猫にお手(三題噺:早朝の階段、嘘をつく、猫)
お題:「早朝の階段」「嘘をつく」「猫」
午前七時半。学校にはまだ、人気がない。喧騒の代わりに、しんとした光が満ち満ちているだけだ。屋上の花の手入れをしに来た俺と志乃さんは、今朝は屋上が開いてないことに気がついた。鍵をとろうにも、職員室も開いてない。そこで俺たちは、屋上へとつながる階段に座って時間を潰している。
「佐藤先輩。その傷、どうしたんですか?」
ふいに、志乃さんが聞いてきた。あー、と俺は曖昧な声を出して、両手を眺める。そこにはざっくりとした引っかき傷がある、隠すために包帯でも巻いてこようかと一瞬悩んだのだが、それはそれで大げさだろうとあえてこのままで来た。
昨日は姉と出くわしてしまって、それでやられたのだ。全身で暴れる姉を思い出し、俺はため息をつきたい気分になる。しかし今の俺がじっさいにつくのは、嘘だ。
「猫ですよ。猫に引っかかれたんです、撫でていたら、どうやら嫌われてしまったらしくてですね」
志乃さんは、俺を睨むようにうかがい見る。そしてひとこと、突きつけるように言った。
「……やっぱり嘘つきですね」
「は、なにがです?」
俺はとぼける。志乃さんの鋭い眼光が痛い。
志乃さんは、知っているのだ。そのことを、俺はもう感づいている。姉と志乃さんのあいだにはなんらかのつながりがあると、俺は昨日も姉にほのめかされた。でも、言わない。まだ言わない。時は来ていない。それを認めることで、それを事実にしてしまってはいけない。今は、まだ。
志乃さんは、ひとりごとのように言う。
「……猫、ですか。佐藤先輩って、猫に似てるって言われません?」
こんなにも唐突な話の転換にも、俺は平然とした顔でついてゆく。
「いやいや光栄ですねえ、それは俺が猫みたくそばに置いておきたい存在であるということでしょうか、あるいは猫みたくペットとして飼いたいということでしょうか!」
「違います」
志乃さんに一蹴されて、ですよねー、と俺は笑う。最近軽蔑されるのが快感になりつつある、これは変態ロードまっしぐらかと危惧しつつも、まあ志乃さんならいいかという結論に結局は落ち着く。もうこの時点でわりとおかしくなっているということは、もちろん自覚している。だって俺は本来、絶対的に他者の上に立つことのできる存在であるはずだからだ。
志乃さんは長い髪をくるくるといじりながら、続ける。
「猫みたいに、掴みどころがないって意味ですよ。なんだかいつも、涼しい顔してて」
「涼しい顔してるのは、どちらかと言うと志乃さんのほうじゃないですか?」
「私はいつだって、寒いくらいに涼しいので」
俺は苦笑する。つくづく強がりな人だ。
「……いやまあ言われてみれば、確かにそうかもしれませんね。俺、感情的になったりしないですし」
「そうですよね。さぞかし無機質な人と思われてるでしょうね」
「いやいやなにをおっしゃりますか志乃さん、俺はとっても有機質な人間ですよ!」
「そうやってまた、本質を掴ませないんですね」
はは、と俺は再び笑うしかない。
志乃さんの言う通りなのだ、きっと。俺はいつでも飄々としているし、本音を決して人に言わない。そうあるように意識しているし、努力もしている。しかしまあその成果が猫とは、ずいぶんと俺も可愛らしくなったものだ。
すこしの間があって、志乃さんは言う。
「なんなら猫耳でもつけますか」
「そしたら志乃さんが俺のこと飼ってくれるんですか」
「なにを言ってるか、自分でわかってますか」
「すみません、ノリです」
「……猫って言ったの、褒めてませんよ。私、動物嫌いですし」
「それは今流行りのツンデレだと解釈してもよろしいでしょうか。だとしたら萌えですね。ツンデレ志乃さんにきゅんきゅんですね」
「もう一度言います。なにを言ってるか、自分でわかってますか」
「すみません、ノリです」
志乃さんはあきれた顔をする。この毛虫でも見るような視線、痺れる。
志乃さんは、なんの前触れもなく言った。
「佐藤先輩。そろそろ、嘘をつくのもやめにしませんか」
つくづく直球な人だ、と思う。そして不器用。いつだって全力で、まっすぐな言葉を投げてくる。
