馬鹿の話

 自分が馬鹿だと気がついた経緯について話そう。

 例えば幼稚園のころこんなことがあった。みんなでかくれんぼをする。私が鬼になる。十数えて探しに行く。しかし誰も見つからない。気がついたらみんな幼稚園の建物に入っていて、私は半べそをかきながらみんなを探しているところを先生に保護された。

 小学校のころはこんなことがあった。好きな男の子が初めてできた。そのころ私は自分という人間をまだよく知らなかったので、無謀にも告白をすることにした。友達に相談して、彼を呼び出してもらった。静かな場所で二人きりで告白。二人きりのつもりだった。「好きです」勇気を出してそう言った瞬間あちこちからクラスメイトたちが飛び出してはやし立てた。「ゴリラに告られた! ゴリラに告られた!」私は影でゴリラと呼ばれていたことを初めて知った。

 中学校のころ私は道化を演じた。自分の本心を、矮小で卑屈でそのうえ尊大で自己否定と自己肯定に揺れ動いている自我を必死に偽装しようとしたからだ。要するに馬鹿にされることで、自分のことをわけのわからない人間だと周囲に思わせ自分自身を隠そうとした。何を言われてもひたすら笑った。おどけたりもした。しかしそれほど受けなかった。私には笑いの才能もなかった。

 そうすることでだんだん「自分から見た自分」と「周囲から見られている自分」が乖離していくことに気がついた。「自分から見た自分」と「周囲から見られている自分」とのギャップに苦しむようになった。自らそうなるように仕向けたにもかかわらずだ。

 中学三年生の春一ヶ月ほど私は体調を崩して学校に行けなくなった。自分をはじめて客観的に見つめて、実際自分は賢くもなんともないただの馬鹿であることに気がついてしまったからだ。私は毎日眠って過ごした。そして学校に復帰したとき、私は道化ではなくなっていた。誰とも話さない、話せない人間となっていた。もう今は、怖くて道化などできない。

 やはりうまく文章が書けない。その他にも色々と私が馬鹿である根拠はあるのだ。でも記憶にふたをしてあって思い出せない。

 結局のところ私自身だって自己愛に苦しめられる凡人であったというそれだけのことだ。



 寝坊した。今日は入学式だというのに。私は鏡を見た。そして誰にも会いたくない衝動にかられた。かといって入学式を休むほどの度胸が私にあるわけがなく、私は制服に着替え始めた。

 可愛いことで知られるこの制服、我ながら似合わない。太い足は見せたくないが、女子高生のスカートが膝より下というのも変だ。私はにゅうっと突き出た自分の足を見てため息をついた。

 入学式のあとの教室は、友達を作ろうと目を輝かしている子たちで賑やかだった。

 誰も話しかけてこない。髪が茶色で目がくっきりとしている新しいクラスメイトたちが時折こちらを見てくすくす笑っている。もう慣れたじゃないか、と自分に言い聞かせてもやはり胸は苦しい。

 後ろから肩を叩かれた。

 反射的に振り向くと、赤いふちの眼鏡をかけた子が微笑みながら私を見ていた。私は頭をさげた。内心自分に呆れる。そこは頭をさげるところじゃないだろう。

「ねえ何中? 私は東中なんだ、何中?」

「あ、……西中……です」

 私は太くて低い男のような声でぼそぼそと答えた。この声はコンプレックスのひとつだった。

「へぇ西中か。上野うえの理穂りほって子いたでしょ。知ってる? 私塾一緒だったんだ」

「え、……あ、はい……」

 上野理穂は私を特に馬鹿にしていた騒がしい子たちのうちの一人だった。トイレで彼女が「はなちゃんってあんなんで生きてて何が楽しいんだろう」と笑いながら言っていたことは忘れない。

