お菓子とテレビ

 妹のアカリが、短く悲鳴をあげた。

「お姉ちゃん? 何、それっ……」

 アカリは凍り付いてしまったかのように立ち尽くしている。

「何って、ポテチだけど」

 私は食べ終えたコンソメ味の袋を右手でひょいとつまんで、アカリによく見えるようにする。左手はおせんべいを口に運ぶ役目をしているまま。

 アカリは少しの間、おせんべいやらポテチやらチョコレートやらを食べる姉、つまり私の姿を呆然と眺めていた。しかし私が四袋目のポテトチップスの袋を開けようとしたとき、急に駆け寄ってきた。

「だめだよお姉ちゃん、そんなに食べたらご飯食べられなくなっちゃうよ」

 私は周りを見渡す。ダイニングテーブルには、ショートケーキとモンブランを食べたあとのお皿が二枚と、ドーナッツの箱。リビングの真ん中に置かれたちゃぶ台には、食べ終えたポテトチップスの袋が二袋、まだ食べてない袋が二袋。大きな板チョコが三枚、お徳用のおせんべいの袋が一つ。

 別になんてことないじゃないか。

「このくらい平気よ、アカリ」

 私はアカリをたしなめる。

 しかしアカリはふるふると首を振って、

「平気じゃないよ。こんなに食べちゃだめだよう」

 まだどこか幼さの残る声で言った。

 それは無視して、私はアカリに「食べる?」と板のミルクチョコレートを差し出した。

 アカリは黙って首を振り、しばらく何か言いたそうにしていたが、一分もすると自分の部屋へと向かいドアをパタンと閉めた。

 これはもう、二年も前のこと。

 アカリは、冷めた子に成長してしまった。


 アカリが学校から帰ってきた。

 私はそのとき、ポテトチップスのチーズ味をつまみながらテレビを見ていた。夕方にやってる、ワイドショーみたいなニュース。

 中学のジャージを適当に着崩したアカリは、いつも通りリビングのドアを開けた。お菓子を食べる私を無造作に見やって、顔を嫌そうにしかめる。しかしすぐに視線は斜め下に戻り、せかせかと歩いて自分の部屋のドアを開けて、アカリはドアの向こうに消えた。


 今日は先生から電話がきた。一昨日電話したばかりなのに、そんなにしょっちゅうしなくたっていいじゃないか。

 電話の内容は、予想通り「学校に来れる?」だった。正直に答えたら、「でも、みんな心配してるのよ」って先生は言った。だから「例えば、誰が心配してるんですか」って聞いてやったら一瞬間が空いた。やっぱりね。

 別にいじめられていたわけではない。友達はそれなりにいるし、成績だって中の上くらい。帰宅部だけど、帰りに一緒に寄り道するくらいの仲の子はいた。そこそこの学校生活送ってたと思う。でもそれってすごく疲れることだった。策略渦巻く人間関係、悪質な悪口。何かにつけて、私は「デブ」と裏で嘲笑われていた。中学三年に上がると、通り過ぎざま私を指差して大笑いする人たちまで出てきた。

 それに、家にいるようになって三週間。その間、同級生から一、二回メールがきただけで、それ以外は何も連絡がこない。心配の声が聞こえない。つまり友達ってそういうもんでしょ?


 アカリは今、ダイエットにハマっているらしい。

 半身浴とやらがお気に入りらしく、いつもお風呂を占領している。ご飯だってずいぶんと少なく盛ってるし、肉は私より半分は少ない。たまにリビングに来てテレビを見ているときも、足が細くなるストレッチをやっている。

 まあ、そういうのが気になる年頃なんだろう。

 それにしても私のことにいちいち突っ込んでくるのはやめてほしい。これでもアカリの要望で、少しはお菓子の量を減らしているんだ。

 私はお菓子が大好きだ。オーソドックスにポテトチップスも、袋詰めのおせんべいも、甘くとろけるようなチョコレートも。お菓子と呼べるものなら何でも好きだ。大きな袋をビリビリ破くと、お菓子がたっぷり詰まっている。それらを食べると、何もかもを忘れられる気がする。食べながらテレビを見たりゲームをしたりしていると、何かが麻痺していくのが自分でもわかる。

