とある診察風景

 きっと先生には、こういうことなどないのでしょう。

 傍から見れば、私は至極幸せな、そしてごく平凡な人間であると思います。私は十七歳で、友達もたくさんいれば、彼氏もいて、家族の仲もむつまじく、また成績も上のほうで、学校や家庭での悩みなど何ひとつありませんでした。ええ、とても幸せでしょう? なので、こんな言い方は不思議なのですけど、私の性質はこの幸福の代償ではないかと考えたこともあります。

 ああそうですね、そろそろ本題に入りましょう。

 事実を簡潔に言ってしまうのならば、私はまったく幸せではありません。おかしいでしょう? 笑ってかまわないんですよ。それもこれも、私のおかしな性質のせいなんです。

 たとえば目の前に、チョコレートがあるとするでしょう。とても、とてもおいしいチョコレートです。私はそれが食べたくてたまりません。しかしそれはおいしいチョコレートなので、そうやすやすと手に入るものではないのです。私は試行錯誤し、それなりに苦労した結果、おいしいチョコレートを手に入れます。もう一度いいます、大切なことですよ、そのチョコレートは、おいしいのです。それも、一流パティシエもびっくりものです。私はそれを手にとり、まじまじと眺めます。みればみるほど、おいしそうで、いよいよ、いよいよ私はおいしいチョコレートを食べることができるんだ、と思います。じつは、私はおいしいチョコレートを食べたことがないのです。おいしいチョコレートの余韻にひたったあと、私はついにそれを口にしようとします——その瞬間なのです。いつも、決まってその瞬間なのです。急にそのチョコレートは、まったくおいしくなどない、ひどくまずいチョコレートに変わっているのです。三流パティシエもびっくりものです。私はその事実に気づかないふりをし、目をつぶって無理やり思い込もうとします、これはおいしいチョコレートなのだ、と。そしてチョコレートを口に入れますが、それはもう、本当にまずいのです。でも、他の人が私を、私のチョコレートを見て、いいなあ、おいしそうなチョコレート、いいなあ、と羨ましがります。私はまずいチョコレートを口におしこみながら、とてもおいしい、と言って、にっこりと微笑むしかないのです。

 つまり、こういうことです。私の拙い説明で、わかっていただけたかどうか不安なのですが、とにかく、こういうことなのです。

 私はおいしいチョコレートを食べてみたいのです。それも、とびきりおいしいチョコレートです。何故なら私はいつもまずいチョコレートを食べているのです。

 そんな変な顔をなさらないでください、わかっていますよ、それは不可能なんです。ええ、わかっています、だってどんなにおいしいチョコレートでも、どんなにおいしそうに見えても、私がそのチョコレートを自分のものにしようとするその瞬間、たちまちチョコレートはまずくなってしまうんですもの。

 わかっていただけますか? 極上の料理も、黄金のブレスレットも、私の目の前にあらわれた瞬間、私にとってはがらくた同然の、無価値で無意味なものになってしまうのです。

 そしてこれはもちろん、幸福も然りなのです。

 すこし、私の体験談を話させていただきたいと思います。恥ずかしい話なのですが、でも、そんなことも言ってられませんものね。私と私の彼との話です。

 高校一年、十六歳のとき、私は彼に恋をしました。いえ、今になって思い返すと、それは欲望というものに近かったかもしれません。とにかく私は恋をしました。私は彼のことについて、しじゅう考えていました。彼はひとつ上の学年でした。私は友達の情報網をたどり、彼の名前を突き止め、彼のクラスを突き止め、彼の部活を突き止めました。彼はサッカー部でした。帰宅部だった私は、すぐにサッカー部のマネージャーになりました。ええ、すんなりとなれました。偶然サッカー部のマネージャーが募集中だったのと、申しおくれましたが、私は学校でも評判の美人なのです。そのあとは、とんとん拍子にすすみました。彼には恋人がいませんでした。私はせっせとマネージャーをつとめ、彼だけに特別の差し入れを、他の部員にはないしょであげて、そして告白しました。まだ暑さの残る九月のことでした。彼もじつは私のことを意識していたことを、そのときに彼から聞きました。そうです、その瞬間です。じつは俺もきみのことが好きだったんだよ、と彼が言い、彼につよく抱きしめられた、まさにその瞬間です、私は彼のことなどどうでもよくなりました。ああ、誤解があるといけないので言っておきますけど、あくまで精神的にですよ。