「敬語やめてよ。同級生なんだからさ」

「あ、うん……」

「友達になろうよ。ね?」

 彼女は笑い、私の手を握った。

 こうして私と下田しもだ頼子よりこは「友達」になった。



 この時間がとても嫌だ。ボールがこちらにパスされる。ボールを受け取れず、ころころと転がっていくのを無様に追う。体育館は嫌な静けさに包まれている。

「花ちゃん、落ち着いてやれば入るよきっと」バレーチームのキャプテン役を務めている子が完璧な作り笑いで言った。

 私は手の中にあるボールを見つめる。こんな玉、どうやってネットの向こう側に飛ばせというんだ。

 覚悟を決めてボールを叩いた。ボールは体育館の端に転がっていった。

「ドンマーイ」

 みんなが一斉に言う。あくまで形式的に。ドンマイなんて誰も本気で思っていない。その証拠に誰の目にも呆れと苛立ちが浮かんでいる。そして私をますます見下していく、こいつはどうしてこんなこともできないんだと。

 ごめん、と謝ろうかどうか迷った。でも喉に言葉が詰まって出てこない。

 体育が終わりネットを片付けていると、頼子が私のほうに駆けてきた。

「お疲れ。どうだった?」

「うん、まあまあ……」

 頼子だって私のサーブは見ていたはずだ。

「そっか、まあ、あまり気にしないほうがいいよ」

 頼子は私の肩を叩いた。私は思わず身を縮めた。

「こんな体育なんてすべてじゃないんだし。花ちゃん勉強できるし」

 すべてじゃない。頼子はこういった明るい一般論、というかきれいごとが好きらしくよく使う。不思議と悪い気はしない。頼子の口から出てくると、きれいごとを信じて生きていくのも悪くないかな、なんて気にまで一瞬なる。あくまで一瞬だけど。

 私と頼子は並んで教室に戻った。


 トイレに行って席に戻ろうとすると、私の席に上野理穂が座っていた。借りるよ、と断りをもらった覚えはない。しかも机の中から私の筆箱を出して、勝手にシャーペンを取り出していた。そして前の席の子と何か喋っていた。

 私は途方にくれた。座れないと困る。でも楽しそうに騒いでいる上野理穂たちに話しかけるなんて絶対できない。

 仕方なく頼子の席に行った。

「どうしたの?」

 頼子が聞いた。そして私の席を見て、納得したようにうなずいた。

「ひどいね。無断でとられたんでしょ?」

 私はうなずいた。

「大丈夫だよ。休み時間はここで喋ってよ。ね?」

 幼児に言い聞かせるような口調だったが、私にとってはそれでも嬉しかった。

「大体さ」

 頼子は急に声をひそめた。

「上野理穂って嫌な子だよね。私塾一緒だったんだけど、授業中うるさいし、人の持ち物無断で借りてくし。話すことは人の悪口ばっかだしさ。人のこと見下してるし。ね、花ちゃんもそう思わない?」

 返事をするのに一瞬躊躇した。悪口に同調するとろくな結果にならないことは知っている。

 しかし私は上野理穂が好きではなかった。それに頼子ならきっと大丈夫だろう、と思った。頼子は私以外にあまり友達がいなかったし、上野理穂たちとのグループとの繋がりもなかったからだ。

「私も、中学のとき……」

 と、トイレで「花ちゃんってあんなんで生きてて何が楽しいんだろう」と言われたエピソードを話した。私のほうからこんなに喋るのは初めてだった。

「えー、マジで? ひどすぎじゃん、それ! ありえないし!」

 頼子は怒りをあらわにした。

「そんなやつのほうが生きてて何が楽しいんだし! 花ちゃん、そんな子の言うこと聞くことないよ」

「うん、ありがとう……」

 頼子がこのことに対して怒ってくれた、それだけでも私は嬉しかった。

 中学のとき、道化を演じていたころは、一緒にさわぐ同級生こそ何人かいた。しかし彼らは私が道化を演じなくなった途端離れていった。

 もちろん悩み事なんて何も言えなかった。彼らとの会話は相手の顔色伺いと悪口で成り立っていた。悩みなんか相談したら、すぐに悪いほうに広がっていったことだろう。

 こんな彼らを友達と呼べるのだろうか?

