郷愁

 懐かしさと戸惑いに立ち尽くした。

 それは相手も同じらしく、口をぽかんと開けたまま私をぼんやりと見ていた。私たちの間をせわしなく人々が通り過ぎていく。そんなに急いでどこに行くのだろう、と私は思ってしまうけれど、彼らはきっと行くべきところが沢山あるのだ。私のような暇人とは違うのだ。

 そのようなぎこちない間のあと、彼は笑って手を上げた。

「久しぶり」

 私はただ頷くことしかできなかった。私は確かにここ、今春受かって、そして一ヶ月ばかり通った大学のキャンパスにいる。そこに彼がいるというのは何だかとても不自然な気がした。もちろん可能性としては彼が私と同じ大学に来ることだって十分にありえる。しかし彼は私の中で過去だった。今この瞬間、過去と現在が、奇妙な糸で繋がっている。

 彼が少しずつ私のほうに歩み寄ってくる。私もおそるおそる足を出す。

 微妙な距離を、私たちは埋めていく。人々の間を縫いながら。


 喫茶店は落ち着いたものだった。もちろんそれなりには騒がしいのだが、決して耳障りなものではなく、それは塵のように空中に舞っているだけだった。どこからかオペラが流れていた。

「久しぶりだね」

 彼は話が途切れるたび、そう繰り返してコーヒーを啜るのだ。ここのコーヒーは苦すぎて、私はブラックでは飲めない。注文するときそう言ったら、彼「相変わらず苦いのはだめなんだな」と笑った。おかげで、少しだけ私の強張った力が抜けた。

「まさか、ここで会うなんて思ってもみなかった。結局、上京したのね?」

「ああ、うん。やっぱり、大学は東京がいいしね、一生に一度は、東京暮らしをしてみたいよ」

「ああ、わかる」

「本当に久しぶりだなぁ」

 彼は再びコーヒーに口をつける。私はミルクと砂糖たっぷりの紅茶を飲む。大学の中にあるこの喫茶店のメニューはあんまり美味しくないけれど、音楽の趣味があうので気に入っている。

「学部は?」

「経済学部」

「へえ、すごい」

「法学部か経済学部じゃないと、親が一人暮らし許してくれなくってさ」

 私は頷いた。

美紀みきは? 何学部なの?」

「文学部」

「ふうん」

 彼は何回か頷いた。

「昔っから、本とか好きだったもんな、そういえば。いつも本を読んでた記憶があるよ」

「そうだったかしら?」

「うん。図書室の利用も一番だったし」

「中学生にもなって野山で駈けずりまわっているほうが私には信じられなかったわ」

「やっぱり相変わらず」

 彼は声をたてて笑った。

 歳をとった、と言ったら怒るだろうか。成長した、ではない、彼はただ、歳をとった。もともと大人っぽかった顔立ち自体はそんなに変わっていないのだけれど、雰囲気が、まなざしが、変わった。くせだった貧乏ゆすりはぴたりと止まったし、人の目を見て話すようになった。

 それに昔だったら、彼はむきになって、「美紀も外で遊べよ」とかなんとか言っただろう。私が紅茶を頼めば、「コーヒーはブラックに決まってんじゃん」などと誇らしげに言ったろう。

 私は首を振った。馬鹿なことを考えるな、当たり前だ、私たちはもう子供ではない。

「どう、こっちの暮らしは?」

 彼は頬杖をついて訊いた。

「ん……なかなかいいところよ。すごく便利だしね、電車はあるし、美味しいものはあるし、でも、まわりの風景に山が無いのだけが、」

 寂しいかもね、と言いかけて止めた。私はもうあの町とは関係ない。今更郷愁などに浸るのは滑稽でしかない。

 彼は黙って「そっか」と言った。深く追求をしてこない。ああやっぱり私たちはもう大人で、昔みたいにちょっとでも何か感づいたら相談しあって、全てを言ってしまう関係ではないんだなぁと思ったら、紅茶の水っぽさが染みた。

 山で遊ぶのなんて大嫌いだった。ご近所さんの馴れ馴れしさも、老人特有の方言も、開かずの踏み切りも、町にひとつしかない寂れた映画館もシャッター商店街も、すべてが好きになれなかった。

 ただ、景色だけは好きだった。少し早く起きた朝、ふと窓の外を見ると、鮮やかな紅の光が、山のシルエットを形作っている。鏡のように空をうつす川は、のびのびと蛇行していた。そしてそういう日は、山のてっぺんに毅然と聳え立つ観音像と、決まって目が合った。誰に言っても信じてもらえなかったけれど、確かに私は観音様と目が合ったのだ。

 でもこんなことを思い始めたのは、中学を卒業して東京に出てきてからだ。いくらきれいな景色とおいしい空気があるからって、私はそれ以上にあの町が嫌いだったのだ。だから離れた。今更懐かしがる理由は無い。実際私にとっては、雑然として尚整然としたこの街のほうが生きやすいのだ。

 ふと視線を現実に戻すと、彼は穏やかな表情でコーヒーカップを見つめていた。

「ごめんなさい、何だか物思いにふけっちゃって……」

「気にしないで」

 彼は柔らかく微笑んだ。昔の彼なら、絶対にこんな表情はしなかった。

 オペラが流れている。人々が人生の素晴らしさを歌い上げている。


 一時間ほどゆったりと話して、私たちは別れることにした。

 メールアドレスを交換する。でも、互いに携帯の電話番号は教えないし、聞かない。

 広場のベンチの前まで、一緒に歩く。小鳥がさえずっていた。私と同年代の人々がそれぞれに歩んでいた。いつも通りの、のどかなキャンパスだった。

「俺、結婚するんだ」

 なんでもないことのように言った彼の口調に一瞬「ふうん」と返事をして、一拍置いて意味を呑みこんだ。

「結婚? 誰と?」

「あの子のこと、覚えてるかな。ほら、俺と同じ高校に進んだ」

 名前をきくと、その子のことなら確かに覚えていた。彼とともに、私の知らない地元での三年間を過ごした子だ。

「俺、あの子と一緒に上京してきたんだ。だから……」

 続きは聞かなくても十分だった。広場まで、あと少し。私たちは子供のころ確かに親密だった。しかし大人である私たちは、初対面。

 もうすぐ、過去の人と過ごす時間も終わる。

 私たちは無言で歩いた。手を伸ばしても触れられない距離を置きながら。

 からすが大きく鳴いたころに、私たちは広場に着いた。

「じゃあ」

 彼は立ち止まった。彼はこれから授業があるらしい。私は黙って頷いた。私は、じゃあまた、と言って背中を向けた。

「あ、そうだ、ひとつだけ」

 私は振り返る。引き止めるように言ったくせに、彼は何かを逡巡しているようだった。目が泳いでいる。そんな彼を見て、ああ彼はやっぱり彼なんだなぁと当たり前のことを実感して、なんだか奇妙に嬉しくなった。

「……言葉づかい、変わったな。方言、無いな」

 私は口の端で微笑んだ。

「みんな大人になるのよ。……それに、それはあなたもでしょう」

 感情を埋め込んでそう言ったあと、図書館へ向けて歩き出した。一生言わないだろう、私が東京に来た際の唯一の後悔は彼だった、だなんて。

 東京の空は狭く、美しかった。私はここで生きていく。



あとがき

 郷愁が好きだ。世にある様々な小説にもそれは少なからずあらわれている。それは田舎者の特権でもあるのだろう。

 生まれ、育ち、慣れ、捨て、戻る——物理的な問題ではなく、精神的に。故郷というものは、きっとこういうものなのだと思う。


           平成二十年十月六日 掛川

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