モスコミュールにさよなら

※未成年飲酒はだめです。



 夏はモスコミュールの味。

 夏休みの特別講習のあと、隣の席の鈴木すずき麻子あさこが教室でこう言い出したとき、わたしはずいぶんびっくりしたものだ。

「モスコミュール?」聞き返したわたしの声は、いっそ怪訝に響く。「それって、カクテルだよね?」読み散らしている恋愛小説のおかげで、わたしはお酒の名前をわりあいよく知っている。飲んだことのない、透明のきれいな液体。

「やだ、美砂子みさこ、なんかこわい」麻子は頭のうしろに腕をやり、椅子の背もたれに思いきりもたれかかって笑う。麻子の笑顔は、くしゃっとしていて邪気がない。「美紗子ってもしかして、未成年飲酒反対派?」

「反対って言うかさ」わたしは若干戸惑いながら言う。「……カクテルなんて、高校生に似合わなくない?」それはわたしが、必死にしぼり出した格好のいい言葉。

 しかし麻子は、たったひとことでそれを打ち砕く。

「そんなことないよ」

 笑顔のままの、その言葉。

「結局のところその人しだい。たとえ小学生だってお酒の似合う子はいるだろうし、大人になったっててんで駄目な人もいる」

 そして麻子は、いたずらっぽい目をわたしに向けてくる。

「ね、美砂子」

 秘密を囁くように、麻子は言う。

「きょうこれから、飲みに行かない?」

 それは晴天の霹靂であったにも関わらず、わたしはうなずいていた。わたしにだって、いろいろと思うところはあった。たとえばそれは、わたしなりの倫理観。でも抗えなかった。甘やかな予感に、抗えなかったのだ。それは麻子といっしょに、とくべつな夏を過ごせるかもしれないという予感。夢のような、予感。


 鈴木麻子とは、べつにとくべつ親しかったわけではない。親しくなかったわけでもないのだが、なにせ麻子はだれとでも仲がよかった。小がらな身体で教室じゅうをあちらこちらと動き回る彼女は、ほんとうに自由に見えた。教室じゅうにいくつもある、人間関係の島を自由に飛び回る鳥みたい。そう、彼女は、だれにも囚われていなかった。グループというものに属することなく、特定のだれかに執着することなく。みんなと、でもひとりで、楽しそうに日々を過ごしていた。

 そんな麻子だから、わたしたちのグループにも声をかけてくれた。わたしたちのグループは、言ってしまえば寄せ集め。教室の中心からあぶれてしまった子たちが、ひっそりと身を寄せ合っているグループだ。ほかのグループとの交流は皆無で、お喋りよりも沈黙の量のほうが多い。でも麻子は、そんなことまったく気にしないようすでぺらぺらと喋るのだ。サイズの合わない服を買ってしまったという話。弟が熱を出したという話。中学の友達とお祭りに行ったという話。どれも他愛ない話だった。でも、麻子が話すとなぜだかすごく楽しいのだ。わたしたちはみな、うん、うんとあいづちを打っては小さく笑った。

 そしていっぽうでわたしは、麻子の話を聞けば聞くほど寂しくなった。

ああ、この人には楽しい日常があるんだなあという気持ち。麻子はいろんな場所にいて、いろんな人が麻子を知ってて、麻子はいつだって笑っていて。わたしはきっと、麻子の日常のごくごく一部に過ぎなくて。たぶん麻子はひとりでいるとき、わたしのことを考えたりなんかしない。

 この人の世界に入れないという、緩やかな絶望。

話していると、麻子はたいていだれかに呼ばれる。そのときの、屈託のない笑顔。呼ばれちゃったよ、なんて言って。そして直後、背を向けるのだ。

 麻子の髪にいつでも留まってる、黄色の蝶々の飾りが楽しげに揺れる。

 わたしはそれを見つめ、うつむき唇を噛む。

 どうして麻子のことがこんなに気になるのか、いくら考えても明快な答えは出なかった。羨望、嫉妬、それとも?