 頼子はここ数年の中で初めての友達と言っても過言ではなかった。



 学校であった出来事をいくつか記そう。


 私が登校すると、やはり頼子は来ていなかった。頼子の家は学校から遠い。

 上野理穂たちの集団が教室の隅で何か騒いでいる。しかし私の席は今日は占領されていなかった。心もちほっとし、席につく。

 かばんから教科書を出していると、

「ねぇねぇ」

 上野理穂の声だった。私は機械人形のようにぎくしゃくと後ろを向いた。

「花ちゃんって、デブだよねー」

 いきなり何。息が苦しくなった。

 女子たちが「言っちゃったねー」とくすくす笑っている声が聞こえた。

「どうすればそんな太れんの? あたし今痩せすぎでさぁ、だから教えて」

「え、……いや」

「よく聞こえないんですけどー」

「……あの」

「まぁいいや。花ちゃんくらいの体型になったら大変だし?」

 そしてまた爆笑した。


 廊下を歩いているとき、会話が聞こえてきた。

「なあ、うちのクラスの可愛い子って誰だと思う?」

「えー、佐々木とか、上野とか……」

「山部もよくね?」

「あー確かに」

「田代は?」

 にやついた男子が言った。

 一瞬沈黙したあと、彼らは笑った。

「お前、田代かよ! それはないだろ」

「田代とかウケるんだけど」

「あいつ存在自体がありえないよな」

「ていうか存在自体がネタ?」

 そして頷きあってるのだった。




 昔、こういったことがあった。

 中学生のときのことだ。私は初めて男友達ができた。サッカー部に入っていて、クラスの中心的存在で、誰にでも気さくに話しかける男子だった。席が隣になったとき、彼は私にも声をかけた。そのようにして彼と私は友達になった。

 ある日彼と話をしていた。

「ねえ、あんたの家ってなんかすごいんだってねー。豪華なんでしょ。いいな。行ってみたいな」

 これは私だ。行ってみたいな、というのは冗談だった。

 しかし彼は笑いながら言った。

「来るか?」

 私は舞い上がった。もしかしたら私のことを好きなのかもしれない、なんて果てしない勘違いもした。

 約束の日曜日、私は私なりの精一杯のおしゃれをしたつもりで出かけた。短パンに、よれよれのTシャツに、スニーカー。客観的に見てとてもおしゃれとはいえない格好だった。でもそのときの私はそうやって足を出すのが大人っぽいと、男の子っぽい格好をするのがかっこいいと思っていた。無駄に大きい胸が無ければきっと男にしか見えなかったことだろう。

 待ち合わせ場所の公園には誰もいなかった。私はきょろきょろとあたりを見渡した。

 すると公園の隅に、クラスの男子たちがいた。皆にやにやと嫌な笑いを浮かべ、こちらを見ていた。携帯で私の写真を撮っている者もいた。その中に、あのサッカー部の男子もいた。

