若草荘の鍋の夜(文芸部の企画小説)

 知識と知恵は違うんだよ、と従姉はいつも言っていた。

 知識っていうのは、結構簡単に手に入れることができるんだよ。でも知恵は違う。知恵は、経験からでしか身につかないんだよ。生の感情を伴う経験をして、知識はやっと知恵になるの。

 幼い私は従姉の言う意味がよくわからなかった。大学生になった今でも、曖昧にしか理解できていない。

 でも、こういうときに必要なのは知恵なんだろうなあ、とは思う。

 もう一度、溜息をつく。大学の構内には人が溢れている。色とりどりの服が、目の端を流れていく。ベンチに座る私を、誰も気に留めない。

 思わず、ああ、と呻いてしまう。思い切り伸びをして、また溜息をつく。

 憂鬱のもとは昨日の電話だ。頭のなかで、莉子ちゃんの声が何回も何回も響く。

 逃げたくせに。

 莉子ちゃんは、低い声でそう言った。

 逃げたくせに、偉そうなこと言わないで。

 こんなこと思い出したくないのに、私は一日じゅう、莉子ちゃんのことばかり考えている。いや、昨日の夜からだ。携帯電話を床に投げつけて毛布を被った、そのときからずっと考えている。

 人生に絶望するのはまだ早い。そんな馬鹿みたいなことを思う。莉子ちゃんとちょっと言いあっただけで、私は絶望なんかしそうになっているのだ。自分の弱さに苦笑する。

 春の空はどこまでも淡く広い。爽やかな風が頬を撫で、私は涙を堪えていた。


「大丈夫? なんか昨日、すっごい喧嘩してたみたいじゃん」

 呆けた状態で大学の講義を受け終わり、アパートに帰ってまた呆けていると、隣の部屋に住む荒輝がやってきた。メッシュの入った髪にピアスと、相変わらず派手な格好だ。このアパートで私は彼女と一番仲がよく、こうして時々、一緒に夕ご飯を食べる。荒輝は気のいい子で、話していると自然と笑うことができる。

でも今日は、とてもじゃないけれど明るく談笑できる気分ではなかった。

「ごめん、荒輝。ご飯なら、今日はちょっと」

「だめだめっ。そういうときにひとりでいるのが、一番だめなんだから」

 そう言うと荒輝は、強引に部屋にあがりこんで台所に向かった。ちょっと、と止めても聞いていない。追い出す気力もなく、諦めて私も台所に向かう。

 台所、といってもほとんど居間と一緒の空間にある。とにかく年季の入ったアパートだ。床は軋むし、台所はままごとセットみたいにちゃちなものだ。引っ越してきたばかりのときは、家賃の安さにこのアパートを選んだことをすこし後悔した。しかし住めば都というのはほんとうで、慣れてしまえばこのボロアパートもなかなか落ち着ける環境だ。

 そんな小さな台所にある小さな冷蔵庫を、荒輝は勝手に開いていた。

「うーん。あんまり残ってないね。うん、あたし買ってくるよ。待っててね、あきちゃん」

 勝手にあがりこんで勝手に決めた荒輝は、足どりも軽やかに部屋を出て行った。腐りかけた木のドアが閉まる音がして、部屋には再び沈黙が満ちる。

 携帯電話は何も言わずに、昨日と同じ場所に転がっている。着信を示す光がちかちかと点滅しているが、携帯電話を触れる気になれなくて放っておいた。しかし手もちぶさたな気持ちもあって、しゃがみこんで携帯電話を開く。

 着信は荒輝からのものだった。三件もある。昨夜に二回と、今朝。どうしたの、大丈夫、と早口で言う荒輝の声が残されていた。まったく優しい子なんだから、と心がわずかに温まった。

