彫刻刀の密約

 半透明に紅色べにいろな、教室に沈んで思考する。

 あの子のことが私は嫌い、ほんとにほんとに大っ嫌い。目ぇくりっくりさせちゃってさぁ髪の毛ふわっふわさせちゃってさぁ、平和な顔して呑気な顔していつでものんびり笑ってて、嫌、嫌、嫌、委員長やってるからって調子乗らないでよって、言いたい、でも言えない、でも言いたいとても言いたいあんたなんか価値ないんだって大っ嫌いだってここにあんたを嫌っている人間が確かにひとり存在するざまぁみろ!って言ってやりたい大っ嫌い大っ嫌い大っ嫌いほんっとむしゃくしゃする、ほんと嫌だ嫌だ嫌だ、

「……嫌い」

 私はしずかに呟いた。

 黒板を背に、私は彼女の机を見下ろしている。彼女の机には、落書きひとつない。窓から射し込む夕陽を反射して、ぴかぴかに輝いている。それがまた彼女を象徴しているようで、不快だ。

 ぎゅっと、右手に力を込める。すっかり生暖かくなってしまったそれは、鋭く尖る彫刻刀。彼女の心を傷つけるための、武器。

 机の木目と睨み合う。吹奏楽部の無駄に明るい音楽や野球部の無駄に元気なかけ声や、聞こえてくるのだけれどそれらはぜんぶ遠いもの。膜を通したみたいにくぐもって聞こえる。生々しい音と言えば、私の心臓の鼓動くらいだ。

 とく、とく、とく、とく。

 私はもう一度、右手に力を込める。

 いっちゃえばいい。ばってんでも描いてやればいい、あんたに悪意をもってる人間がここにいる! って知らしめてやればいい。あんたは確かに優等生だ、委員長やって写真部の部長やって書道コンクールでは賞をとってクラスのだれとも仲がよくって愛想よくって容姿だってまあ悪くなくって、でも、私はあんたが嫌い大っ嫌い、毒のないあんたが嫌い、空はいつでも青くって人はだれでも話せばわかりあえると信じ込んでいるような、まっさらで白いあんたが嫌い。

 彼女の、あの目を、思い出す。――するともう、感情は収まりがつかない。

 経験してみりゃ、いいのよ。

 人に嫌われるってことを、一度経験してみりゃいいのよ。

「あんたなんかっ……!」

 私は、右手を思いっ切り振り下ろした。

 と、ぱしゃり、と間抜けな音がした。……ぱしゃり?

 あたしは咄嗟に振り向く。すると、

「見ぃちゃったぁ」

 そこには、彼女がいた。カメラを片手に、この上なく愉しそうに笑って。


「さぁて、動機はなんでしょう」

「……ねぇ。これなんのつもり?」

「警察ごっこ」

 彼女は教卓の上に座っている。教卓の椅子に座っているのではない、教卓そのものに腰かけているのだ。つまり黒板の正面の椅子に座っている私は、彼女を見上げるかたちになる。足を組んで偉っそうに私を見下ろすその体勢、じつに不愉快。

 しかも。

「……警察って、人のこと縄で縛るっけ?」

「愉しいからいいじゃん」

 いや私は愉しくないまったくもって。

 あろうことか、私は両手を拘束されていた。後ろ手に、縄で縛られているのだ。彼女の存在に気がつき驚き立ち尽くす私につかつかと近づいて、彼女は一瞬にして私の両手を背中に回し、一瞬のうちに縄で縛りつけてしまった。そして平然とドアを閉め、中から鍵をかけてしまった。私のなかの彼女のイメージは、見事に音をたてて崩壊中。