「うわ。本当に来たよ……」

 誰かがそう言っているのが聞こえてしまった。

 私は顔を赤くし、男子に何か怒鳴ろうとしてやめ、自転車でその場を去った。

 この出来事は私の中に深く残ることになった。それまで私が自分を見たときの評価は、「男子とも仲の良い女子」だった。男子と話さない女子を内心見下したりもしていたのだ。

 それが一転してしまった。

 当時よりも、後になってこのことを思い返したときのほうがじわじわと痛みがきた。

 このできごとだけが原因というわけではないが、だから今、私は男子が苦手だ。


 放課後、頼子に一緒に帰ろうと声をかけるところを、

「田代さん」

 と呼び止められた。

 雛野だった。クラスの中でもあまり目立たない、気弱な男子。

 雛野はうつむいてもじもじとしたあと、

「ちょっと話があるんだ」

 と言い、勝手に歩き始めてしまった。

 昔サッカー部の男子に騙された出来事が脳裏に浮かんだ。また同じことをされるのかもしれない。

 でも今のところ雛野が悪い奴だとは思えなかった。根拠は無い。でも大人しめな人たちはなんとなく良い人だという気がするのだ。

 正直に言うと期待もあった。

 愚かだ。私は本当に愚かだ。

 私は頼子に先に帰っててと謝り、雛野についていった。

 雛野が連れてきた場所は屋上だった。

「田代さん」

 雛野は言った。

「田代さんのこと、俺……好きだったんだ」

 風が吹いた。

 生まれて初めて、告白された。

 今までこういったことには全然縁がなかった。

「付き合ってください」

 雛野は頭を下げた。

 私は周りを見渡した。誰もいない。そのときかすかに人の笑い声が聞こえた気がした。私は声のしたほう、屋上の裏側に歩いていった。

 そこにはクラスの男子たちがいた。

「ほら、お前が声漏らすから」

「いいとこだったのによー」

 クラスの男子たちは私が目に入っていないかのように雛野のところに行き、

「よくやったな、雛野」

 と嘲笑を交えて明らかに雛野を見下した口調で言った。

「これで罰ゲーム終わりにしてやるから。良かったなー」

「モンスターと付き合うことになってたらヤバかったな」

「あいつに告白するとか最強だよな」

「でも雛野なら案外お似合いだったんじゃね?」

 男子たちは一斉に笑った。

「お前モンスターと付き合えよ」

「似合う似合う。似合うよ」

 男子たちは雛野の肩を抱き、笑いながらその場を去っていった。

 私は屋上に立ち尽くしていた。

 小馬鹿にするようにどこかで烏が鳴いた。雲は分厚く光を通さなかった。



 朝が来てしまった。学校に行かなくちゃいけない。そう思うのに、体が動かなかった。細胞全体が学校に行くことを拒否していた。

「花、そろそろ学校の時間じゃないの」

 母が部屋に入ってきて、カーテンを開けた。眩しい光に思わず布団をかぶった。

「花、ほら、花。起きなさい」

 母は私の体を揺さぶった。

「……行きたくない」

 母は呆れた顔をした。

「やめてよ。また不登校?」

 と言って布団を無理やりはがした。

「そんなこと言ってないで、行くの。高校は行かないとやめさせられちゃうんだから」

 わかっている。私は顔をしかめて起き上がった。

 制服を着て、姿見に自分をうつしてみた。

 モンスター。

 忘れよう忘れようと思うたびにその言葉は頭に浮かび上がってきた。


 学校に行くと、頼子はまだいなかった。頼子は家が遠いので、学校に来るのが遅い。

 私の席を、上野理穂たちが占領していた。私が声をかけようかどうしようか逡巡しているうちに、上野理穂が私に気がついた。

「花ちゃん、ここ借りてるから。いいでしょ?」

 私は思わずうなずいてしまった。よくない、ちっともよくないのに。私は所在無さげに、教室の後ろに突っ立っていることとなった。

 馬鹿だ、馬鹿すぎる、こんなの。滑稽を通り越して、悲惨だ。

 上野理穂たちは時々ちらりとこちらを見た。そしてくすくす笑った。時折「モンスター」という言葉が聞こえるような気がした。幻聴かもしれないけれど。

 どうして同級生なのにこんなに違うんだろう、と思った。同じくらいの学力で、同じ年で、性別も同じで、何がこんなに違うんだろう。そんなの決まっている。でもその答えを受け入れられるほど私は成熟していない。