 たくさん読んでる恋愛小説なんて、答えをくれちゃくれないのだった。


 だからわたしは、ひたすらに緊張していた。

「どうしたの、美砂子」電車のつり革につかまった麻子は、思いきり首をかしげてわたしを見る。長い髪が、ふわりと揺れる。

「なんか硬いよ?」

 わたしは慌てて笑う。

「あ、嘘、そうかな? あー、きょうの補習で、ちょっと疲れてるのかも」

「わかるー」言うと、麻子は肩をすくめてみせる。「なかなかに大変なもんだよね、高校生って身分もさ」

 わたしたちの通う女子高は、それなりの進学校だ。だから夏休みにも特別講習を行う。これは赤点をとったひとの補習とはべつのもので、全員が受けなければならないものだ。講習は午前中だけとは言え、あまり夏休みという感じはしない。なんだかんだ、そのまま学校に残って自習する日も多いし。ほんとはきょうも残ろうと思って、教材をもってきてあった。でも、麻子に誘われたなんてなったら話は違う。勉強なんて、それどころじゃない。

 でも、わたしは言い訳のように続ける。

「ね、勉強とかつまんないし。夏休みくらい休ませてくれたらいいのにって感じ」

「美砂子、勉強嫌い?」

 ストレートに訊いてくるから、わたしはすこし困惑する。ふつうなら、ああそうだよねって当たり前のように同調してくれるところなのに。

「嫌い、って言うか。好きな人ってあんまりいなくない?」

 わたしは媚を売る。ほんとうは、勉強ってそんなに嫌いじゃないのに。

しかし麻子は、ひとことでわたしの媚を一蹴する。

「わたしは好きだけど」

 麻子はどこまでもまっすぐだ。あまりにまっすぐすぎるから、わたしみたいな人間には、ときどきそれが突き刺さる。

「……そうなんだ」言ったわたしの声は、卑屈に響いている。「やっぱり麻子、すごいねー」

「なにが? すごくなんてないよ」

 麻子はべつに、機嫌を損ねたわけではないのだ。その証拠に、いつものにこにことした笑顔はみじんも崩れていない。ただちょっとばかり、麻子は強すぎるだけなのだ。きっと。

わたしは、黙った。窓の外を眺めやると、単調な住宅街が延々延々続いている。わたしはこの地味な家みたいなもんなんだろうな、と思った。そして麻子は、きっとこのなかにはいない。こんなつまらない住宅街なんかじゃなくて、もっともっと、べつの世界に住んでいるのだ。たとえばそう、海のきれいな南の島とか。

「楽しみだな」わたしの気持ちを知ってか知らずか、麻子は無邪気に言う。

「高校の友達と飲みに行くなんて、はじめて」

「そうなの?」なんでわざわざわたしを誘ったの、という言葉は唇の寸前で止まった。勇気が、なかったのだ。

 でもそれは、じっさいわからないところであった。麻子なら、あり余るほどに友人がいるはずだ。それなのに、なぜ、わたし。

 そんなわたしの気持ちを見透かしたように、麻子は言う。

「なんで美砂子を誘ったか、気になる?」

「……うん、気になる」

「美砂子は、わたしより大人なのかなって思ったから」

 ちょっと照れたような、その笑顔。

「ほら、美砂子っていつも本読んでんじゃん? それでさわたし、いっかい見ちゃったんだ。美砂子が本読んでるとき、うしろから、ぴょこっと。したらさあ、なんかすごいこと書いてあって。昼間の教室なんかには、とても似つかわしくないような、すごく、官能的な……。それを堂々と教室で読める美砂子に、わたしは興味があったんだ」

「……そうなんだ、」心底びっくりして、わたしは言った。「そんなのぜんぜん、気づかなかった……」

「ま、こっそり見たからね。悪かったよ」

 それはいいんだけど、と呟くように言って、どこか嬉しく思っている自分に気がつく。わたしが教室で本を読むのは、きっと一種の自己防衛だ。わたしはこんな本を読んでるの。こんな大人びた本を読んでるの。だからみんなと違うのよ、うるさく騒いでるみんなとは違う。

でもまさか、麻子がそれを見ていたなんて。滲み出る困惑とともに、叫び出したいような喜びが突き上げる。なんだか、とくべつになったような気がする。それは錯覚なのかも、しれないけれど。

「ねえねえそれでさ美砂子」

 麻子は、ふいに真面目な顔になって言った。

「わたし、麻子の影響で、いくつかああいう本を読んでみたんだけど……ああいう本に書いてあることって、ほんと? なんて言うかさほら、けっこうきわどいじゃん。大人の世界って言うかさ、変態の世界って言うか」

