子どものきみ

 さく、さく、さく、と砂を踏み潰してゆく。ベージュ色のそれらはさらりとしてそっけなく見えるのに、スニーカーのなかに次々と流れ込んできてうざったい。ざらざらと、不快な感触がまとわりつく。

 旅行の朝。ホテルの近くの海岸で、恋人と散歩。

「見ろよ、ヨットだ」

 Tシャツ姿の陽二ようじが無邪気に言って、私は海へと視線を向けた。そして、わぁ、と小さく声をあげる。もちろん、演技だ。一日のはじまり、淡いオレンジに染まるゼリーのような海、そのうえには確かに、小さなヨットが浮いていた。帆をはためかせ、のんびりと風を受けている。

「ほんとだ、ヨットだね。きれいだね」

「ヨットかあ。乗ってみたいけど金も余裕もないんだよな。今は見るだけで精一杯だな」

「陽二、いつか海に出るって話してたもんね」

 そう言うと、陽二は皮肉っぽく笑う。

「止めてくれよ。いつの話だよ、ガキのころの話だろそれ。もうそんな夢は見てないよ」

 私は黙った。ガキって、あれはまだ高校生のときのことだ。屋上で教室で階段で、あんなに熱心に話してたじゃないか。俺はいつか海に出るんだ、船の免許とって、太平洋を横断したい。ガキのころからの憧れなんだよな。ほんとは、いかだか何かで思いっきり漕ぎ出したいんだけど、まあもうそんなガキじゃないしな。そう言って、照れたように笑ってた。

 陽二。私に言わせてもらうのならば、きみはいつだって子どもだよ。制服を着ていた高校生のときだって、パーカーにジーンズで過ごしていた大学生のときだって、そしてスーツを着るようになった、今だって。

「だいたいさぁ、海ってけっこう危ないだろ、そもそもの話。うしなうものが何もない気楽な学生のころならともかく、今はそんな気にはなれないね、正直。やらなきゃいけないこととか守らなきゃいけないものとか、たくさんあるだろ」

 私は何も答えない。きみは自分を、見誤ってるよ。きみがいったい、何を守れるっていうの。私の心すら、満足に守れなかったきみが。

 頬を、爽やかな風が撫でてゆく。さざめく波の音。すこしずつ、一日が始まってゆく。

 ベージュのなかにくっきり浮かぶスニーカーの白を眺めながら、私は呟くように言った。

「守るって、たとえばなにを?」

「それはさ、……つまり」

 陽二は立ち止まり、私も歩みを止める。海を背景に、陽二は真剣な面もちで私を見つめている。

「俺は、守るよ。洋子ようこを守る」

 何を言っているんだろう、この人。

 明るい海を背にした彼は妙に絵になっていて、それがすこしだけ、滑稽だと思った。

 私は、きく。

「守ってくれるの?」

「もちろん」

「どうやって?」

「どうやって、って……だからさ、ずっと洋子のそばにいるよ」

 腹が立ってきた。陽二はいつでも、こうやってうそぶく。私はちょっとだけ、残酷な気もちになった。

「陽二」

「なに?」

 柔らかく目を細めてきいてくるのが、また私を苛つかせる。

「人ひとりを守るって、どれだけ大変だかわかってる? いっつも陽二は気軽に言うよね、守るよって。でもその言葉がどれだけ重いのか、わかってる?」

 は? と陽二は間抜けな声を漏らす。滑稽だ、やっぱり滑稽、私は砂を蹴る、砂がばらばらと落ちてゆく。

「言葉って、重いんだよ。守るって言われたら、ほんとに守って欲しくなっちゃう。でも」

 私は陽二の目を、真正面から見据える。

「陽二は私を、守ってなんかくれなかった」

 な、と言ったきり陽二は絶句し、そのあとなぜか、勢い良く言葉をつむぎ出す。間を、埋めつくすかのように。

「何か今回の旅行で、俺、嫌なことしたかなぁ? だとしたら、ごめん。謝るよ。でも俺が洋子のこと守りたいって気もちはほんとだしそれに偽りはない。信じてくれ。大丈夫だから」

 私はかなしくなってくる。どうしようもない。ほんとにほんとに、どうしようもない。かつては陽二の、こういうところが可愛かった。子どもなのに、粋がっているところがいじらしくて好きだった。でも、今は。今はただ、醜く見えてしまうだけだ。

 感情に耐えきれず、すこしだけ眉をしかめる。それに気がついたのか、陽二はますます、慌てる。

「え、どうしたのほんとに、洋子? 具合でも悪い? 何かあったの? 言ってくれよ」

 ああ、もう、駄目なんだな。

 私はそのとき、はっきりとわかってしまった。だってこんなにも、すれ違っている。きみと私が見ている景色は、ぜんぜん違うものなんだ。

 そして私は、答えが見えてしまった。あきらかな、答え。ああそうか、と腑に落ちた。ああそうか、これだったのか、私がずっと、言いたかった言葉は。

 私は今までのなかでいちばん、いちばん心を込めて呼びかけた。

「陽二」

 いとおしく、いとおしく、呼んだ。

 陽二はじっと、私の言葉を待っている。困惑した顔つきで、真摯で真剣な眼差しで。ああ、こんなきみに、私は言うんだ、言ってしまうんだ。

 告白することを、選んでしまうんだ。

「別れたい、私」

 陽二の顔から、表情がすっと消えた。わかっている、きっと次の瞬間、きみは笑い出す。言い出す言葉もわかっている、え、どういう意味? 冗談だよな。そしてなにごとも、なかったことにしようとする。明るく無邪気に、天真爛漫なふりをして。でも、もう、間にあわないよ。決定的だった。私たちのすれ違いは、圧倒的に決定的。

 私は陽二の、首すじを見ていた。頑丈で、なのに子どものように柔らかいそこは、うっすらと赤くなっている。ああそうか。再び、腑に落ちる。昨夜、つよくつよく、私がそこを噛んだ理由。それはきっと、きみに対して、もうどうしようもなかったから。どうしようもなく、やるせなかったから。そしてその気もちは、かたちとして残ってしまった。

 でも、と私は思う。でも、大丈夫。きっと何日かすれば、消えるから。

 私は俯いた。はやくその跡が消えれば良い。きみと私とのあかしを、これ以上見せつけないで。

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