「田代さーん」

 上野理穂の取り巻きのひとりが私を呼んだ。

「ほら、言いなよ」

「えー嫌、お前が言えよ」

「どうする?」

 彼女たちは楽しげにひそひそと話をしていた。

 そして最終的には上野理穂が、

「花ちゃん、昨日、雛野に告白されたんだって? どうだった?」

 と言った。

 赤くなりたくなんかないのに顔に血がのぼった。

「わー、赤くなってる!」

「どうだった? どうだった?」

 言葉が次々に浴びせられて、私はその場に立ち尽くした。

 そのとき教室のドアが遠慮がちに開いて雛野が俯きながら教室に入ってきた。

「あ、雛野じゃん! いいとこに来たねー。昨日田代さんに告ったんでしょ? ねえねえ、どうだったの?」

「OKもらえた?」

「あ、あれは罰ゲームで……俺は別に……」

 雛野が小さな声で弁解した。

「そんなこと言わないでさー。付き合っちゃいなよ。二人、お似合いだよ」

「うんうん、マジでお似合い」

 気がつくと、私はクラス中に注目されていた。ちゃらちゃらしてる男子も、おとなしめの女子も、みんな私のほうを見ていた。

「田代さんに告白だって」

 と、おとなしめの女子たちのグループが軽く噴出したのがわかった。

「ねー、二人のことくっつけちゃわないー?」

 誰かが言い出した。やめろよ、と私は心の中で叫んだ。もうこういうことは真っ平なのに。

「いいね! いいアイデア出すじゃーん」

「雛野こっち来ーい」

 雛野は動かずに、かすかに首だけを振った。しかし男子たちが無理やり雛野を私のそばに連れてきた。

「田代花江はなえさんと雛野一樹かずきさん、結婚いたしまーす!」

 男子が叫んだ。きゃあ、と女子が騒いだ。

 雛野は男子にがっちりと腕を押さえられ、身動きがとれない状態だった。彼と私の距離は数センチほどしかなかった。

「キス! キス! キス! キス!」

 男子が手拍子を打ち、声を揃えてコールし始めた。冗談じゃない。

「早くしろよ」

「焦らすなよー」

 キスコールと共に、あちこちから野次が飛んでくる。

 気がつくと教室のドアから人が溢れ出していた。騒ぎに気がついて、別のクラスの人たちまで見物に来たらしい。

「ねえねえ何なに?」

「田代さんと雛野がキスするんだって!」

 私は震えていた。どうしてだかわからないけど、激しく震えていた。雛野は心底嫌そうな顔をして、怯えていた。

「キス! キス! キス! キス!」

 女子たちもコールを始めている。彼女たちは本当に楽しげだった。クラスの外からもコールが聞こえてくる。めまいがした。私は言葉で縛り付けられていて動けない。

「もう無理やりやっちゃおうぜ。もうすぐ授業始まるし」

 男子が言った。いいね、と誰かが言った。私は女子から体を押さえられて、いよいよ逃げられなくなった。

 男子は雛野の体を無理やり私にくっつけようとした。雛野の吐息が顔にかかる。雛野は必死に抵抗していた。でもひ弱な雛野が運動部のエースである彼らに勝てるわけがなかった。

 雛野の唇が私の唇に触れる、と思った瞬間、私はあらん限りの力を使って顔を背けた。

 でも、雛野の唇は私の唇の右半分に触れた、というかぶつかった。

 わあ、と歓声が起きた。とても楽しそうな歓声だった。

「きゃー、キスしたよ! キス!」

 誰かが言った。

「これで二人は公認カップルだね」

 誰かが言った。

 誰が言ったかなんてわからない。誰だって同じことだ。私は誰の顔も仮面に見えた。仮面をつけてにんまり意地悪く笑っている。

 雛野の目は赤かった。私だって泣きたい。でもさっきからどうにか堪えている。

「ディープキス! ディープキス!」

 再びコールが始まった。女子はがっちりと私を押さえつけていた。雛野の顔がまた近づいてきた。

 私はもう一度、雛野とキスさせられた。

 騒がしいドアのほうを見ると、視界の端に頼子がうつった。頼子は心配そうな顔をして、でもしっかりとキスさせられている私を見ていた。

 先生が教室に来る直前に、私と雛野は解放された。そしてみんなすました顔をして、席についていた。

 教室にあらわれた先生は、何も気がついていないようだった。あるいは何も気がついていないふりをしていただけかもしれない。


 頼子と私は一緒に学校から出て、駅までの道のりを何も喋らずに歩いた。

 駅が目前に見えたとき、頼子はぽつんと言った。

「ありえないよね」

 黙って話の続きを待つと、

「こんなの、無いよ。ありえないよ……」

 それきりだった。頼子は下りの電車、私は上りの電車なので、改札口で私たちは別れた。


 家に帰ってまずしたことは、部屋にある姿見の鏡を裏向きにすることだった。これで自分自身の姿を見なくて済む。

 それから台所で唇のあたりを中心に顔をこすり洗いした。洗面所は鏡があるから行きたくなかった。何回洗っても気持ち悪さがとれなかった。

 やがて台所で顔を洗っていることに母が気付き、「顔を洗うなら洗面所で洗いなさい」と言った。私は無視して唇を洗い続けた。母は何回か私に声をかけたが、諦めたのか「あとでちゃんと台所の水道洗っといてね」と言い残しリビングに戻っていった。

 台所には冷蔵庫のうなる声だけが響いていた。

 顔を思い切りしかめた。

 すると涙が零れ落ちた。

 悔しかったし悲しかったし、こんな自分が本当に嫌だった。月並みな表現だけれど。




 夜、滅多に鳴らない携帯電話に頼子から電話がかかってきた。

「……もしもし」

 私は言ったが、電話からは頼子が沈黙が聞こえてくるだけで何も答えない。

 黙って頼子が話し始めるのを待った。そのまま五分ほどが経過した。

「……めん」

 頼子の声はよく聞き取れなかった。

「……ごめん、花ちゃん……私、見てた。花ちゃんがからかわれてるの、全部見てた。でも止めなかった。止められなかった。最低だよね、私。こうして電話して言い訳してること自体がもう最低なんだ。こんなこと言わなければ良いのにね」

