しゃぼん玉への憧憬(三題噺:プール、通信、しゃぼん玉)
空に、ぽっかり、しゃぼん玉。
ストローに向かって、ふうっと息を紡ぎ出す。イメージとしては格好良いお姉さんが煙草をふかすような感じで、アンニュイに見えるように。ふううって、勢い良く吹きかける。ゆっくり丁寧に大きなしゃぼんをつくるなんて、そんな野暮なこと私はしない。しゃぼん玉は、自由なところがいいんじゃないか。その身体をわざわざ重たくするなんて、私には理解できない。
しゃぼん玉は、青を吸い込み飛んでゆく。輪郭だけが、くっきりとしている。つるりと、世界を反射。ふうわりふわりと風に乗って舞って踊って、瞬間ぱちんと弾け散る。これがしゃぼん玉の一生。これがしゃぼん玉の、すべて。
しゃぼん玉の消えた空を眺めながら、プールに突っ込んだはだしの足を、ぱしゃりぱしゃりと動かす。まとわりつく水。塩素かなにかの、みずみずしいくせにつんと鼻につくにおい。じりじりと身体を焼く日差し。夏だ、なにもかもが夏、いやになるくらいに夏。
学校のプールに、私はいる。人のひしめきあうプールは抑圧の象徴だけれど、人のいないプールは自由の象徴だと思う。広々として堂々として、水はざぶりとたっぷりあって。
口をつけ、もう一度ふううと息を吹きかける。ぽかりぽかりと、しゃぼん玉が生まれ出る。するりするりと空中を滑るそれらを眺めながら、思った。
もしも生まれ変わるのならば、しゃぼん玉に生まれたい。潔くって身軽でシンプルできれいで、自由で、小さな小さなしゃぼん玉に。数秒ふわっと風に乗る、それはとても気もちの良い体験だろう。ああ気もち良い、全身でそう思った瞬間弾けて消えるのだ。
しゃぼん玉たちがみな一生を終えるのを見届けて、しかし私は次の息を吹き込まなかった。水面を、じっと見つめる。ゆらゆらと、肌色が奇妙に歪んでいる。たゆたう水のその動きを、ぼんやりと追う。両足の冷たさと身体のほてり、私はくらくらと現実感をうしなっている。
しゃぼん玉に、なりたい。
そう思って、アスファルトの上に投げ出した小さな袋の存在を、私ははっきりと思い出す。小さくて軽いのに、重い、重い袋。私の一生を、終わらす力のある袋。
私はそこで、止まってしまった。思考も。動きも。だって、やっぱり。やっぱり躊躇は、してしまう。汗が勝手に流れ出て、ああうざったいなぁと思う。
自分が無機物に思えてしまう、そのくらい長い時間が経ったそのときだった。
りりりりり、と耳をつんざく電子音。びくっと身体が反射して、ああ携帯電話の音だこれは、とぼうっとする頭で思った。出ないようにしようか、そう思ったけれど、ぱかりと開いた携帯電話の名前をすこしのあいだ見つめて、なぜだかどうしようもなく人恋しい気もちになってしまて、私は気がついたら通話ボタンを押していた。
「もしもし!」
聞こえてくる、
「もしもし、……もしもし!
「……あー、うん……」
発した私の声はぼんやりとしていて、なんだか自分の声じゃないみたいだった。
「あー、うん、じゃないでしょ! もうほんとあのメール、あたし、……心配して、……今どこにいんのなにがあったのどうしたの、ねえ今どこにいんの?」
「……学校のプール」
「わかった、すぐ向かうからそこにいて、ぜったいにそこにいてよね!」
そう言って、遥は電話を切った。携帯電話をだらりともって、空に向かって私は苦笑する。ばしゃばしゃと、足を動かして遊びながら。
ああ、こうして、私はまた生きることを選んでしまうんだ。なんだかんだで、どうやったって。
ストローをもち、やさしく息を吹きかける。さよならを言うみたいに、やさしくやさしく吹きかける。まるくて柔らかいしゃぼん玉が、いくつも生まれ、消えてゆく。
結局のところ私は、しゃぼん玉のようには、生きることができない。そしてそれは私にとって、諦めに似た希望なのだ、きっと。
「香織!」
声がして、同時に、最後のしゃぼん玉がぷつっと消えた。残されたのは、はるかなる青のみ。
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