「ねぇこれ、趣味なの? 馬鹿なの? 変態なの?」

「二番め以外は肯定してもいいかなぁ」

「いや馬鹿でしょ」

「馬鹿じゃないよぉ」

 ふわっと笑うその顔は、いつもの顔と似ているようでなにかが違った。ああ、そうかと次の瞬間私は気がつく。目が、笑っているのだ。それはそれは、愉しそうに。

「――とりあえず。これ、外しなさいよ。話はそれから。おかしいでしょこれ常識的に考えて。異常事態でしょそれこそ警察呼ぶような事態よ」

「主導権はあたしにあるんだよ」

 彼女は、嬉しそうに目を細める。

「さっきの場面、ばっちり写真に撮っちゃったもんね。ほら」

 彼女は、胸ポケットから一枚の写真を取り出した。そこには確かに、私が写っていた。憎々しげな表情で、刃物を思い切り彼女の机に当てている私が。

百合ゆりちゃんって優等生だもんね。推薦狙ってるんでしょ、知ってるよ? でも、あたしがこれ持って先生に泣きついたらどうなるかなぁ」

 私はくっと唇を噛む。ああもう、やられた。

 彼女はにこっと笑う。

「さぁて話の続きをしましょ。動機はなんですか?」

「あんたのことが嫌いなのよ」

 私は彼女と目を合わせずに、言う。そして今度は彼女の目を真っ正面から見据えて、言う。

「はっきり言って、嫌い。大っ嫌い。いつでも平和呆けしたような顔して、愛想ばっかよくてへらへらしてて。見ててむかつく、苛つく。なんでそんなにきれいでいられるの」

「百合ちゃんさぁ、馬鹿?」

 いつもの調子で言ったから、え、と私は思わず聞き返してしまった。

 彼女は、満面の笑顔で続ける。

「あんなん演技に決まってるじゃん。便宜を図ってるに過ぎないよ。便利じゃん、暮らすのにさ。でもじっさいは違うのです、」

 目の前に、銀色の光。

 彼女が私の鼻先に、カッターナイフを突きつけたのだった。私は、ごくりと唾を飲む。

「あたしは狂人で変態で、常軌を逸しているのです」

「ねえ、それ、不愉快だから、しまってくれる?」

 銀色の光は遠ざかり、鼻のあたりの違和感も消えた。思わずほっと、息を吐く。

「こわいの?」

 彼女は、哂った。笑ったのではなく哂った、私の前ではじめて哂った。

 それは、彼女の、ほんとうの表情だった。

「……そうやってさ、」

 私は荒い息のなかから、言う。

「そうやって、堂々と人を見下してればいいのよ。あんなむかつく笑顔の端から、ちょろっと覗かせるんじゃなくて。そうやって、いつでも性格悪ければまだゆるせるのに」

 あはは、と彼女は笑った。そして窓の外を眺めて、たそがれるように話す。

「うーん、それ、でも無理かなぁ……こわいもん。人に縄かけるのが趣味だって言って、受け容れてもらえると思う?」

「無理ね」

「でしょ?」

 彼女はくすくすと笑う。そして私のほうを見て、ふいに真面目な声で言う。

「百合ちゃんと、ちゃんと話せてよかった」

「いささか強引な感じは否めないけれど」

「ごめんね、怒らないで。だってさぁあたし、百合ちゃんと――副委員長と、仲よくなりたかったんだもん」

 私は、黙った。

 そう、教室のなかでの日常において、私と彼女はずいぶんと近しい位置にいる。彼女は委員長、私は副委員長。一学期から引き継いで二学期のいまに至るから、けっこうな付き合いだ。ふたりきりで学校に残ることも、まれではない。

 なのに、私と彼女は、きちんと話したことがなかった。互いにいつでも愛想笑いの仮面で自分を隠して、明るいだけで意味のない言葉を喋り散らしていた。ただ、間を埋めるためだけに。

 つまりは、空虚な関係だったのだ。

「……舞ちゃん」

 私は彼女の名を呼ぶ。

「ごめん」

「いいよ、お互いさま。だってあたし、」

 言うと、彼女はスカートのポケットから缶を取り出した。……スプレー?

「きょう、百合ちゃんの机に落書きしようと思って来たんだし」

「……私の謝罪を返して」

「いやぁ、いっかい言った言葉っていうのは戻らないでしょ」

 一瞬の、間。

 そして私たちは、なにかが爆発したように笑い始めた。おかしかった。ただひたすらに、おかしかった。彼女を恨んでたこの半年とか彫刻刀を持ったあの切羽詰まった気持ちとか縄を嵌められてるとかいうこの異常事態とか、なんかもう、すべてがおかしかった。

 私たちの笑い声は、紅色の教室で次々と弾けた。こんなにも笑ったのは、ずいぶん久しぶりだった。


「おはよう、まいちゃん」

「おはよう、百合ちゃん」

 教室に入った私は、先に教室に来ていた彼女といつものやりとりを交わす。いままでなら、ここで会話が終わるところだが。私はあくまで外向き用の笑顔を崩さないまま、言う。

「きのうはありがとう舞ちゃん。身体が動かせるっていう自由の有り難みを教えてくれたのね。ほんっとにありがとう」

「ううんどういたしまして百合ちゃん。ちょっとでもお役に立てたならよかったよ」

 彼女も、外向き用の笑顔を決して崩さない。でもその目を見れば、愉しんでいることがわかる。

 彼女の机の隅っこには、彫刻刀の跡がある。私と彼女だけが知る小さな傷。小さいけれど、決定的な傷。私の、感情のあかし。彼女との、関係性のしるし。

 そして、自分の手首を見る。すこしだけ、赤い。縄の跡が、かすかに、でも確かに残っている。

 ――彼女には、これ以上の傷を返さなければならない。

 私は、なんてことない社交辞令のように言う。

「……いつかお返ししなきゃね。愉しみに、待ってて」

「――うん。愉しみにしてるよ」

 彼女は、自信たっぷりに微笑んだ。

 教室はいつも通り、明るくざわめいている。そのなかで密やかに交わされた約束を、私と彼女以外のだれも知るよしがなかった。

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