 私はただ話を聞いていた。

「言い訳じみてる。本当に。でもどうすればいいのかわからなかったんだ。……言い訳だ。全部、言い訳だ」

 頼子は混乱しているようだった。頼子が落ち着くのを待って、私は言葉をかけた。

「別に頼子のせいじゃない。頼子に悪いところはひとつも無いし、これは私の問題だから」

 頼子、と名前を呼んだのは初めてだった。

 これは私の問題だ。私が馬鹿に生まれついたから、こういうことが起こる。誰も悪くない。強いて言うのならば、おそらく私が生まれてきたことが悪いんだろう。

 頼子は少し黙ったあと言った。

「ありがとう。花ちゃんは優しいね」

 頼子もあの仮面の人間たちと同じだとわかったから、ただそれだけだ。頼子は悪くない。でも、もう期待はしない。

 こんな私は我侭だろうか?




 それからの三日間は何も起こらずに過ぎた。廊下を歩いているときに男子から避けられたり、「花ちゃんって男子みたいだよね」と女子に笑われたり、雛野とのことでからかわれたりはしたけれど、そんなものはもう日常で、何かが起こったと特筆すべきことではない。

 頼子は相変わらずよく私のところに来た。私は今までと変わらず話をした。私たちの関係は特に何も変わらなかった。


 雛野とキスさせられてから、四日目のことだった。

 授業が終わって昼休みになった途端、

「暇暇暇ーっ」

 と言ったのは上野理穂の取り巻きの誰かだった。

「すっごい暇。退屈。最近やることない」

「だよねー……」

 上野理穂の取り巻きは机につっぷつして、のそのそと喋っていた。のそのそと喋っていても、その声はクラス中に響き渡るのだからすごい。

「なんか面白いことないー?」

「なんか無いかなぁ」

 それまで口を挟まずにガムを噛んでいた上野理穂が、「ちょっと」と小声で話を始めた。

 退屈そうだった集団が一気に盛り上がった。

「えー、ちょっとキワどくないー?」

「いいのそんなことしちゃって!」

「ヤバくないー?」

 と口では言いつつも、彼女たちは楽しそうだった。

 嫌な予感がした。

 上野理穂はクラスのリーダー格の男子たちを呼び、何かを耳打ちした。

 男子たちも楽しそうな顔になり、「いいぜ」などと言っていた。

「みんなー、ちゅーもーく」

 上野理穂が手を叩いた。クラス中の視線が集まる。

「これから田代花江さんと雛野一樹さんの正式な結婚を行いたいと思いまーす」

 男子が言った。教室が沸いた。

 私は言葉の意味をよく飲み込めないでいた。頭の中に上野理穂の言葉が巡る。コレカラタシロハナエサントヒナノカズキサンノ……何?

 のろのろと雛野のほうを見ると、彼は顔を真っ青にしていた。見ていて痛々しいほどに怯えていた。

 かわいそうに、雛野一樹。雛野のことは嫌いではなかった。いかにもお坊ちゃんの坊主頭がよく似合ってるなと思っていた。それなのに私と一緒に玩具にされてしまう。

 雛野のところに力の強い男子が何人か向かう。

「やれー」

 誰ともなく誰かが言った。

 雛野は服を剥がれていた。ブレザーのボタンを外され、ワイシャツのボタンを外され……雛野はじたばたと暴れているがそんなこと男子たちは気にもしない。

 気がつくと私の周りにも女子がたかっていた。ブレザーの第一ボタンに上野理穂の取り巻きが手をかけた。

 やめて、そう言おうとしたのに喉は枯れたみたいに何も声が出てこない。

「脱げ! 脱げ! 脱げ! 脱げ!」

 まただ。また、コールが起こっている。デジャウを感じた。デジャウも何も、つい四日前のことだあれは。こんな状況なのに自分に突っ込みを入れてしまう自分が滑稽だった。

 仮面が私を取り囲んでいる。口元はにやついて、目は細く嫌そうに笑っている仮面。仮面が私のブレザーを引っぺがす。ベストのチャックを下げる。私はもう諦めていた。勝手にすればいい。きっとこうされることが私の存在意義なんだ。まともな人間たちのストレス解消の道具になることだけが、私の存在意義なんだ。だってそうじゃない? そうでなければどうして私だけがこんな目にあう? どうしてこんな風に生まれついてきてしまう?