 流しに放置したままだった食器を洗う。流れる水が汚れを落としていく。心も同じならいいのに、とうまく働かない頭で思う。汚れたときは、取り出してさっと洗うのだ。

 きれいになった食器をタオルで拭いていると、荒輝が戻ってきた。両手には、ぷくぷくと膨らんだビニール袋を持っている。

「そんなにいっぱい買ってきてどうするの?」

「だって特売だったんだもん」

 荒輝は悪びれず言いながら、台所に入ってきた。台所は、ふたりも人がいるといっぱいになってしまう。私は台所の端に体を詰める。

「今日はなに作るつもり?」

「鍋」

「鍋?」

 今は風薫る五月。鍋は季節外れだ。しかし荒輝は言う。

「落ち込んだときには鍋だよ」

 なんの根拠があって、と思ったが、こういう荒輝の理屈でない優しさに、今まで何度も励まされたのもほんとうだ。

仕方ないんだから、と呆れたふりをして、心のなかではその優しさに感謝した。


 鍋をふたりで覗き込む。ぐつぐつ、ぐつぐつ、と煮立ったしょうゆだしの鍋。見た目も香りも申し分ない。狭い台所で荒輝と私がつくった鍋は、おいしそうに出来上がった。

「……これ、もしかしてちょっと多かったかな」

「もしかしなくても、多かったと思う」

 つくっている途中で、なにかおかしいとは思った。ふたりぶんにしては、量が多すぎるのだ。私の家にある鍋では入りきらず、荒輝が部屋から大きな鍋をもってきてやっと、ねぎやら豆腐やら肉やらが収まった。

 荒輝は、鍋のもと、と書かれたビニール袋を手に取って、あー、と声をあげた。

「ごめん、これ、十人前だったみたい」

「十人前?」

 私も思わず大声をあげてしまう。

「うん。なんか、よく確かめなくて、材料も十人前買ってきちゃった」

 困ったね、と言いながらも、荒輝はにこにこと笑っている。困った、と言うほど思っていないのだろう。しかしそれは、ほんとうに困る、と返す私も同じだった。

 しかしとりあえずどうするか。十人前の鍋を、ふたりで食べ切るのは不可能に近い。かといって捨ててしまうなんて勿体なさすぎる。ぐつぐつと煮え立ち続ける巨大な鍋を前に、私たちはいっとき沈黙した。

荒輝はいきなり、そうだ、と明るい声をあげた。

「若草荘の、他の人たちも呼んであげようよ。それがいいよ」

「若草荘の人たちを?」

 このアパート、若草荘に引っ越してきてから一ヶ月だ。他にも結構住人が住んでいるらしいことは知っているし、すれ違えば挨拶くらいはする。でも荒輝以外の住人とは、それほど親しいわけでもなかった。

「でも、鍋を食べるほど親しい人って、いる?」

「こういう機会に仲良くなるんだよ。ひとつ屋根の下に住んでるんだから、やっぱり仲良くしたいじゃん?」

 荒輝のこういうところは欠点と評されることもあるけれど、すごいなあ、と私は思う。他人に対して、変に臆してしまうことがないのだ。

 しかし同じアパートに住むとはいえ、ほとんど他人である人々を家に招きいれるのに抵抗がないとは言えない。とりあえずはそれを相談しようと口を開きかけた。

「じゃあ、今から招待してくるから!」

 荒輝はすっくと立ち上がり、ずんずんと部屋の出口に向かう。

「え、ちょ、ちょっと」

 待って、と言い終わる前に、勢いよくドアが閉まった。


こうしてみると、若草荘には若い人たちが多い。しかもみな、鍋があると聞いただけで隣人の家にあがりこむ、食欲旺盛な人たちだ。一人暮らしで、節約生活をしている人が多いのだろう。

 こんなに人がいると、六畳一間はいっぱいだ。目で人数を数える。五人、私も入れると六人だ。追加の買い物をしに行った荒輝を含めると、今夜は七人で食卓を囲むことになる、

 場には妙な沈黙が流れていた。鍋が煮え立つ音と、箸で茶碗を叩くリズミカルな音だけが、やけに大きく響く。なにか言おうと思うのだが、なにを言っていいのかわからない。

 ドアが開いて、ただいま、と高らかに言いながら、スーパーの袋を片手に荒輝が戻ってきた。

「この人数だと、逆にもっと材料必要だよね。育ち盛りの男子高校生もいることだし」

「ありがとうございます」

 男子高校生である良助くんと冬芽くんのふたりが、謙虚に頭を下げる。

「お礼言うところじゃないよ。さて、食べよう食べよう!」

 かんかんかん、と無機質な音がした。ここに来たときからずっと箸で茶碗を叩いていた水野さんが、勢い良く箸を打ち鳴らしたのだ。水野さんの右隣に座る冬芽くんが、びっくりしたように水野さんを盗み見る。