 だからお菓子は私にとって絶対必要なんだ。例えば父にとって若い女の人が必要だったように、母には自殺が必要だったように。


 ぼんやりと見ていたテレビを消した。本日四袋目のポテトチップスうすしお味を開ける。

 テレビの騒音が無いと急に静かなリビングに、アカリの声が聞こえてきた。

 どうやら電話をしているらしい。全くアカリは長電話が好きなんだから。

 私はなるべく音をたてないようにポテトチップスをつまみながら、アカリの声を聞いた。リビングとアカリの部屋は薄っぺらいドア一つ隔てただけで、しかもアカリは興奮すると声がやたらと大きく甲高くなるのですぐに聞き取れる。

「……そう。そうなんだよ。だってさぁー、おかしいと思わない?」

 少しの間。電話相手の子が喋っているんだろう。

「あー、ねぇ。うん。そうかもしんない。……でもさ、それにしたってやっぱあの量はおかしいよ。カナにも見せてあげたい。だってさ、一日にポテチ五袋とか、チョコ三枚とか、ドーナツ一箱とか、ケーキとかおせんべいとか、平気で食べちゃうんだよ? おかしいよ、あれ、病気だよ」

 だいぶヒステリックな声で語気を強める。私のことを喋ってるんだ、すぐにわかった。ちなみに食べたポテトチップスは五袋じゃなくて四袋だ。

 アカリが私のことを電話で愚痴っているのを聞くのは初めてではない。先週くらいに一回聞いたから、これで二回目だ。

「え? ……あー、じゃあ、内緒にしてね。あんま言うなってお姉ちゃんに言われてるから。158センチで……67キロ、なんだよ……」

 一応声をひそめたつもりらしいが、バッチリ聞こえた。それは私の身長と体重だ。

 先ほどよりも長い間が空く。ポテトチップスは既に殆ど食べ終わった。

「……そっか。そうなんだあー……。うん、うん、ありがとう。ほんとやっぱカナに聞いてもらうと安心する。ごめんね、なんか、変なこと愚痴っちゃって……ほんと。あ、うん、わかった、じゃあ明日一時に駅前ね? はーい、じゃあねー」

 のりしお味の袋を丸めてゴミ箱に放り投げ、おせんべいを一つかみ口に入れる。

 どうでもいいけど、このおせんべい味が薄い。


 電話が鳴っている。

「はい、小村こむらですけど」

「ああ、カスミ? お父さんだよ」

「……何」

「実はちょっと、今日も帰れそうもないんだ。どうしてもやらなくちゃいけない仕事があってさ」

「はいはい。女の人ね」

「何言ってるんだ、カスミ」

「ごまかさなくてもいいよ。あんたの声の後ろから、女の人の声が聞こえる」

 叩きつけるように電話を切った。

 まったく、あの男は。


 テレビの音だけがやたらとうるさい。つまらない若手のコメディアン達が、やたらとテンションを高くして盛り上がる。まるで旧友同士が馬鹿やってるみたいに。でも私にはわかる。彼らはれっきと仕事中だと。だって目は笑ってないし、笑いはどことなく乾いているから。

 食事中、アカリは私と目を合わせようとしなかった。

 いや、厳密に言うとアカリは食事中ではない。彼女は最近まともな食事をとることの方が少なく、今日の晩御飯だってカプセルのビタミン剤を数錠水で流し込んだだけだった。

 私は冷凍された米を電子レンジで解凍して、バターをのせてしょうゆをかける。これでしょうゆバターご飯の出来上がり。バターをたっぷりのせると、ほんとうにおいしくなる。

 アカリはカプセルを飲み終わると、少しの間俯いてじっと座っていた。私はそこにあったドーナツを一つ掴んで彼女に勧めたのだが、素っ気なく断られてしまった。せっかくのエンゼルフレンチ、おいしいのに。

 ぼんやりとテレビを眺めながらしょうゆバターご飯を流し込む。まだちょっとバターが足りない。席を立って冷蔵庫を開けて、バターのかけらを持ってくる。

 テレビの内容があまりにも退屈なので、リモコンに手を伸ばした。まずは1チャンから始まって、3チャン、4チャン、6チャン……と回していく。くるくる変わる画面、面白そうな番組は一つもない。だから仕方なく、先ほどのつまらないバラエティ番組で落ち着くことにする。

 箱からドーナツを取り出して頬張りながら、向かいの席に座るアカリをちらりと見る。アカリは頬杖をついてぼんやりとテレビを見ている。最近この子は、笑わなくなった。電話ではよく笑うのに、私といるときは、笑わなくなった。