 お前は人間じゃない。人間として取り扱ってもらう権利が無い。周りの仮面たちが口々に言っていた。言葉にはしていないけど私にはそれがよくわかった。

 涙が溢れた。滑稽だ。

 ブラウスとスカートだけの姿になって、あとはそれらを脱がすだけで下着姿になるというときだった。

「やめてよ!」

 金切り声が響いた。騒がしいクラスは波がひくように静まった。

 彼女は仮面をかぶっていなかった。頼子だった。

 頼子は同情したくなるほど震えて、顔は強張っていた。

「あんたたち、今、自分が何してるかわかってる? 花ちゃんと雛野に、何してるかわかってる? 人の気持ち、考えたことってある?」

 頼子の声は裏返っていた。

「何言ってるかわかんないんですけどー?」

 上野理穂が頼子の前に歩み寄った。くっつくかと思うほど二人の顔は近い。上野理穂のほうが十センチくらい背が高い分、頼子は小さく見えた。

「いい? よく聞いてよ。あたしたち別にいじめしてるわけじゃないの。ちょっと遊んでるだけだよ。だって雛野だって花ちゃんだって嫌だって言ってないじゃん、ねぇ?」

 上野理穂の取り巻きたちが頷いた。

 上野理穂はそれを確かめると、今度は鼻を鳴らした。

「それにね。こいつらだもん、しょうがないじゃん。ね、だからわかったら大人しくしとけよ」

 大人しくしとけよ、のところで声色が変わった。頼子は上野理穂を睨んで今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「はい、ちょっとしらけたけど再開! やろやろ」

 上野理穂は手を鳴らした。少しずつ教室は賑やかになって、また元の騒がしさを取り戻した。コールも始まった。

 頼子は俯いていた。唇を噛んでじっとしていた。

 結果から言うと、ブラウスとスカートは脱がされずに済んだ。雛野もあと一歩のところで無事だった。騒ぎに気がついた先生がやって来たからだ。さすがに二回繰り返して似たようなことが起こると、先生も動かずにはいられないらしい。




 頼子はその後放課後まで一回も喋らなかった。一緒に帰ろうと声をかけると、力なく「うん」と返してきた。いつになく沈んだ面持ちだった。下を睨んで何かを考えているようだった。

 少しして頼子は独り言を呟くように言った。

「私、馬鹿だよね、本当。正直言うと自分でもよくわからないんだ、なんであんなことしたのか。衝動的だったんだ。おとなしくしてればよかったのかもしれない。そうすれば私が上野から何かうるさいこと言われることはなかったわけだし。でも……」

 頼子は首を振った。「偽善かもしれない」

「……やらない善より、やる偽善」

 私はどこかで聞きかじった言葉を言ってみた。頼子は疲れたように、しかし少しだけ微笑んでくれた。

「こんなこと花ちゃんに言って、どうするんだろ。迷惑だよね。ごめんね」

「でも、私は嬉しかった」

 私は言った。そうか、嬉しかったのかもしれないと口に出して初めて気がついた。

「ありがと」

 頼子の声は震えていた。私たちは校門に向かって歩きながらずっと黙っていた。

 二人の馬鹿は並んで校門を出た。




あとがき


 あとがきなんて言い訳にしかならないことは知っているけど


 花も頼子もよくわからない人間になってしまった

 登場人物がよくわからないというのは小説の中で最低の部類だと思う


 だからこれは小説じゃないただの文章なんだろうと思う

 というか最初からそう思っていた

 つまり日記の類だろう

 私には日記しか書けない。


 でも村上春樹の小説の中にあった

「僕は自分のために、小説でない詩でない、ただの文章を書きたいと思った。」と

「蝿のために文章が書けたら素敵だ。」と

 それが励みになっている。


2008/02/18

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