「ほんとなんじゃない?」久々に感じる、優越感。「大人になれば、ああいう恋愛ができるんだと思う」

「カクテルの似合う恋愛?」

「そう、カクテルの似合う恋愛」

「そうかあ」麻子は、やけに満足げにうんうんとうなずいた。「わたしも、カクテルの似合う恋愛をできるようにならなきゃなあ」

 降りる駅は、近づいていた。


 硬質な木目を基調にしたバー。カウンター越しのそのひとは、ベリーショートに大きな真珠のピアスの似合うひと。

「珍しいね、麻子がお友達さん連れてくるなんてさ」

「ミオさん酷いな、なんかわたしに友達がいないみたいな言いかた」

 麻子は拗ねたように言う。違う違う、とミオさんは手を振って笑う。仲のいいらしい、ふたり。わたしはどこか白けた気持ちで、グラスの液体に口をつける。モスコミュール。確かにきれいだ、澄んだ黄色。でも、べつに、正直言ってたいしたことない。要はアルコールの入ったジンジャーエールだ。ジンジャーエールと、たいして変わりないじゃあないか。

「だって麻子、あんまり高校の子と関わりたがってなかったじゃん」

「……え、そうなんですか?」

「うん。高校の子たちは馬鹿だから嫌いだーって言って、いっつもわたしのバーに逃げ込んで来るの、この子」

「ちょ、ちょっとミオさんっ……!」

 呆然と、してしまった。麻子が? この、麻子が? 高校の子たちを馬鹿にして、つきあいたがってなかった?

 麻子はもじもじして、いたずらを告白するような上目づかいで言う。

「……ごめん。じつは、そう思ってるところもあったかも。で、でも、美砂子はとくべつだよ! だってミオさんのバーに誘うくらいだし……」

「ほら、麻子は、選別意識が抜けてない。自分をなにさまだと思ってるんかね」

 うう、とうなる麻子の表情は、あきらかに、わたしがいままで見たことのないものだった。

 ――可愛いなあ。

 ふと、そう思った。そして、そう思った自分に戸惑いをおぼえる。可愛い?

「だからさ、ちょっと意外だったんだよ。ねえ美砂子ちゃん、」

 いきなり名前を呼ばれて、はい、と答えたわたしの声は上ずっている。がちゃんとグラスを置いたから、液体が溢れ出そうになる。

「麻子って、高校でうまくやってる? 友達とか、いるのかな?」

「なに言ってんのミオさんっ、わたしほど社交性のある人間はいないよ!」

「麻子じゃなくて、美砂子ちゃんに聞いてるんだよ。ね、わたし、このひとが心配でさあ」

「麻子は、」

 わたしはいっそ、勢い込んで言う。

「麻子はすっごく友達いるし、みんなと仲いいし、ほんとうまくやってるし、うらやましくって、それでだから、わたし、誘ってもらってすごく嬉しくて……」

「やだ美砂子、酔ってる?」。

「酔ってない。本音だもん。わたしはいっつもそう思ってたのに、麻子は……」

 なにかを堪えきれなくなって、カウンターに突っ伏す。ミオさんやっぱ美砂子酔ってるっ、と麻子が慌てたように言い、その言葉の強さとは裏腹に、そっと柔らかく麻子の手が背に乗せられる。戸惑いさえ、含んでいるかのような乗せかた。暖かく、意外と小さい麻子の手。

 嘘みたいな、状況だ。

 だって、教室じゃない場所で麻子といっしょにいて。いっしょにお酒を飲んでいて、麻子の本音まで聞いちゃって。それで、背中に麻子の手が回されて。麻子が、わたしのことでおろおろと困惑してるなんて。

 なにかの、夢なのかもしれない。いまはじつは授業中で、麻子のあの黄色の蝶々の髪飾りをじっと見すぎたあまりに、麻子とお酒を飲みに行くなんてありえない夢を見ているのかもしれない。

