スプリングハズカム
春はいったい、どこからやってくるのだろう。
どんよりと重たかった空は鮮やかな水色に変わり、沈黙していた草花は一斉に明るい色を見せる。
昔、この童謡が大好きだった。
――春が来た、春が来た、どこに来た。山に来た、里に来た、野にも来た。
長閑なメロディと、この歌が生み出す美しい春のイメージが好きだった。
でも、今は複雑な気持ちでこの歌のことを考えてしまう。だって私は山も里も野も、生まれてから数えるほどしか見たことがない。……春が来た、春が来た、どこに来た。街に来た……とは、絶対に続かないのだ。
はたして鮮やかな春というのは田舎の子の特権なのだろうかと、平和であるはずの童謡を曲解し深読みしてしまい、自分でも、馬鹿だな、と思う。
そして多分それは、私の心が荒んでいるから。今日も
電話ごしに、美紗子は黙った。呼吸の音だけが微かに聞こえた。沈黙に耐え切れず、私は再び、ごめん、と言う。
「みいは昔からそうだよね」
美紗子は、ぽつり、と言葉を零した。初めて出会った、小学校三年生のときからそう。美紗子は静かに、言葉を選んで、ゆっくり話す。
「私は今日の美術館、すごく楽しみにしていた。五分前に支度し終わって、紅茶を飲んでいた。そこにみいから、今日行けない、なんて電話がかかってきた。……みいは昔からそうだよね。すぐに人との約束を、断っちゃうの」
あくまでも淡々と私を責める美紗子に、なんだか私は腹が立ってきた。悪いのは私だと、わかっていても。それにもう時間が無いのだ。優ちゃんたちとの待ち合わせ場所に行かなければならない。
「もう少し確実な日を選ぶとか、そういうことって、できなかったのかな。ずっと前から、今日のことは約束していたじゃない。それに、今回だけじゃないよ。みいは何回も、そういうことしてる」
まるで教師が、生徒に教え諭すような口ぶり。確かに約束を破ったのは悪い。でも、もう少し、寛大になってくれたっていいじゃないか。自分のしたことは棚に上げて、私は心の中で美紗子をけなし始める。だいたい美紗子は暗いのだ。休み時間だってじっと本を読んでいて、笑顔もあんまり見せないで。
美紗子のお説教じみた文句が途切れたときに、私は自分でも信じられないほどに低く落ち着いた声で言った。
「だから、美紗子は嫌われるんだよ」
そして一方的に電話を切った。私はそのまま上着を羽織って、バックを持って、鏡で髪の毛を整えて、家を出た。平然と、いつもの通りにそれらの動作は行われたのに、頭の中は真っ白だった。自分の言ったこととしてしまったことが信じられなくて、混乱していた。
優ちゃんたちとは一緒にハンバーガーを食べ、プリクラを撮り、服を見てまわった。優ちゃんたちが笑うときは私も一緒に笑ったが、心はそこにあらず、だった。美紗子の声が、頭から離れなかった。
帰宅するとすぐに、美紗子の携帯電話の番号をダイヤルした。何回か呼び出し音が鳴るが、美紗子は出なかった。
なんてことをしてしまったんだろうと、私は自身に呆れ愕然とした。美紗子はひそかに、自分が人とうまく付き合っていけないことを気にしている。私は美紗子の一番デリケートな部分を知っているのに、それを容赦なく踏み潰したのだ。もとはといえば、私に非があるというのに。
昨日は一日中、美紗子のことを気にして過ごした。でも声はかけられなかった。美紗子の纏う雰囲気が、普段と比べて余りにも冷たく排他的な気がして。今日も、私は美紗子ばかり気にしながら、優ちゃんたちと声をたてて笑っていた。
喉の奥に鉛が詰まっている気分だった。どんなに笑っていても、どんなに寛いでいても、美紗子のことが頭から離れない。
私は学生かばんを背負いなおした。やけに軽い学生かばん。中に教科書なんてほとんど入っていなくて、雑誌と、携帯電話と、プリクラ帳が幅をきかせている。背負いなおすと、ことん、と携帯電話が揺れる音がした。
まだ日は高い。放課後のおしゃべりをする優ちゃんたちの誘いを断って、私は教室をあとにした。美紗子の下駄箱をのぞくと、既に下校したあとだった。
コンクリートで固められた道を歩く。いつもの通学路。それを逆から辿る、いつもの帰り道。いつもなら美紗子と共に歩く道。この三叉路を、左に曲がれば私の家。右に曲がれば美紗子の家。まっすぐ行けば、河川敷に出る。
左に曲がりかけて、唐突にひとつの思い出が蘇ってきた。まだ小学生だった頃のことだ。私と美紗子は帰り道のお喋りだけでは飽き足らず、かといってこの三叉路でずっと立ち話をするのも何だか恥ずかしくて、よく河川敷まで足を運んだものだった。でもその日、私は早く家に帰ってだらだらしたくて、お喋りするなら家でしようと美紗子を誘った。美紗子は一瞬黙って、
――河川敷には、行かないの。
と、呟くように言った。
――なんとなく、面倒くさいっていうか……いいじゃん。家、おいでよ。
美紗子はしばらく俯いて何かを考えているようだったが、唐突に、
――帰る。
と言って、背中を向けてしまった。
私はびっくりして、その意外と頼りなさげな背中に揺れる真っ赤なランドセルを、呆然と見送っていた。
そこで記憶は途切れている。
あとでこの出来事の理由を訊いたら、美紗子にしては珍しく、恥ずかしそうに答えた。
――二人で、河川敷で喋るのが気に入っていたの。なんだかささやかな秘密みたいで。でも、みいはそんなに、そういうこと、こだわってないんだなって思ったから。
まったく美紗子は、感情表現が下手なのだ。
あのとき美紗子に感じた、強い愛おしさをくっきりと思い出したくて、私は河川敷のほうへと歩き始めた。
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