泣きたくなる(三題噺:朝の床の上、予想する、靴)
あなたの匂いのなか、私は目を覚ました。そして途端にかなしくなる。それは隣にあなたがいないから、ではない。たとえば鳥たちが囀っていることとか、シーツがとっても柔らかいこととか、朝の陽ざしがカーテンの隙間から差し込んでくることとか、そういったものごとが、私を限りなくかなしくさせる。
朝は苦手だ。どう考えても、私に似あわない。朝はいろいろなものごとの出発点だ。でも私は、べつに何も始まって欲しくなんかない。できることならば、ずっと停滞していたい。このまま何も、変わらずに。
でもそんなこと無理だって、わかっている。だってもう、私は知ってしまっている。現実というのは、濁流のように前へ前へと進むものだと。
やっとのことで、身体を起こす。ふわりとあなたの匂いが香り、朝の光と混じりあう。夜の余韻は消えてゆく。私は泣きたい気もちになる。すべてが上書きされてゆく気がして。そしてあなたの前で声をあげて泣けたら、どんなにか楽だろうと思う。私はあなたの前で泣いたことがない。泣けないし、泣きたくない。いつだって、笑顔でいたい。
でも、もう。
足をそっと、床につける。ぺたりとひそやかな音がする。そのままの姿勢で、床の冷たさをしばらく味わう。ひんやりと端正な感触が、伝わってくる。止めなよって、きっとあなたなら言う。止めなよ、床に足つけたら汚れちゃうよ、せめてスリッパ履きなよ。そういったあなたの気遣いは、うれしくて、くるしい。
私の素足の隣には、あなたの靴が置いてある。室内用の、黒い靴。その力づよい大きさには、いつもびっくりしてしまう。男の人の足というのは、こんなにも大きい。吸い込まれそうなくらいに。
思いつき、あなたの靴のなかに足を入れてみる。ぶかぶかで、笑ってしまった。足が遊べる。つっかけてもちあげてみたり、指を動かしてみたりしてみた。
そしてふと、止める。私はこの部屋に、ひとり。確かにひとり。冷蔵庫のうなる音が、急に気になり始める。
ねえ。
出かけてしまった、あなたに話しかける。
ねえ、私たち、きっとうまくいかないよ、だって足の大きさだってこんなに違うし、私はあなたのまえで泣くことすらかなわないんだ、どうしてだろうね、わからないんだ私にも、でも、もう、無理なんだ。一緒にいても、どこにも行けないんだ。
ここで涙が落ちたら、きっと私は格好良い。でもそううまくはいかなくて、じっさい私は、ぼうっと足を見つめているだけだった。あなたの靴に包まれている、私の素足。こんなにも違う。こんなにも、違う。違っても良いって、前なら言えた。でも今は、それが決定的な隔たりに思えてならない。こんな、足の大きさ、ひとつとっても。
私はしばらくそうしていた。そしてもう一度思った。あなたのまえで思いきり泣けたら、どんなにか良いだろう。
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