「麻子……」

 わたしは、突っ伏したまま麻子を見上げる。麻子の、心配そうな顔。

「なにっ、水?」

「これは夢?」

「なに言ってんの、現実だよ、現実! あーなんか美砂子ほんと駄目だ、ミオさん、悪いんだけどちょっと休ませてって」

「構わない、構わない」

 言ったミオさんの声は、優しい苦笑を帯びていた。

 麻子はいつまでも、わたしをさすっていてくれた。堪らなく、幸せだった。そんなとろけるような気持ちを味わいながら、ああ、これがモスコミュールの味かあなんて脈絡もないことを思った。いや違う。この味は、麻子の味。爽やかだけど舌に絡みつくこの味は、麻子そのものの味。

 麻子が高校の子たちを馬鹿にしているような意地悪な子だったとしてもいいや、と思った。だって、麻子はわたしには優しいんだから。麻子が、わたしのとくべつでいてくれれば。


 かくして最初こそ酔いつぶれてしまったわたしだが、それからはそんなこともなく、講習のあと毎日のようにミオさんのバーに行き、麻子とお酒を楽しむようになった。カクテルというのは、じつにいろんな種類がある。赤いの、青いの、黄色いの。きれいだねって言ったら、信号みたいだよって麻子は肩をすくめた。

 ミオさんは麻子の親戚、みたいなものらしく、だから麻子は幼いころからお酒には慣れているらしい。それもどうなんだって話だけど、いいんだよって麻子は笑う。麻子の笑顔は、ずいぶんと崩れたものになった。なんて言うか、それはとってもいい意味で。教室では目を細めてていねいに口を曲げて笑うけど、ふだんの麻子はそんなことしない。どこか嘲るような目をして、ふんって笑う。親しくない人が見たら、ぜったいにいらっとするような笑いかた。でもわたしは、いらつくことなんてない。だってそれが、ほんとの麻子だから。

 教室のなかでも、わたしたちは仲よしとなった。麻子とわたし、という組み合わせに、最初周囲はおどろいたようだった。いやもっと正確に言うならば、麻子がわたしを選んだということに。でも三日もすれば、わたしたちがいつでもいっしょにいることは自然なこととなっていた。

 麻子に選ばれた。麻子のとくべつに、なれた。わたしはそのことがくすぐったくて、叫び出したいほどに嬉しかった。

 ――麻子は、わたしの運命の相手なのかも。

 そんなことまで、思った。

 でもだってじっさいそうなのだ、麻子とは異常なほどに話が合うし盛り上がるしわかり合える。ソウルメイト、って言葉があるけど、それかもねってわたしが言ったら麻子も神妙な顔でうなずいていた。

 麻子。

 教室で、電車で、ミオさんのバーで、その名を呼ぶたびにわたしは震えるような愉悦を感じた。

 わたしは、麻子に恋人の役割を求めていたのかもしれない。ほかにはだあれもいらない相手。唯一無二の、存在。


 しかしそんなわたしたちがはじめて恋愛の話をしたのは、仲よくなって一ヶ月ほど経った八月の日のことだった。

 わたしはそれまで、麻子と進んで恋愛の話をしようとは思わなかった。なんだか気まずかったからだ。なぜならわたしの恋愛対象は、おそらくは麻子なのかもしれないのだから。

 でもきっと、麻子もわかってくれてると思ってた。おそろいのハートのキーホルダーを買ったときの嬉しそうな表情、あんたらは仲がいいねとミオさんにからかわれたときの照れたような表情、ソウルメイトだねってわたしが言ったときの真剣な表情。どれをとっても、その証拠には値する。

 わたしは信じてた。麻子のことを、信じていた。

 だからミオさんのバーで麻子がこう切り出したときも、ああわたしたちの話かなと思ったくらいなのだ。

「美砂子、好きなひとっている?」

 とくん、と心が鳴った。でも緊張よりも、喜びのほうが大きかった。ああ、麻子がやっと、このことに言及してくれた。わたしは臆病だから、自分から核心に触れることはできないのだ。

 わたしは両手で、グラスを包み込む。手のなかで、ひやりと冷たさが溶ける。きょうもわたしは、モスコミュール。もっといろんなの飲みなよって麻子は言うけど、わたしはいまのところ、モスコミュールしか飲む気がない。大事なお酒。わたしと麻子を、つなげた液体。