しかし俺は、とぼける。なおも。
「いやいや嘘じゃないですよ、志乃さんにときめくことの、いったいどこが嘘でしょう! 一センチの隙間もなくほんとうですよ、この気持ちは!」
「一ミリの隙間はあるかもしれないんですね」
なんてうがった見方をする人だ。
「いえいえそういう意味でなくしてですねえ志乃さん、つまりして俺はこの気持ちが誠実だと言いたかったのですよ。これは、ほんとうです」
俺は思う。正直になにもかもを言うのが誠実だって信じてるやつは、いっぺん痛い目に遭えばいい。ほんとうのことというのは往々にして残酷なものだ、それを無理やりに知らせることに、いったい価値などあるものか。それは自己満足に過ぎない。話して自分の荷を降ろしたいだけなのだ。痛みに耐えられないからって言ってしまうなんて、それは愚の骨頂だ。
誠実というのは、相手を傷つけないということではないか。相手をできる限り、不用意な痛みから守るということではないか。だから俺は、時が来るまで言うつもりはない。それまでは、あくまでも沈黙を守り通す。
志乃さんは、納得できないといった表情をしている。だから俺は、言い聞かせるように言う。
「志乃さん、まあ確かに俺は、猫に似たところが多少あるのかもしれないです。でもだとしても俺は恩を忘れない猫です、そんじょそこらの猫とは違う。ちゃんと首輪の鈴も鳴ってますし」
「……少々倒錯的である発言な気がしますが」
「いやまあ確かにそうですね、どうも変態で申し訳ありません」
「いまさらなんで、いいです」
志乃さんはそう言って、視線を俯ける。考えごとをしているときの、志乃さんのくせだ。俺はただ、じっと待つ。志乃さんの考えがまとまるのを。
階下に人の気配が響き始めたころ、志乃さんはふいに向き直り、言った。
「お手」
差し出された手に、は、と俺は思わず困惑の声を漏らしてしまった。志乃さんの表情は、真剣そのものだ。いっそ切羽詰っていると言ってもいいくらいに。
「ええと志乃さん、客観的かつ一般的な意見を述べますと、お手というのは犬にやるものだと思いますがねえ」
「猫なんですよね?」
志乃さんは手を出したまま、俺を上目遣いで睨むようにしながら言う。
「猫なんですよね、でも、ほかの猫とは違うんですよね。だとしたらそれを証明してください、猫はお手なんてできませんから」
まったく滅茶苦茶な思考回路をもった人だ。ちなみにこれは、褒めている。
「……志乃さん、あなたもたいがい倒錯的である気がしますが」
「はやく」
促されて、俺は志乃さんの手を見る。ほんとに小さいよなあ、と俺は感慨深く思う。
俺は志乃さんをうかがい見る。志乃さんは唇を結び、まっすぐに俺を見ている。これは本気だな。
拒否する理由も権利もない。俺は志乃さんに、忠誠を誓っているのだから。
俺はそっと、その手のひらに手を乗せる。こうすると違いがよくわかる、志乃さんの手はほんとうに白くてきゃしゃだ。そしてあたたかい、信じられないほどにぬくもっている。
「よし」
満足そうに言って、志乃さんは微笑んだ。女王の微笑み、と俺は思う。そしてどうしようもないくらいに、ぞくぞくとしてしまう。
志乃さんはふいに手をほどいて立ち上がり、俺を見下ろして言った。
「職員室、見てきます。もう鍵もらえるかもしれないし。いい子で待っててくださいね」
俺が返事をするのを待たずに、志乃さんはくるりと背を向けぱたぱたと階段を下りてゆく。その足音を聴きながら思う、志乃さん、ずいぶんと愉しんでるな。いやまあいいんだけど、俺もちょっと愉しいし。
俺は手の甲をじいっと見る。赤く刻まれた傷。そんなに痛むわけでもない、軽い切り傷だ。しかし、この傷には、それ以上の意味がある。そして志乃さんは、それに気づきつつある。
光のなかで、ちりが舞う。学校の喧騒は、はるか遠くから響いてくる。
俺は志乃さんに誠実でいよう。最後まで。
ぬくもりの余韻を両手に感じながら、俺は改めてそう思った。
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