第2話



 それはユキハヤブサの巣立ちを観察するという、長いフィールドワークの旅が終わった後のこと。二人が日々を研究室で過ごすようになってから、約一ヶ月が経とうとしていた。


 なかでも平子は、ようやく人並みに休みが取れるようになったおかげで、心身ともに安定した日々を送っていた。


 そんなある日のこと。


「おいおい、平子くん。なんだいこの花は?」


 トイレから戻ってきた黒木教授が質問した。殺風景な研究室には不似合いの、薄紫色の花を生けた花瓶が置かれていたからだ。


「シオンですよ。アスターとも言いますけれど。派手じゃないけれど美しいですよね」

「僕が聞いているのは花の種類じゃなくて理由なんだけど――」

「えー? 先生聞きたいんですかあ? 仕方ないなあ」


 にやにや顔の平子は、黒木教授の言葉をさえぎり勝手に解説し始めた。


「この花、私の彼氏・・が研究室に送ってくれたんです。さっき先生が留守にしてた時、お花屋さんが持って来ました!」

「へえ」


 黒木教授は心から興味がなさそうに鼻を鳴らした。


「ちゃんと私がフィールドワークから戻ってきていることを知ってるんですよねー」


 本当は平子自らが連絡していたが、本人は忘れていた。


「ほんとーに彼、ロマンチックな男の子なんです! でも、どうしてこの花にしたのかな? まあ、綺麗だから良いけれど」

「僕には花も草も木も、みんな一緒に見えるね。興味があるのはただひとつ。食用になるかだけさ。君の彼がフィールドワークで遭難したとするだろ? いちばん必要なのは生き延びる為の知識だ。若さゆえに女性への求愛に夢中になるのもいいが、生き残らなければ、子作りもできないだろう?」

「こ、子作り……って、そんなストレートに言います? 先生はホントーに女性の心ってものが分かってませんね! いや、違うな……分かるのは鳥の心だけです!」


 べっと舌を出してそっぽを向く平子。険悪な雰囲気が漂う研究室に、トントンと扉をノックする音が響いた。


「すいませーん」

「あれ、あの声は……」


 平子がドアを開けると、そこには一人の若い女性が立っていた。長い黒髪と大きく知的な瞳が印象的で、可愛らしい白とピンクのエプロンがよく似合っていた。


「あ、どうも。さきほどお花の配達でお伺いした、花屋の『ブルーパロット』のものです。あの……ごめんなさい! 私、大事なものを渡していませんでした」


 女性は頭を下げたのち、困惑する平子に一枚の紙を差し出した。


「花言葉のメッセージカードです。お花に挟んだつもりが配達の車の中に落ちてしまったみたいで。せっかくだから、説明させて頂きますね。シオンの花言葉は『遠くにいても、君を忘れない』です。とてもロマンチックですね」


 平子はまばたきもせずそのカードを見つめ、顔を真っ赤にしたまま固まってしまった。


「では失礼しまーす」


 店員は頭を下げて研究室から出ていった。扉の閉まる音で平子の意識が現実世界に戻ってくる。


「……ああ、わたし幸せかもしれないです……せんせい……ってうわあ!!」


 驚いたのも無理はない。振り返った平子の目の前に、そそり立つように黒木教授が迫っていたからだ。肩をガシッとつかまれた平子は、その力強さに思わず縮み上がった。


「平子くん!」

「せ、先生。いや! 駄目です! 私には大事な彼氏が!!」


 平子は本能的に身をよじって叫んだ。


「彼氏なぞどうでもいい! 今のあの方はどちらにお勤めですか?」

「へ?」


 教授の顎を手で押し返していた平子の目が、キョトンとする。黒木教授はじれったそうに、平子の手からメッセージカードを奪い取った。


「これですよ! これを持ってきた女性です」

「聞いてなかったんですか? 花屋さんですよ」

「もちろん聞いていましたよ! どこにお勤めかと聞いています……住所は?」

「さあ……あ、カードの裏に書いてありますよ」


 黒木教授はゆっくりと目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「あの方がここに来た時、とても良い香りがしました」

「……え?」

「そしてこのメッセージカード……私の予感が確かなら、私は彼女に会いに行かなくてはならないでしょう」

「先生? ど、どうしちゃったんですか? まさか……まさか?」

「平子くん! あのひとに気持ちを伝える必要があります!」

「き、気持ち? それって……」


 平子の声が裏返った。


「もちろん私の気持ちです。好意を持ってもらわないと駄目なんですよ!」

「ひ、ひえええ……先生が、先生が、女性に興味を……」


 平子がよろよろと後退るが、彼女の怯えた声は黒木教授の耳には届いていなかった。

「君の反応を見ると、女性は『花言葉』が好きなようですね……よし、では今晩に計画を考えます。お店の場所は、このカードに書いてますね。では明日の十五時、駅前に集合です。聞いてますね。平子くん。では失礼!」


 さっさと帰り支度をすませる黒木教授のスピードに圧倒され、平子は言葉をかけられなかった。

 彼女はその場に座り込みながら、バタンと閉まった扉を呆然と見つめた。


「ああ……わたしのメッセージカードが……」


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