「お姉ちゃんは」

 唐突に、でも静かにアカリが言った。頬杖をついて、やけにハイテンションな番組を冷静に見つめながら。

「お姉ちゃんは、一体何なの」

「……何が」

 久々に向こうから普通に話を振ってきた、アカリのその声の大人っぽさに驚いていて、すぐには声にならなかった。

「だから」

 アカリは少し顔をしかめる。

「なんで、こんなに食べるの」

「別に、そんなに食べてないじゃない」

 私は即座に答えた。普通に言ったつもりだったが、その声は心持かすれていた。

「絶対、おかしい。お姉ちゃん、お母さんが死んでからどうかなっちゃったんじゃないの」

 アカリが嘲笑ともとれる苦笑をしたとき、椅子を蹴って立ち上がった。

 アカリは顔色一つ変えず、無表情にこっちを黙って見据えた。

「どうしてそんなこと言うの」

 凄みのある声にしようとしたつもりが、裏返って震えた声になった。凄みなんか、かけらもなかった。

「だってさ。そうじゃん。お姉ちゃんが菓子ガバ食いし始めたの、お母さんが死んでからじゃん。それに最近、学校にも行ってないし。おかしいんじゃない」

 アカリの声はどこまでも乾いていた。でも、小さく震えていた。

「何。そんなにキツかった? だからお姉ちゃんダメなんだよ。お母さん死んだの、まだ引きずってんじゃないの? 何年前の話、それ。いい加減忘れられないの」

 アカリの言葉は、いちいち痛かった。

「だから学校でだって、『地味系』になっちゃうんだよ。私はそんなに弱くないから、学校じゃ上手くやってるよ。派手な子達と仲良くなったし、服だって一緒に見に行ったりして、電話もして、それでそれなりに権力あるから」

 口の端を軽く上げて、苦く笑いながらアカリは話す。

「学校楽しいから。両親のせいで人生台無しにされるなんて、まっぴら」

 私はアカリの顔をじっと見ていた。この子いつからこんなに大人になったんだろう。つい数年前まで、両親が殴りあうたびに半泣きで私の部屋に逃げ込んできたアカリは、妹はいつの間にこんな表情をするようになったんだろう。

「私は、お姉ちゃんとは違うから、こんなのでおかしくならない。そんなに、弱くないから」

 そんなによわくないから。繰り返すアカリの目からは今にも涙が溢れ出そうで、とても弱くないふうには見えなかった。

 私はそのとき、当たり前のことがやっとわかった。

 テレビから、笑い声が間抜けにリビングに響く。あんなふうに馬鹿やってる人たちも、親が自殺しちゃったりとか色々したのだろうか。それを乗り越えて、今夢を叶えて、全国の人の前で笑っているのだろうか。

 私はそっとテーブルの向こう側に移動した。アカリは必死に泣くのを堪えているようだったが、目は真っ赤で今にも壊れてしまいそうな表情をしていた。

 ゆっくりアカリに右手を伸ばした。肩に手が触れる。あったかい。アカリは抵抗しなかった。左手で頭に触れた。躊躇しながらも、頭をなで始める。昔こうしてあげたように。何かの栓がとれたかのように、アカリは泣き始めた。数年前とそっくりに、嗚咽を漏らし始めた。涙がボロボロ溢れていた。

 心がくるしかった。息がいちいち心臓を締め付けるみたいだった。

『お前馬鹿かよ』

 テレビから、若手コメディアンの声。私は心の中で答える、そうです、私は馬鹿です。妹の何も気づいてやれなかった馬鹿です。妹が強がっているってこと知らないで、冷めた子になったななんて考えてた姉です。

 きっとアカリは一人で悩み続けてきたのだろう。私は何もしてあげられなかった。この間まで小学生だった子に。何ひとつ。

 そのぶんを埋めることなんて、絶対できない。でも今からでも、何かしてやれたら。

 じっと妹を抱きしめた。中学生になったというのに、華奢で、小学生みたいな体格だ。そうだ、そいえばアカリは最近まともに食事をとってない。いつもビタミン剤しか飲まないんじゃ当たり前だろう。

 不意に目頭が熱くなった。テレビはまだつきっぱなし。


 アカリは母の葬式のとき涙を流さなかった。私なんか、終始ボロボロと泣き崩れていたのに。

 うわべだけの気遣いや人の気も知らないで可哀想にねえとか同情をする、親戚や知人の大人にアカリは、大丈夫です、とか気丈に振舞っていた。それを見て大人達は、まあ、立派なお子さんねえとか勝手なこと言ってたけど、私は知ってる。