「じゃあ、あきちゃん。いただきます、って言ってよ」

「私が?」

「だってあきちゃんこの部屋の主じゃん」

 気恥ずかしさに私は躊躇し、部屋に短い沈黙をうみだしてしまう。

「みんなで、いただきます、って言うのって、いいですよね」

 愛らしい雰囲気の女子高生、春夏ちゃんがほんわりと言った。

 確かにそうだ。みんなで食卓を囲み、いただきます、と一緒に言うこと。そんなのくだらない、とニヒルに構えてみせても、そういう団欒が大切であることに変わりはない。今ならやっと、そういうことがわかる。

「えっと、じゃあ」

 私が言わないと埒が開かないので、いっそ思い切って大きな声で言った。

「いただきます」

 もじもじと小さな声で、いただきます、とみんなが繰り返す。

 いただきます、と言ったのは、思えば久しぶりのことだった。


 最初は遠慮がちに、細々と鍋から具をとっては当たり障りのないことを話していた面々だが、やがて場の空気はほぐれ、鍋もがつがつとつつくようになった。

「水野さん、肉取りすぎですよ!」

「食えるときに食って何が悪い!」

 良助くんと冬芽くんはまだわかる。何せ育ち盛りの高校生だ。しかし大人であるにも関わらず、そんな彼らと同レベルで張り合い、凄まじい勢いで肉を取っていく水野さんにはいっそ異様な雰囲気がある。

「おいしいですね」

 春夏ちゃんがまったりと言う。ほんわかとしていて、ほんとうに愛らしい子だ。食べる動作まで、いちいち愛らしい。

「相野さんは、あきさんっていうんですか?」

 春夏ちゃんが訊いてくる。

「うん、相野あきっていうんだ」

「私の友達も、アキちゃんっていうんですよ。すっごくいい子なんです」

 鍋の小皿を手に友達のことを話す春夏ちゃんは、とても満ち足りた表情をしていた。

「ああ、ほら、ちょっと」

 荒輝が慌てたように言う。

「お肉とりすぎだよ、みんな! もうちょっと遠慮して」

「食えるときに食って何が悪い!」

 水野さんが同じ台詞を繰り返し、目にも止まらぬ箸さばきで鍋をあさる。

良助くんと冬芽くんも対抗して箸を鍋に入れるが、水野さんにはかなわない。

「……すごいですね」

 私は隣に座る西条さんに話しかける。西条さんはここにいる男の人のなかで唯一、淡々と鍋をつまんでいる。

「がめついね」

 西条さんは気だるそうに、そう一言コメントした。

 いつもは静かな私の食卓は、いつの間にか賑やかになっていた。


 鍋はすっかりからっぽになった。汁がわずかに、底に沈殿しているのみだ。

「あんな量が、食べきれるものなんだね」

 私が言うと、荒輝も感心したように頷く。

 穏やかで雰囲気が、部屋じゅうに満ちていた。健全なものをおなかいっぱい食べたあと独特の、幸福な雰囲気だ。水野さんはおなかに手をあてて壁にもたれかかっている。良助くんと冬芽くんは胡坐をかいている。春夏ちゃんはちょこんと正座している。私と荒輝は、膝立ちして何も残っていない鍋のなかを覗き込んでいる。緩やかな時間が、時計とはべつの流れで進んでいく。

