ボール

 ボールは弾む。飛ぶし、駆けるし、跳ねる。沢山のボールが戯れあっている姿は、不思議と美しい。球体が、空気に絵を描く美しさ。

 試合をする彼らに加わるわけでもなく、私はぼんやりと体育館のステージに足を投げ出して座っている。たまにボールが私のそばに飛んでくるので、そのときは返してやる。でもそれ以外は、ひたすらボールを眺めている。

 球体はきれいだ。完成されたそれを見ると、完璧、その言葉がひたすらに似合う、そんな気がしてならない。

 私はボールが見たいだけ。ボールが舞っているのを見られればあとのことはどうでもいい、試合をしている人間なんてボールの付属品だ。自由に舞うボールが、人間を躍らせているのだろう。

 そう、私はボールが見たいだけなのに。

桂木かつらぎさんって、体育館来たりするんだぁ」

 クラスメイトが笑いを張り付かせてやってくる。脇にはボール。ボールを無碍に扱うな。

「なんか、似合わないね。いっつも本読んでるし、休み時間図書室とかいるんじゃないかと思ってた」

 そしてにっこり笑う、

「ちょっと、ここにいるとボールとか当たって危ないかもしれないよ。あっそうだ、図書室とか、人、少ないんじゃない? 行ってみれば?」

 そして私はあっさりと追い出された。

 そのとおり、私には体育館なんか似合わない。私に似合うのは、図書室なのだろう。古い空気をいっぱいに吸った本を、ほこりっぽい本棚の間でめくっているのが、確かに本性ではある。

 いつだったか、同じことを言ったやつがいた。

『お前、体育館とか似合わねぇな』

 今とはまったく違う動機で体育館に通っていた日々を思い出して、今更のように唇を噛んだ。


 かつて通っていた中学校でも、昼休みに体育館は開放されていた。給食を食べ終えると、クラスの元気なやつらは一斉に体育館に向かう。

 私はどうにも引っ込み思案で、友達がいなかった。だから休み時間は教室で文庫本を読んでいた。図書室は行きたくなかった、あそこは生徒のたむろ場になっているから。ちょうど時期は冬で、図書室はストーブが効いて暖かかったのだ。

 クラスでは地味な変わり者で通っていた。暇なときに私をからかってくる子もいたくらいに、私の地位は低かった。笑い話だろう。そんな生徒が、クラス一スポーツのできる男子生徒に憧れていたなんて。彼の席は、私のすぐ前だった。彼の手からプリントが回ってくるたび、授業中机にうつぶせになって寝ているのを見るたび、私は心臓の鼓動が誰かに聞かれていやしないかと心配になった。

 私がよくいる中学生であったのと同様に、彼もよくいる中学生だった。ただ、私とはタイプが正反対。勉強はあんまりできないけれど、明るくて、頭の回転が速くて、人付き合いがうまい、彼はそんな中学生だった。

 思えば私の恋は、前の席になった彼が『よろしくな』と微笑みかけてきたときから始まったのかもしれない。そんなのは社交辞令だなんて、当たり前のこともわからなかったから。


 幼かった。無知だった。だからこそ怖いものなんてなかった。実際私はクラスの孤独さえも怖いと感じていなかった。だから彼と席が近くになってから一週間して、私はふらふらと体育館に向かった。私が制服のまま体育館に入ったときに向けられた、何人かの不思議そうな視線も気にせずに。

 私はステージの端っこに座って、友達とバレーボールの試合をやっている彼を凝視した。彼が動けば彼を目で追った。彼が点を入れれば微笑んだ。自分の怪しさに気づくこともなく。

 一ヶ月目、春の匂いが空気に混じり始めたころ、彼は私に目を合わせずに言った。

『お前、体育館とか似合わねぇな。なんだか、大人しそうだし』

 鈍感な私が他人の拒絶をありありと感じたのは、そのときが初めてだった。


 球体の美しさに気がついたのは、中学を卒業してからだった。本は完璧じゃない。本は人間が書いているからだ。人間は完璧じゃない。しかし球体は完璧だった。

 結局はこれもこじつけなのだろう。私は体育館に憧憬していた。そして今も憧憬している。

 体育館の似合う人間になりたかった。今でも夢の中でボールの音を聞いている。



あとがき

 でも実際完璧な円って存在しないって聞きました、イデア界、イデア界にならあると思う、完璧な球体。なんかその時点でこの子は勘違いしてた。私も勘違いしてた。

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