 わたしはなんでもないふりをして、返す。笑ってさえみせて。

「なんでいきなり、そんな話?」

「前から言おうと思ってたんだ」

 麻子の、切実な瞳。その深い瞳に、さすがにすこしどぎまぎしてしまう。

「言おうと思ってた、って? なにを?」

「なんて言うか……」

 麻子は視線を泳がす。

「……そう、その、うん、だから、恋愛の話を」

「麻子、照れてる」

 わたしは麻子をからかう。もはや麻子に媚びるなんてことはありえない。わたしたちは、あくまで対等。だって麻子だって、わたしのことを好きであるはずなのだから。これはとても、大切な変化。

 わたしは先を促す。わくわくとした気持ちとともに。

「で? どういうこと?」

「うん……いや、そのままだよ。美砂子、好きな人っている?」

「まあ、それなりに」

 麻子だよ、と言うほどには、さすがにまだわたしも覚悟が決まってない。

 そっか、と麻子はため息をついた。どこか深刻なため息。あれ、とわたしはかすかな違和感をおぼえる。なんて言うか、なんかうまく言えないんだけど、麻子とわたしの向いている方向が違う気がする。だってここは、そんなため息をつくところじゃない。甘い雰囲気に、つながるべきところなのに。

 麻子の視線が、ふと動く。視線の先を辿ると、そこにはミオさんがいる。カウンターの隅に座って、こちらに背を向けなにか作業をしている。ほっそりとした背に、大きく肌の見えるタンクトップ。

「小説を、書いてるんだ」しみじみと、麻子は言った。「ミオさんはあれで、すごくデリケートな小説を書くんだよ」

 そのうっとりとしたような、なのにどこか遠い目に、いやな予感がじわっと広がった。

 まさか。

「美砂子、わたし」

 聞きたくない、と思った。

 しかし麻子は、わたしの気持ちなど知らずに微笑む。そしてあの、秘密を囁くような声で言う。

「ミオさんのことが、好きなんだ」

 その微笑みは、どこまでもどこまでも素敵で。

 わたしの胸は、一瞬にして苦しくなった。


 化粧を直す、と言って麻子は席を外した。わたしの胸は、どきどきと激しく鼓動して止まらない。身体は熱いのに、心はぐんぐんと醒めてゆく。胸に手を当て呼吸を落ち着けようとこころみるが、落ち着く気配はいっこうにしてない。

 想ってたのは、わたしだけだったというのか。

 すべて、わたしの妄想だったというのか。

 と、ミオさんが背を向けたままいきなり言った。

「あの子も馬鹿だよね」

「……え、馬鹿って、」

 ミオさんと話すとき、わたしはいつでも緊張してしまう。

「うん、馬鹿。まる聞こえだっつーの。わたしが聴いてないとでもお思いかねえ」

「じゃあミオさんは麻子の気持ちを、」

「知ってるよ」

 ミオさんは、さらっと言った。依然、背をこちらに向けたまま。

「あんなにあからさまでさあ、気づかないなんてのはそりゃないよ。それにさあの子、」

 小さく息を吐いて、ミオさんは言う。

「美砂子ちゃんの気持ち、ぜんぜん考えてない」

 突きつけられて、わたしは固まった。ああミオさんはわたしの気持ちにも気づいてたんだなあ、という気持ちと、やはりそうなのか、麻子はわたしの気持ちに気がついていないのか、という気持ちがないまぜ。

 ミオさんのハスキーな声は、悔しいほどに心の奥底に響く。

「……モスコミュールのさ、由来って知ってる?」

「由来?」

「うん。あれさ、ロシアのお酒なんだよ。モスコミュールって、モスコ・ミュールって切るの。モスコはモスクワ。ミュールは、ラバね。動物のラバ。ラバに蹴られるような辛い衝撃があるから、モスコミュールって名前になったの」

 おどろいた。だってあの甘く絡みついてくるお酒は、ぜんぜん辛くなんてなかったから。

 ミオさんは、わたしの気持ちを知っているかのように言う。

「きみらが飲んでるモスコミュールなんてね、はっきり言ってモスコミュールじゃないよ。でも、麻子にはまだ早いって思ってああいうブレンドにしてあげてんだ。それでわたしは思ったんだよ美砂子ちゃん、」