 随分と長いトイレから出てきたアカリの目は赤かったことを。そのときまだ、アカリは小学四年生だったんだ。

 私はすごく悲しかった。でも多分、アカリだってすごく悲しかっただろう。その気持ちを内に秘めるような子に育たざるをえなくした両親が、どうしようもなく悲しく思えた。

 私の家族は、とっても悲しい。


「もう行くの?」

 私は驚いて、制服姿のアカリに声をかけた。

 まだ七時十五分だ。学校が始まるには、全然余裕がある。

「うん。部活。もうすぐ夏大だから」

「朝ご飯、食べた?」

 出て行こうとするアカリに、私は訊く。

「別に」

「答えになってない」

「あー……うん。食べたよ。それなりに」

 アカリはテーブルの上を指で示した。食べたあとのヨーグルトのカップと、バナナの皮と、牛乳を入れたらしきコップが置いてある。

 ずいぶん軽い食事だけど、ビタミン剤しか飲まなかったアカリにしては結構な進歩だと思う。

「後片付けしてよ」

「いいじゃん、どうせお姉ちゃんこれから食べるんでしょ。やっといてよ」

「うわ、最悪」

 でも、思えば姉妹でこんな気軽な会話をしたのなんてすごく久しぶりの気がする。

 まあ、いいか。それに免じて、私はため息をついて了解した。

「ありがと。じゃ、あたし行くから」

 通学カバンを背負いなおして、アカリはドアノブに手をかけた。

 私はリモコンに手を伸ばし、テレビをつけた。朝のニュースがやっている。朝の音がリビングに静かに染み込んでいく。

「あ、そうだ」

 ついでに思い出した、という口ぶりでアカリは振り向く。

「今日お姉ちゃん学校来るの?」

「うん」

 しばらくクローゼットに眠ってた制服。久しぶりに袖を通して鏡を見てみたら、我ながらなかなか中学生じゃんって思った。変な話だけど。

「わかった。じゃね」

 今度こそアカリはドアノブに手をかけ、出て行った。急にリビングはしんとなる。テレビはついてるけど、しんとなる。

 アカリが少し笑っていた気がしたのは、気のせいだろうか。ちょっと不器用に、でも確かに微笑んでいたのは錯覚だろうか。

 どっちにしろ、とにかく私は今嬉しい。


 今日の授業は、英語に国語に数学に体育、それに総合。教科書を詰めて、かばんを背負う。アカリのよりも古くて、アカリのよりも使い込まれた同じ中学の指定カバン。似ているけど、しっかり見分けがつく。

 鏡に映る自分の姿を見る。準備よし。

 ふっとリビングを見渡した。こうして見ると、悲惨な状態だ。あちこちにお菓子が転がり、そこらじゅうにカスが散らばっている。

 テレビの左上に表示されている時刻は七時四十分。家から学校までは十分くらいしかかからないから、まだ時間がある。

 とりあえず、手当たり次第にお菓子の袋をゴミ袋に詰め込む。それから掃除機を引っ張り出してきて、カスを吸い取る。

 そんなに広くないリビングなのですぐに終わった。ゴミ袋の口を固く縛り、玄関のそばに置いておく。

 カーテンから差し込んでくる光を浴びて、背伸びをする。そういえば、太陽の光を見るのも久しぶりだ。いつもカーテンは閉めっぱなしだったから。太陽はどんな人でも過不足なく照らす。けれどそれが眩しすぎる人もいるのかもしれない。逆にもっと光が欲しいと感じる人もいて、だからこの世界はぐちゃぐちゃなのだろうか。

 そしてふいに思い出した。

 最近、母の仏壇を見ていないことを。


 ごめんなさい。

 約一ヶ月ぶりの仏壇は、埃にまみれていた。濡らした雑巾でしっかり埃を拭き取って、枯れていた花を花瓶から引っこ抜く。即席だけど、おせんべいをそなえる。私が一番好きなやつ。お線香に火をつけてそなえて、手を合わせて目をつぶった。久しぶりに母に話しかけるとき、真っ先に浮かんだのはやっぱり謝罪の言葉だった。

