愛子はコーヒーの海で
缶コーヒーの、基本的な用途とはなんだろう。
まあ、まず真っ先に浮かぶのは、飲むこと、だろう。当たり前すぎることかもしれない、だってコーヒーとは飲みものだから。でもわたしはひとつひとつ考察してゆきたいのだ、缶コーヒーの用途を。この季節だ、カイロ代わりに自分の手を温めたい、とか。あるいは、恋びとの手を温めたいなんてこともあるかもしれない。ロマンチックで、馬鹿げている。空き缶を集めるのが好きで、買うひともいるかもしれない。その気持ちは、わからなくもない。わたしも、ちまちまとしたものものを集めるのは、好きだ。
しかし、ざっとこんなところだろうか。缶コーヒーとは、ドリンクでありときどきカイロでありまれにコレクションであり。うん、そんなところだろう。一般人の思いつく缶コーヒーの用途なんて、しょせん。
ところがわたしは違うんだな、ひと味も、ふた味も。
どうせあいつらだって、こんなこと考えもつかないに違いない。そう思ったら、くつくつ笑いたい気持ちになった。
冬の公園、光をろくに通さない曇天のもと。
自分の誕生日会を抜け出してきたわたしは、自動販売機で温かい缶コーヒーをがちゃがちゃと買った。買っては取り出し買っては取り出し、バッグに入れた、この八つの缶はわたしの武器。
もともと、人間なんか嫌いだ。醜いし、よく嘘をつく。
でも、悲しいかな、人間というのはわたしも含め、他者とかかわらないと生きてゆけない存在だ。ひとりでいると、自分のかたちをだんだん保てなくなってゆく。それこそコーヒーみたいに、液体になって、少しずつ蒸発してしまう。あとに残るのは茶色の染みだけ。そういうものだ。
だからいままでわたしは、つとめて他者とかかわってきた。大学ではサークルに入ったし、バイトもしたし、なにかのイベントには積極的に参加してきたし……われながら、よくがんばったと、思う。人間嫌いのわたしが、人間の前でにこにこ笑っているなんて!
しかしいまさっき、おめでとうおめでとうとわたしの誕生日を祝うふりをする空虚な唇たちを見つめて、ふと気づいた。
ああ、そうか。
媚びるだけが、人間関係じゃないんだ。
嫌いなら、嫌いと叩きつければいい。
あんたらなんか、大っ嫌いだって。
べつに、あんたらがなにかしたわけじゃないよ。あんたらが、人間であるのがわるいんだ。
きょうは、わたしの誕生日会だ。高校時代からの知人が企画し、大学の先輩や元バイト先の先輩やオフ会での知り合いなど、ごった煮である。わたしを含めて、ぜんぶで八人。小さくて洒落たカフェバーを借り切って、わいわいと騒いでいる。お店の迷惑なんじゃないかってくらいに。わたしの誕生日会とか言いながら、けっきょくのところ、騒ぐ口実がほしいだけなのだこいつらは。
戻ってきたわたしに、だいじょうぶ? と声がかけられる。ずいぶん長く、席を外していたけれど、と。だいじょうぶだよ、とわたしはにこやかに返すが、だいじょうぶ? なんて聞かれるのはとても不愉快なことだ。だってここで、だいじょうぶじゃない、と返したら、いったい彼らはどんな表情をするのか。心配よりもなによりも先に、白けるのではないだろうか。
わたしの根底にあるのは、人間への不信感だ。
笑い声にはしゃぎ声。誕生日席のわたしを中心に起こるそれら。ああうるさい、うっとうしい。
カラフルな料理の残りかすを見つめながら、あははと読み上げるように笑っていると、きょうのメインである、誕生日ケーキが運ばれて来た。店に追加料金を払って、あらかじめ用意してもらっていた、型どおりの誕生日ケーキ。だれが注文しても、おなじものが出てくる誕生日ケーキ。
「えー、宴もたけなわということで」
わたしの誕生日会を企画した、高校時代の知人が場を仕切る。目立ちたがりのはしゃぎたがりな彼女。目ばかりぐりぐり大きくて。
「誕生日ケーキが、やってまいりました!」
拍手が起こる。きょういちにちで、わたしの知り合いたちはずいぶんと仲よくなったみたいだ。よかったね、と吐き捨てたくなる。
彼らはハッピーバースデーの歌をうたいはじめる。ある者は身体を揺らし、ある者は手拍子をして、じつに楽しそうに。
♪ハッピーバースデー あいこー
ハッピーバースデー あいこー
わたしはろうそくの火を見つめて思う、愛子なんて、愛子だなんて、わたしにいちばん似合わない名前だ。運命とは、皮肉なものだ。人間を愛せないわたしが、愛子だなんて。
調子のまるで合ってないその歌を聴きながら、わたしは思う。
いよいよ、だ。
「おめでとう!」
歌が終わり、ひゅうひゅう、と口笛が飛んでくる。だれもがいま、わたしに火を吹き消すことを期待していた。わたしは満面の笑顔をつくり、口を開く。
「ありがとう」
そして立ち上がり、バッグから缶コーヒーを取り出し、素早く栓を開けると、誕生日ケーキに半分ほどその中身を注いだ。火はあっというまに消え、ケーキは茶色にぐんにゃりとする。
人間たちが、固まる。
「……そ、それってなんかの余興、愛子?」
高校時代の知人が、おそるおそる、という感じで言った。しかし、その表情はこわばっている。理解できないものを見るまなざし。
わたしは笑顔のまま、つぎの缶コーヒーを取り出して、彼女にぶっかけた。自慢の金髪が、茶色に汚れる。
彼女は最初きょとんとし、つぎに驚き、そしてついには怒りをあらわにした。
「……ちょっと、なにすんのよ!」
いきり立つ彼女は無視して、わたしはわたしを口々に咎めるほかの人間たちにもつぎつぎとコーヒーをかけてゆく。いち、にい、さん、とこころのなかで数をかぞえながら。茶色く染まってゆく彼ら。
場は、奇妙に静まりかえる。わたしは、もはや無表情だった。
ぐったりとしてまずそうなケーキを冷たく見下ろし、わたしは最後の缶コーヒーを手にとる。それは、ケーキにかけて残しておいた缶コーヒーだった。
人間が店員を呼ぶ声が、遠い。人間が怒り狂う声が、遠い。わたしだけ、水のなかにいるみたい。ううん、わたしはきっといま、コーヒーのなかにいる。コーヒーに溺れて、もう、清潔になることはできない。
わたしは――自分の頭に、コーヒーをぶっかけた。
砂糖いっぱいのコーヒーは、甘ったるく、しかしそのなかにきちんと苦みもあった。わたしはこの味のなかで生きてゆくんだ、これからは、と思った。
わたしは、ずっと、蹂躙したかった。
人間を、めちゃくちゃに蹂躙したかった。
二十歳の誕生日――。
わたし、愛子は、コーヒーの海へ飛び込んだ。
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