高1

ライカ犬

 よくライカ犬のことを思い出す。衛星スプートニク号にひとり乗せられ無限の宇宙を眺めていたライカ犬を。

 真っ暗な中にいた彼女なら、私をわかってくれるだろうか。そんなのおこがましいだろうか。宇宙でひとりぼっちの孤独に比べればかわいいものだと笑われるかもしれない。

 いったい私はどこまでひとりになれるのだろう。


 橙色が湿った匂いのする講堂はついさっきとは違って静まり返っていた。演劇部の活動のあと傘を教室に忘れたことに気がついて、待っててくれる?とみんなに言った。でもやっぱり待ってくれなかった。小さな黒い滴が一滴振ってきた。

 荷物をまとめて外に出ると、彼らは楽しそうにおしゃべりをしていた。知り合いのネタとか、アニメのこととか。私が来たことに一瞬みんな気がつかないで、一泊置いて「おかえり」と言われた。

 なんてことのない商店街を、集団の一番うしろにくっついて歩いた。集団の前半分は笑い声、私はどこまでも静か。壁だ。壁がある。透明で薄くて向こうのことがよく見えるのにとても頑丈で、蹴っても叩いても壊れない。私がひとりぼっちでも誰も気にとめない。結局自分が一番可愛いんだもんねぇ、っていうのは私の演じる人物の台詞だ。

 左を見ると八百屋があって、右を見ると魚屋があって、興味なんかないのにいつもしんがりを歩いてきょろきょろしているものだから、すっかり覚えてしまった。

 前では相変わらず下らない会話が繰り返される。何も産み出さない、どこへもいけない会話。でも会話なんてえてしてそんなものなのかもしれない。下らないことを下らなく喋って下らない共感を得て下らなく笑う。それとも彼らにとってはああいうことこそ重要なことなのかもしれない。

 友達なんかいらない。本気でそう思ってきた。中学の後半一年半はそれを貫き通した。だって下らない話なんて必要ないから。私はそんなの欲してない。私が求めているのはつながりだけ。つながりがあれば、互いにずっと黙っていたってかまわない。黙っていたって、黙っているからこそわかることがあるから。

 だけど教室での休み時間は自分のまわりに高い高い壁を作ってうつぶせになるしかなかった。私の壁は、高いくせにずいぶんもろい。誰かが話しかけてきたら有頂天になって、それがすぐにネタで話しかけたんだとわかって、何回も笑い顔が強張った。どうでもいいことではしゃぎまわる彼らをうらやましいと思ったのは本音だった。

 だから高校に来た。下らなくてどうでもいいことで大声で笑う人間になろう、と決心した。きっとそうしたら世界が違って見えるはず、きらめきを帯びるはず。いっぱい話しかけた。会話もした。

 でも、なにも面白くなんかない。友人が笑いながら勢いよく喋る話は、えっどこで笑えばいいの?と真剣に思うし、演劇部で盛り上がるときはああここで笑えばいいんだなってわかるから笑うふりをするけど、お腹から笑いはこみ上げてこないし、心の中はしらけている。

 そもそも私は滅多に笑わない。口角を上げることは結構あるけど、そういうのじゃなくて、こう、声を出して笑わない。面白いと感じられない。だから私の笑い声は空虚に響く。変に甲高くて、硬くて、強張っている。

「無理して笑ってるのよくわかる」と演劇部の誰だっけ、誰だかに言われた。結構するどいんだ。

 普通になりたい。普通に普通のことで面白いと思えて、笑えて、感情があって、普通に、普通でいいんだ、私は何も特別なことなんか何も求めてない、普通に笑いたい、笑いたいのに笑えないし、何も面白いことなんかなくて心には黒い滴がたまっていく、黒い滴はどんどん粘り気を帯びて私の心臓にまとわりつく、ねばつくし、とれないし、全身を覆っていく。

 どうして私はこんななのか。

 夕暮れの騒々しい商店街の真ん中で私はひとりだった。


 私だけ上りの電車でみんなは下りの電車。そのことすらすっかり忘れているようで、みんなは私に挨拶もせずさっさと階段を降りていってしまった。

 ゆっくり、階段を踏みしめる。靴とコンクリートが触れ合って、硬質な音をたてる。昔なら音の色がわかった。音の色がわからなくなったのは何もかも面白くないと思い始めたころとちょうど重なる。そのときから音楽の世界は空虚になった。だから真っ白な音をきく。真っ白な音が、かつん、かつん、と反響する。

 ホームの向こう側にはみんながいた。とても楽しそうに喋っている。別世界だなぁ、と思いながら見ていると、ひとりが気がついて、思いっきり手を振ってきた。私も笑顔で振り返す。優しいんだなぁ。

「まもなく、二番線に電車がまいります。黄色い線の内側に、下がってお待ちください」

 説明は長くなるからはぶくけれど、人間って死ぬとは限らないんだ、肉体は死ぬけど、実際精神は生きているのかもしれないんだ、そんなのわからない、もしかしたら、もっといい世界が広がっているのかもしれない。そこでは私は普通に笑えて、みんなとの壁なんかなくて、毎日楽しいのかもしれない。

 電車の頭が見えた。黄色い線を踏み越える。

 神様、私は死んでもいいでしょうか。

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