エチュードはおしまい(三題噺:夕方の教室、決める、長袖)
「みくはわたしが消えたらかなしい」
くろは、聞いてきた。窓の外をみやったまま、表情をぴくりとも動かさず。
放課後の教室には、わたしたちしかいない。ランドセルは、ロッカーに入れっぱなし。みんな家に、平和な家に帰ってゆくのだ。あとに残るのは、帰らなたがりのわたしたちだけ。
オレンジ色の光がひたひたと、教室を満たしてゆく。四時五十分、この時間の教室は、まるで宇宙船みたい。冬は日が暮れるのがとてもはやい。わたしたちをとり残して、あたりはどんどん暗くなるのだ。そして家々は、あたたかい光をともしはじめる。
不平等だ。なんだか苛々した。人間は生まれつき平等なんて言ったのだれだ、あんなの嘘に決まってる。思って、わたしはルーズリーフにがしゃがしゃと円を描く。何重にも、何重にも。黒々としたぐしゃぐしゃの円が、あらわれる。まるでわたしの心みたい。
ふと顔をあげてくろをみると、彼女は長い黒髪をさらさらとさせながら、窓ぎわの机に座って外を眺めている。大人っぽい横顔、そばかすのある頬。みんなはくろのこと気もち悪いだの魔女だのっていやがるけれど、わたしはくろのこと、ほんとうにきれいな女の子だと思う。確かに着ている服は、ぼろぼろの黒いTシャツに、ところどころ糸のほつれた黒いジーンズだけれど。くろは「よそおい」で損してるんだ。
そうやってわたしがくろに見惚れているときに、言ったのだ、くろは。みくはわたしが消えたらかなしい。平らでしずかな、いつもの言いかた。
「……まあ、」
そんなの、かなしいに決まってる。
思ったけれど、そんなこと言えない。なんだか負けた気がする、そういうのって。わたしはうつむいて、書きものに集中してるよって調子で言った。
「なんで?」
「わたし音中行こっかなって」
弾かれたように、顔をあげた。音中。電車に乗ってく遠くの栄えた町にある、音楽を勉強できる学校。音楽を勉強できるから、わたしたちは音中と呼んでいる。
「え、……なんでよ」
言ったわたしの声は笑いすら含んでいて、強がりな自分を、このときばかりは呪いたくなった。
「だって、ここにいたってしょうがないし。みんなわたしのこときらいでしょう。結局おんなじ中学なわけでしょう。わたし遠くでやりなおしたいなって思うのね」
「遠くでって、」
わたしは言葉がなかった。遠くでやりなおしたい。そんなの、漫画かドラマの台詞みたい。
「……え、馬鹿じゃん、くろ。遠くでやりなおすっていうのはもっと、中学生とか高校生が言うんだよ。わたしたちまだそんなに生きてないじゃん」
「生きてるよ」
くろははじめて、わたしの顔をじっとみてくる。
「十二年も、生きてる」
「まあ、そうだけど」
「だいたいさ十二年って短いって大人は言うでしょう。でもわたしたちにとってはそれがすべてなわけじゃない。それが大人はわかってない。大人はなんにもわかってない。もうあんな家にいるのこりごりよ。わたし遠くでやりなおしたい。人生を」
珍しく興奮した口調でまくしたてるくろに、わたしはなんだかびっくりしていた。でも同時に、わかるなぁ、と思ってる自分もいた。
わたしたちが人生だとか言い出すと、大人は決まって、わかるわかるって顔をする。なにもかもすべてわかってるのよわたしたちも同じ道を歩んできたから、そういう表情で、笑う。わたしはそのたび、むしゃくしゃする。おまえらになにがわかるんだ。わたしたちには、わたしたちの人生がある。そういう大人たちはほんとにむかつくし、そんな大人たちのくだらないお説教を真面目な顔できいている子たちも、むかつく。
わたしたちは、人生を歩み始めている。確かに、自分の力で。だからこそわたしとくろは、仲良くなったんだ。そしてこんなに、ふたりだけでやってきた。
そこまで考えて、思う。なのに。それなのに。
「なに、くろ、本気なの、それ」
「わりとね。本気。ほらわたしピアノだけはできるでしょう、だからピアノで生きてくの。それで生計たてるのよ」
生計を、たてる。その現実的で大人びた言いかたに、ひやりとした。
沈黙が、流れる。オレンジ色は、強く濃くなってゆく。空気がますます、冷たくなってゆく。
「……みく、四年の春のこと、おぼえてる」
「おぼえてる」
四年の春。わたしははじめて、くろのピアノを聴いた。学校の音楽室で、わたしは、ぽかんと口を開けてくろの演奏を聴いた。みすぼらしい格好のくろの身体のいったいどこから、こんなきれいな音が出てくるんだろうと思った。そのときはじめて、わたしはくろの魅力に気がついた。
「あのときみくは、わたしのこと、天才だって言ってくれたでしょう」
わたしはうなずく。
「わたし、すごくうれしかった」
うなずく。
「それで、そのあとみくの小説をみせてもらって、たぶんわたし、みくとおなじくらいびっくりした。すっごく、すっごくいいんだもの。プロの作家より、いいよ。ぜったい。わたしがそれ、証明してるもの」
うなずく。
「……みく、わたし、夢をかなえたいの。そのためには、音中に行きたいの……ねえ、みく、いっしょに夢を、かなえましょうよ。みくは小説家になって、わたしは、ピアニストになるの。それでね、いっしょに暮らしましょう。きっと素敵よ。ぜったい素敵よ……」
わたしはもう、うなずかない。喉のおくが、つんとした。ぐっとした。泣くもんか。わたしは強く、思う。泣かない、ぜったい、泣かない。
泣けたらどんなにからくだろう。泣いて、行かないでってくろのことを引き止められたら、どんなにかいいだろう。でも、だめだ、そんなの。
だってそうなんだ。くろが夢のようなことを言い出すときは、だいたい、本気なんだ。小説家のわたしとピアニストのくろでいっしょに暮らすことを夢みて、それで、くろは頑張れる人なんだ。きっと十年だって、頑張れる。そんな遠くの話を、夢のような話を、宝もののように胸に抱きながら。
くろは本気だってことが、わたしにはわかってしまうんだ。他のだれに、わからなくても。
「くろ、」
わたしの声は、しかし、震えてしまった。
「……くろのピアノ、わたし、好きだよ」
くろの顔は、みなかった。彼女の手もと、ほつれた長袖を、ひたすらに睨みつけていた。でも、彼女がふわりと微笑んだのがわたしにはわかった。
「ありがとう、みく」
くろは優しい声で言った。泣かない。ぜったいに。思って、でも、ぽたりと音が鳴ったのを、わたしは確かに聞いてしまった。
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