「うちらさ、ほとんど初対面なのにね」

 荒輝が明るい声で言う。わいわいと盛り上がって鍋を食べることができ、賑やかなのが好きな荒輝は嬉しいのだろう。

「みんなよく来てくれたよね。夕ご飯が食べられないほど、切羽詰まっているの?」

 こういう質問をお構いなくしてしまうのが、荒輝という子だ。

「切羽詰まってなかったら、このボロアパートには住んでないんじゃ?」

 無表情に、西条さんが言う。確かに、と他の面々もうなずいて同意する。

「でも、私このアパート好きですよ。落ち着ける感じで」

 春夏ちゃんがにこにこと言う。

「俺も好きです。家賃の安いところが」

 冬芽くんが言う。切実な理由だ。

 話題の流れは自然と、どうして今こんなボロボロの若草荘に住んでいるのか、というものになった。経緯はそれぞれ何かがあるらしいが、理由はひとつ。家賃が安い、ということだった。でもなんだかんだで、みんな若草荘のことが気に入っているらしい。古い木造建築のこのアパートにはいつも人の気配がして、うるさいとは思えど寂しいということはない。何かと苦労しながら貧乏な生活をしている、という一種の連帯感のようなものを私は感じた。

 夜の長話は尽きない。

「あたしさ、バンドやりたいんだ。それでこっちに来たのもあるしさ。でも面子がいなくてさ。誰かいい人いないかな」

 荒輝が目を輝かせて夢を語る。

「私のお友達って、みんないい人たちばかりなんですよ。ずっと一緒にいたいな、って思います」

 春夏ちゃんが、幸せそうに友達のことを話す。

「一人暮らししながら勉強するのも楽じゃないです。朝飯自分でつくるんですよ。でもなかなか楽しいんで、いいですけれどね」

 良助くんが、楽しそうに苦労を語る。

「今バイトしてるんですけれど、先生とかにバレたらほんとまずいんです。でもバイトしないと家賃払えないし。バレないようにしないとなあ」

 冬芽くんが、やけに大人びた雰囲気でバイトのことを話す。

「幽霊って信じてる?」

 西条さんが、突拍子もないことを真顔で訊いてくる。

 水野さんは、話を聞きながら何やら熱心にメモをとっているのみだった。

 そんなみんなの話を聞いているうちに、話したい、という欲求がふつふつと沸いてきた。初めはささやかな欲求だったそれは、場の雰囲気が親密になるうち、強いものになっていった。

 そのときの話題がひと段落ついたのを見計らって、私は決意し口を開いた。

「あのさ」


「私の友達にね、莉子ちゃんって子がいて。ある忌々しい事件があって、でも莉子ちゃんは故郷に残らざるをえなかったんだけれど、私はひとりでこの場所に引っ越してきちゃって……自分が逃げたとは思わない。でも、いろんなわだかまりを残してきたのはほんとうなんだ。それですっきりしたのもほんとうなんだ。莉子ちゃんは、それは逃げだって言う。言葉の裏で、私を責めるんだ」

 伝わらなかったかもしれない、と思った。ずいぶん抽象的な話になってしまった。でもそれでも、懸命に話した。とにかく誰かに、故郷と関係のない誰かに話を聞いてもらいたかった。

「いいんじゃないかな」

 最初に言ったのは、荒輝だった。

「他人がどう思おうと、あきちゃんがそう考えてやったことでしょ? それなら他人の言うことなんて関係ないよ」

「ていうかその莉子って人、相野さんのことをそこまで責める権利はないと思うけれど」

 西条さんは、相変わらずの淡々とした調子で言う。

「何て言ったらいいかわからないけれど、俺もいいと思います」

 冬芽くんがおずおずと言う。

「俺もそう思います」

 良助くんが便乗する。

 水野さんは何も言わない。

「大丈夫ですよ」

 春夏ちゃんの笑顔は可愛らしいのにどこか大人びていて、人を安心させる雰囲気が漂っていた。

「ありがとう」

 私はその一言で、この話題を終了させた。無責任で根拠がなくて、でも精一杯に優しい住人たちの励ましに、心の底から感謝しながら。


 翌日、鍋と談笑の余韻の残る部屋で、私は莉子ちゃんに電話をかけた。

「……もしもし。莉子ちゃん?」

「……あき」

「この間は、ごめんね。莉子ちゃんの気に障ることを言っちゃったみたいで」

「ううん、いいよ。私こそごめん。あれは言っちゃいけない言葉だった」

「聞いてよ。今住んでいるアパート若草荘っていうって言ったでしょ? それがさ、ボロいけど意外といいアパートなんだよ……」

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