 最近、全然来なくてごめんなさい。忘れてたわけじゃないんだよ。こうやって、手を合わせるのが嫌だったの。多分お母さんなら、罰当たりな子って静かに嫌そうに言うよね。でも、罰当たりでも私、やっぱりお母さんがこの世にいないって認めるの、未だに拒んでたんだ。それで今更、どうしても嫌になっちゃった。もう学校にも行きたくなくなってた。馬鹿だよね。アカリでさえ、頑張って乗り越えようとしてたのに。友達作って学校を楽しもうって思って。でも私は逃げ続けてばっかだった。お菓子とテレビに逃げてばっかりだった。でも、そうだよね、もう、お母さんいないんだよね。だから……私も頑張って受け入れたいなって思います。今すぐは、多分無理だけど。私も辛かったけど、アカリも辛かったんだと思う。そんな当たり前のこと、初めてわかって……なんかうまくまとまんないんだけど、これからもっともっとアカリと話したいな、みたいな、結論としてはそんな感じ。わけわかんなくてごめんね。じゃあ、また来るね。……

 そっと目を開けた。やけにぽっかりとした気分だった。ああ、お母さんいないんだな、って初めてくっきり実感した。でも、悲しい、っていうのとはちょっと違う。

 ずいぶん脈絡のない話になっちゃったけど、母ならわかってくれるだろうか、私の気持ち。

『時刻は七時五十七分です』

 ふすま越しに、テレビの音声。そろそろ行かなければならない。

 いってきます。小さく言って、立ち上がる。

 ふすまを開けて、仏壇を振り返って。笑顔と言えるのかどうか微妙な表情を浮かべた母の遺影に、もう一度だけ心の中で呟いた。

 お母さん。すっごく辛かったとは思う。でも、やっぱり生きててほしかったな。

 朝なのにやけに薄暗い和室を出て、きっちりふすまを閉めた。

 そうだ、帰り道花を買っていこう。花瓶にさすための花。母が大好きだった白いポピーを。


 洗面所で髪をとかして、最終チェック。うん、これなら学校に行ける。

 かばんを背負う。久しぶりの学校。クラスメイトの視線が一番怖い。でも私も、もう少し頑張ってみなきゃ。頑張りすぎてビタミン剤しか飲めなくなったアカリの努力の半分くらいは。

 数秒ぼんやりとテレビを眺めて、リモコンでスイッチを切る。リビングは急に静かになった。お菓子を食べる音もテレビの音もない静かなリビングは、ずいぶん久しぶりの気がした。

『がんばるのよ』

 そうだ、そういえばいつか言われた。光がいっぱいの、静かなリビングで。

『これから、色々大変だと思うの……でもがんばるの。カスミ、アカリ、お母さん、あなた達のこと大好き。でも、お母さん……ちょっと、疲れちゃった。だから……少し休ませてくれるかしら』

 そう言って幼い私とアカリを抱きしめた母の頬は、ひんやりと濡れていた。

 あれが母の最期の言葉。搾り出すように、静かに話す母の声。そうだ母はそういう人だった。

『がんばるのよ』

 最期の最後に母は言って、そのまま遠いところにいってしまった。

 なんでだろう。喉から何かが込み上げてくる。目から今にも溢れそう。

 お線香の煙が香りを運んできて、それが私の鼻に届いた瞬間遂に涙が溢れた。

 なんで泣いてるのか自分でもよくわからない。おかしな話だ。でもとにかく涙は次から次へと溢れた。一回何かが切れると、なかなか止められない。私は小さな子供みたいに泣き続けた。大きな嗚咽。心臓から涙が溢れ出てるみたい。

 どのくらい泣いただろうか。顔は涙やら鼻水やらでぐじゃぐじゃだった。ティッシュで鼻をかんで、とりあえず顔を洗おうと洗面所に向かった。

 酷い顔だった。本当。とても他人様には見せられない顔。水を出して必死に洗ったが、鼻と目が赤いのはどうしようもない。もう時間も無い。私は諦めて、学校に着くまでに普段の顔に戻ることを祈った。

 早足で玄関へと向かう。玄関には、私が食べたお菓子の残骸が詰まった袋。それを持ち上げて、しんと静まり返ったリビングを振り向く。

 お菓子とテレビ、どうもありがとう。多分、当分お世話になることはないと思う。だから今まで、私に逃げ場を作ってくれたこと、本当にありがとう。

 少しだけ、頑張ってみる。

 私はドアを開けた。お菓子とテレビがあるリビングなんかじゃない、私が生きるべき場所へと足を踏み出した。

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