 わたしは、ごくりとつばを飲み込む。

「ほんとのモスコミュールを、飲めるような女になりな。麻子よりも先にね。わたしに取り入るために読書家の美砂子ちゃんに近づくような麻子より、あくまでも純粋な美砂子ちゃんはよっぽど早くいい女になれる素質がある」

 ミオさんはそこで、はじめて振り向いた。どこか勝ち誇ったような、笑み。

「蹴飛ばしな。美砂子ちゃん」

 失恋を励ましてくれているのだと、わたしはそこではじめて気がついた。すべての意味はわからなかったけれど、その励ましは、切実にわたしの心のなかに響いた。


 どこか上機嫌なようすで、麻子は戻ってきた。親友に秘密を告白したことで、興奮しているのかもしれない。親友、と思って再び胸がちくりとした。恋人じゃ、ない。親友。

 ミオさんは、相変わらずなにかを書きつけている。こちらを気にしてるようすは、見た感じではまったくない。

「あれ、どうかした、美砂子? なんか顔色悪いよ?」

 座りながら、麻子は言った。わたしは息を吸って、吐いて、決心して、言う。

「わたしと仲よくなったのって、ミオさんに近づくため?」

「やだ、そんなわけないじゃん」

 麻子は笑って、しかしその顔にはほんのわずかの焦りが見える。やっぱり、と絶望に沈みかけて、わたしはどうにか自分を持ち直す。

「いいんだよ、べつに。そういう不純な動機だったとしたって、わたしは麻子と仲よくなれて嬉しいし」

「ほんと? よかった」

 麻子はほっとしたように、胸を撫で下ろす。つくづく現金な子なのだ、教室では気がつかなかったけれど。そして麻子が安心したということは、わたしの予感は当たったということなのだ。残念ながら。

 麻子は、堰を切ったように話し出す。

「ほら、美砂子って大人っぽいし恋愛小説とかすごいのとかいっぱい読んでるからさあ、なんかいいアドバイスがもらえるんじゃないかなって思ったんだ。でも、予想以上だったかも。美砂子ってほんと、大人っぽいし。だからさお願い、」

 麻子は、両手を合わせて笑う。

「ミオさんとのことも、協力してよ」

「嫌だ」

 麻子は、え、と声を漏らした。あかるい表情のいっさいが、消える。

 わたしは笑って、言う。なんでもないことのように。

「わたしはミオさんと麻子をくっつけるために、麻子の隣にいるわけじゃないもん。わたしには、わたしの感情がある。ねえ知ってる麻子?」

 わたしは、ちょっと意地悪をしてみる。わたしの精一杯の、強がり。

「モスコミュールって、ほんとうは苦いんだって」

 ぽかんと口を開けて、麻子はわたしをまじまじ見てくる。こうしてみると、麻子ってあんがい子どもっぽい。でもそんな麻子も、やっぱり可愛い。

「わたしは、」

 泣きそうになるのを、必死に堪える。

「わたしは、……麻子が、好きだから」

 そして間髪入れずに、言う。

「ミオさん! モスコミュール、ください!」

 ミオさんは振り返って、にやりとする。

「甘くする? それとも思いっきり苦くする?」

「……ほんとのモスコミュールを、ください」

 それはわたしの、強がりの続き。

「かしこまりました、っと」

 ミオさんは言うと、大仰に立ち上がってシェイカーを振りはじめた。しゃかしゃかしゃか、と軽快な音が響き渡る。

 麻子は怪訝そうな顔で、聞いてくる。

「ほんとのモスコミュールってなに? いつものとは、違うの?」

「……教えてあげない」

「えっなんで、美砂子、なんでー!」

 麻子はわたしの肩を揺さぶる。酔いが回りそうだが、妙に心地いい。

「お待たせ」

 ミオさんが、だんっとグラスをわたしの前に置いた。鈍い銀色の、大きくって重たいグラス。ふだんの、きゃしゃで透明なグラスとはまったく違う。

 その重々しい液体に真剣な顔を映して、思う。

 わたしは麻子が好きだからって理由で、ずうっとモスコミュールを飲み続けていた。

 でも。

 甘い甘いモスコミュールには、もうさよなら。

 ――蹴り飛ばせ。

 わたしは思って、新しいモスコミュールに口をつけた。

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