がくわえ込んで、中道の都市共和党員が力を弱め、共和党は保守色を強め中西部から南部を基盤とする党となり、民主党が黒人やマイノリティーに支持される都市政党に入れ替わったのである。青い国が民主党、赤い国は共和党である。この様に、アメリカに於いては人種問題は根深く、政治的に分断を生むもとにもなっているのである。


ポスト・コロナ『アメリカン』?私に書け、この国を書く、それは無理でしょう(笑)。トランプの再選だけは御免こうむりたい。それと、アフターコロナの世界のため、ドイツ、日本に頑張って欲しい!いつまでアベノマスクをやっている。トランプのポチをやっている。ともに敗戦国であった日独、3位、4位連合で世界の良識になって貰いたいと思うのは私だけだろうか?


参考資料

アメリカの銃社会が話題になる。つくづく、日本が刀剣社会であって良かったと、太閤秀吉に感謝するのである。銃規制が度々云われるが、衆国憲法修正条項第2条が立ちはだかる。

「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない」とある。この条項が根拠となり、アメリカ合衆国では広汎な武器の所持が認められ、場合によっては(州によっても差違があるが)携帯も認められる。


話は独立戦争にまで遡ろう。宗主国イギリスはヨーロッパでの戦費を賄うため、アメリカ植民地諸州に色々と課税を押し付けてきた。73年の茶法(茶条令)制定に反発したボストン茶会事件が起こったことで直接的衝突へとエスカレートした。74年に植民地側はフィラデルフィアで大陸会議を招集、イギリス製品ボイコットを決定する。

75年、イギリス軍は植民地人が武器を貯蔵しているとして、マサチューセッツのコンコードに部隊を派遣した。警戒していた植民地民兵と衝突し、戦端が切って落とされた。レキシントンとコンコードにてイギリス軍と民兵隊の激しい戦闘が行われ、植民地軍はイギリス軍を撃破した。規模は小さいながら独立戦争の初戦を飾るものとなった。植民地側にはまだ正規軍は組織されていなかった。愛国者民兵の勇敢な戦い、レキシントンとコンコードはアメリカ人の意識の中で神話的性格のものになった。

圧政するものへの抵抗として認められた武装権であって、個人が自由に振り回すものではなく、ましてや乱射で殺戮するものでもないのである。




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