襟なおし(三題噺:バイオレンス、襟、あなた任せ)

 あなたは毎朝、わたしの襟をなおす。仕方ないなぁ、としかめっ面で、でもとっても繊細な手つきで。

 あなたの頭が、わたしの顔のすぐそばにある。あなたの肩で切り揃えた髪から、ふわりと香水が香る。フローラルの香り。いつも冷静なあなただけれど、何故か香りはピンクで甘い。

 ちく、ちく、と時計が鳴る。あなたの顔ごしにぼんやり眺める時計は、八時十一分をさしている。爽やかな朝。電車が来るまで、あと十四分。

「真衣はまったく、いつも」

 静かな声で言いながら、あなたは小さく息を吐く。ミントの香る、暖かな息だった。

「服くらい、きちんと着れないの」

「スーツって大変なんだもの」

「社会人として、それどうなの」

 わたしは笑って、時計のまわりの壁をじっと見る。ざらざらと白い、マンションの壁。

「わたしが毎朝なおすわけにもいかないのよ」

「えー、何で」

「一生一緒にいるわけじゃないでしょ?」

 わたしは、黙る。時計が、鳴る。

 わたしはね。

 声に出さずに、話す。

 わたしは誰にでも、襟をなおしてもらうわけじゃない。あなただから、委ねているんだ。襟もとを任せるなんて、そんな危険なこと。だって何をされるかわかったもんじゃない。首をしめることだって、とがったもので刺すことだって、何だって、できる。

 わたしはきっと、あなたを絶対的に信頼している。もう絶望的なほどに。

 ふっ、とあなたの手が離れて、そのままわたしの首のまわりは空気になる。

 と、思ったら。

 固い感触が、首もとに走った。あなたの爪だった。

「何、」

 思わず、言ってしまう。

「何してるの」

 あなたは何も言わず、わたしの首にふたつの手をかける。

「そんなんじゃ、今ここで首をしめちゃおうか」

 楽しそうに言うあなたの前で、わたしはじっと、固まった。

 まさか冗談だということはわかっている。そんなことするわけないなんてわかっている。でも、可能性としては有り得るわけで、ひたすら有り得るだけで、

「そんな顔しないでよ。冗談よ」

 あなたは手を離し、そっと笑う。その笑顔に、わたしはぞくっとした。

 ああ、やっぱり。

 あなたはいつでもわたしを殺せる。

 その瞬間、時計の音がすっと聞こえなくなった。

 はてしなく、暴力的だ。あなたはそうしてわたしを楽しむ。わたしの信頼をいいことに、いつもいつもわたしを楽しむ。でもどうしようもない仕方ない、だってわたしはあなたを信頼してしまっているのだから、

「……行ってきなよ。真衣」

 あなたはまた、ひっそりと笑う。わたしは考えこみながら、玄関に向かう。

 いつだって、わたしはあなたから逃げられる。今日外に出て、そのまま

電車に乗ってはるか遠くに行くことができる。でも、だから、逃げられない、

「いってらっしゃい」

 ドアが閉まる瞬間、隙間からあなたの柔らかい笑顔がのぞいた。

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