 そして私達は、学校公認と言ってもいいくらいの有名なカップルになりました。ああ、また申しおくれましたけど、彼も芸能人には負けないくらいの、すばらしい美形なんです。彼は私を愛してくれました。とても純粋に、愛してくれました。私は告白した手前、いまさら別れたいなどと言えるはずもなく、彼の前で猿芝居を続けました。まったく滑稽なことです。

 付き合いはじめて三ヶ月、そろそろうんざりとしていたころに、私は彼にまた興味を持ったのです。恋と似ているけど、ぜんぜん違う——ああどうしよう、本当に恥ずかしい! ……いえ、そうですね、言わなきゃですよね。ええ、私は、彼と寝たいと思いました。真剣にです。真剣に寝たいと思ったのです。激しくそう願いました。私は処女で、寝るなんてことの意味も知らないお子様です。でも、確かにそう思ったのです。彼しかいない、と私は思ったのです。私はそれから毎晩毎晩、彼と寝ることについてだけ考えていました。ああ、もう、本当恥ずかしいことです。

 無機質で無意味で退屈な毎日の中で、彼と寝るということだけが望みでした。そのようにして、付き合いはじめて五ヶ月たった冬のある日、デートの帰り道で、もう夜の八時でした、私は勇気を出して、ついに切り出したのです。そうです、彼に言いました、遠まわしに、でも、はっきりと、あなたと寝たい、と言いました。彼は真っ赤になりながらも、そのことを嬉しく受け止めているようでした。でも、やっぱりもじもじとしていたので、私は、避妊だって大丈夫なんだから、と言いました。それで彼は、ようやく決心のついたようでした。

 私達はそのままホテルに向かいました。部屋に入ったとほぼ同時に、私は迷わず服を脱ぎました。そんな私を見て、彼は息をのんだようでした。そして彼も黙って服を脱ぎました。お互いはじめてだったので、どうしたらいいかわからず、そのまま五分くらい、私たちは裸のまま、何も言わず突っ立っていました。ついに彼がしびれをきらしたのか、口を開きました。ええ、なんて言ったのか、ですか? それはあの、えっと、こんなことを赤裸々に話すだけでも恥ずかしいのに……お願いです、勘弁してください。とにかく私達は、ついに大きなベッドに寝転がりました。

 彼の大きな胸板が、すぐ目の前にありました。いよいよでした。私が二ヶ月というもの、毎晩毎晩思いえがいてきた彼が、今まさに私を抱こうとしていました。彼の吐息が、私の髪をゆらしました。もしかしたら、うまくいくかもしれない、私はそう思い、彼の背中に腕をまわしました。彼も、いよいよと始めました——

 ああ、もう、思い出すだけでもムシャクシャする! そのときだったのです。そのとき私は、彼と寝ることなど本当にどうでもよくなりました。まったくどうでもよくなりました。あとに残ったのは、痛みだけでした。本当に……もう少しだったんです。

 …………。

 こんなに話したんですもの、先生、何かわかりましたよね? 客観的に、私は本当に幸せなんです。だから私は、とても幸せになれるはずなんです。ですよね?

 どうしたら、私は幸せになれるんでしょう?

 本当に、私は、不幸なんです。



 私は診察を終え、もう帰っていいと(実際には、お疲れ様でした、と)患者に言った。その患者が診察室のドアを静かに閉じるのを見ると、ふうと一息ため息をついた。話の長い患者だった。煙草が吸いたいと思ったが、診察室は禁煙だった。私は手持ち無沙汰に、煙草を持つしぐさをしてみたが、もちろんそんなことは何の気休めにもならない。私は諦めると、カルテをさっさと仕上げようとボールペンを手にとった。

『診断結果。軽い躁鬱だと思われる。思春期の子供によく見られるように、思い込み激しい。』さらさらと書くと、私はまたため息をついた。

 私はここで一瞬手を止め、すぐに再び書き始めた。

『薬は、トレドミン錠、ソラナックス。』

 私は受付の看護婦に、薬局に薬のカルテを回すよう指示した。はあい、と間延びした返事を看護婦は返した。

 私はまた、ため息をついた。まったく、最近はああいう思い込みで病院に来る学生が多くて困る。思い込みの強い奴には、適当にうつに効きそうな、副作用のない薬を選んで出しとけば、その薬が効くと思い込んで、すっきりと偽うつが治るものだろう。

 煙草が吸いたい。そう思ったが、もちろんここに煙草はない。

 私はもうひとつため息をつくと、「次の人、どうぞ」と促した。

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