雷のキス(三題噺:夜の廊下、奪う、雷)
お題:「夜の廊下」「奪う」「雷」
彼についてわたしが知っていることと言えば、サッカー部のくせに休み時間はサッカーしないでいっつも机に突っ伏して寝ていることと、けっして声をたてずにひっそりと笑うことと、それと、女の子たちのあいだで、サンダー、なんて呼ばれていることだ。なんでそんな妙なあだ名がついたのかって言うと、彼がシュートを決める瞬間って、電撃をゴールに食らわすみたいに格好いいんだって。だから彼がシュートを決めると、みんなサンダー! っておどけて騒ぐんだって。
馬鹿みたい。笑っちゃうよね。
わたしは、彼の試合を見に行ったことはない。見に行ってしまったら、なんだか負けな気がする。彼を慕う女の子たちのひとり、つまりその他大勢のひとり、そんな存在になるのは嫌だった。
だからわたしはこうして毎晩、彼の机に突っ伏してみるのだ。彼とおなじようにして、廊下がわに顔を向けて。電気のついていない教室には、外の明かりがしまうまの模様のように入り込んでいる。ひと気のない校舎には、ときおり車がごうっと風のように走り去ってゆく音だけが響く。
壁の時計は、六時半過ぎを指している。部活もないのに、そして友達もいないのに、こんな時間までわざわざ学校に残って、机に突っ伏し彼の残滓を嗅ごうとしているわたしは、あの女の子たちよりも、もしかしたら馬鹿なのだろうか?
ゆっくりと、目を閉じる。ううん。ううん、そんなことない。これが、わたしの想いのしるしだよ。ほっぺたから全身に染み渡る、この机の冷たい温度こそが、彼とわたしのつながり。
女の子たちが、サンダー! と嬌声を上げるところを想像する。
憐憫にも似た気持ちが、生まれた。ほんとうに彼とつながっているのは、このわたしなのにね。目を開け、彼を真似て口もとだけで笑った。
わたしは、わたしだけは、あなたをサンダーとなんて呼ばないからね。
廊下の窓からは、光がひとすじも入ってこない。
時計の針がたんっと動いて、七時を指した。
わたしは、立ち上がる。帰ろう、そろそろ見回りの教師が来る時間だ。
ぺったんこのかばんを持って、長いスカートの裾を軽く整えて。わたしは、教室から出た。
しかし、わたしは立ち止まる。だれかが、階段を上ってくる音が聞こえたのだ。一定のリズムで刻まれる、その音。
もしかして。
もしかしてだけれど、彼……?
だとしたら、すごい、やっぱりわたしたちは、決定的につながっていたんだ。
胸を高鳴らせるわたしの前にあらわれたのは、しかし――彼ではなかった。
「あれ? 鈴木さんだ」
わたしの目の前で目をまんまるくするのは、おなじクラスの……だれだっけ、とにかく彼を慕う女の子のひとりだった。大柄でかわいくないわたしと違って、小柄でかわいらしい。
「いまから、帰り?」
「いや……」
わたしは、目を逸らす。どうも、他人とはうまく喋れない。
女の子は、にっこりと笑う。わたしにはどうあがいてもできない、陽だまりのような微笑み。
「わたしはね、忘れもの取り来たんだあ。あ、わたしの忘れものじゃないんだけどね」
「……」
なんと返していいか、わからない。
「わたし、サンダーの帰り待ってたんだけど、サンダーがね、あいつが、進路希望のプリント忘れやがって、もう、進路をなんだと思ってるの! って感じだよね」
「えっ、あ……」
いきなり出てきた彼の名前に不覚にも動揺してしまったが、すぐにわかった、彼は大事なプリントを忘れてしまって、しょうがなく取り巻きの女の子のひとりであるこの子に取ってくるよう頼んだんだ。
つまりは、ぱしりか。かわいそうに。
わずかな沈黙の、のち。秘密を打ち明けるようにして、女の子は言う。
「……ねえ、あいつの進路って知ってる?」
「あいつ?」
「サンダーの」
わたしは小さく、首を横に振る。この子はいったい、いきなりなにを言い出すのだろう?
「県外の高校、行くんだって。サッカーの推薦で」
「……えっ」
「知らなかったでしょ? 知らなくって、当然だよねえ。ねえ、鈴木さんってさ、」
女の子は、陽だまりの微笑みのまま言う。
「サンダーのこと、好きなの?」
呼吸を、忘れそうになった。
「……なんで」
「だっていつも、あいつのこと見てるよ。わたし、知ってるんだから。いまも、もしかして、サンダーの持ちものとか、見てたとか、そんなわけないよね?」
「……そんなこと、ないっ」
わたしは後ずさりたくなる、なんだ、この、敵意は。にこにこと笑う仮面の裏側に、この子はなんの感情を隠しているの。
彼女はあくまでも、柔らかい声で言う。
「わたしの、彼氏だからね。あんまり好きになられると、困っちゃうかなあ」
その言葉は、見たことない彼のシュートみたいに、わたしの脳天を、つらぬいた。
彼氏……?
「……えっ?」
「だからね、鈴木さん、サンダーのこと好きになるのはいいけど、あんまりエスカレートしないでね」
彼女は口早に言うと、ふっと真顔になって、教室に入って行こうとした。その真顔は、氷のように冷たくて、わたしは……。
「待って」
自分でも驚くくらいに、凛とした声が出た。彼女は訝しげに、振り向く。
「なに?」
「あなたは、彼と付き合っている」
「うん、そうだよ」
わたしは、唇をきゅっと噛む。そしてうつむき、決心する、この子が言っていることが、もし事実であるならば。
わたしは、顔を上げた。
「つまり、……キスとか、してるってこと?」
彼女は面食らったような顔をするが、すぐにけたけたと声を立てて笑いはじめた。
「へえ、鈴木さんって、純情そうな顔してけっこう直球だね!」
「いいから答えて。彼と、キスしたの?」
「まあ、そりゃあ、ねえ。彼氏ですから」
――だとしたら、わたしがやるべきことは、ただひとつ。
わたしは教室の入り口に立っている彼女のもとにつかつかと歩み寄ると、脅えたような顔をしている彼女の肩を思いっきり掴んで、
その唇に、唇をそっと合わせた。
雷の、ように。
「――!」
彼女は、すぐにわたしの身体を突き放す。わたしはよろめくが、転びはしなかった。
「なに、するのっ……変態!」
彼女はわたしを睨みつけて叫ぶと、プリントのことも忘れてくるりと振り向き、さっきまでの余裕はどこへやら、と言いたくなるくらいの勢いで、駆け出して行った。耳を澄ましていると、彼女の足音はやがて消えた。
わたしは、唇を舐める。
わたしはあしたから、彼をサンダーと呼ぶだろう。もう、彼の机に突っ伏してみることもないだろう。
でも。
雷のキスだけは、あなたとわたしの永遠のあかし――。
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