奇鳥男(きちょうメン)

まきや

第1話



「先生!」


『動物生態学研究室【鳥類】』という名のプレートが掲げられた部屋から、ヒステリックな女性の声が響いた。


 声の主、平子ひらこ 結衣ゆいは怒っていた。研究室に置かれた開きっぱなしの冷蔵庫の前に立ち、こぶしは握りしめられプルプルと震えていた。


 勢いよく扉を閉めた平子は、キッと部屋の奥をにらんだ。台所と書庫を兼ねた小部屋を出ると、部屋の奥へと早足で進んだ。無造作に積み上げられた本の山が、振動で崩れそうになるのも構わない。大小さまざまな鳥の剥製標本がカタカタと音をたてるのも気にしない。


 部屋にはもうひとり、窓の方を向いた背もたれの付いた椅子に座っている中年の教授がいた。名は黒木くろき たけし。この研究室のあるじだった。


 平子の声はだいぶ大きかったのだが、教授は読んでいる本から目を離さなかった。彼女は自らの存在感を示すため、大袈裟に机を回り込んで彼の目の前に立った。用意した非難の言葉が感情に邪魔されて出てこず、しばらくは口だけがパクパクと動いていた。


「せ、せ、せ!」

「おや、平子くん。どうしたんだい。そんなに気色けしきばんで」

「先生! また勝手に食べましたよね、私のロールケーキ! あれだけ断りなしに食べないでくださいって、お願いしてたのに!」

「ああ、あの洋菓子か。とても美味しかったよ」

「『かった』って、思いっきり過去形じゃないですか。感想なんて聞いてません! それに私が言うはずだったコメントを……」


 平子の怒りは頂点に達していた。「私がどれだけ並んで、手に入れたと思ってるんです? それをあっさりと食べちゃって……せめて私の分ぐらい、残してくれたっていいのに……」

「だって消費期限が切れそうだったろ? 捨ててしまうぐらいなら、僕の胃袋に収めた方がマシかなと思ってね」

「取っておいたんですよ! 冷蔵庫にあのプレミアムなケーキがある景色を十分ながめてから食べようと思って!」

「まったく……君は進歩がないね。優柔不断というか、いつもギリギリにならないと行動しない癖を、直した方がいいよ」

「な!?」


 黒木教授は本を閉じると、窓の外に視線を移した。


「果物じゃないんだから、待っていても熟して甘くなるわけじゃないだろう? いまそこにある機会を逃したら、二度と貴重なチャンスは訪れない――文字通り目の前から飛び去っていくんだ。自然の生き物を観察する時の基本じゃないか。食べてしまったものは仕方ないし、今回はそれを学べたってことでチャラにしようよ」

「な、何を訳のわからない理屈で納得させようとしてるんですか? しかも私が駄目みたいになってるし……そんなオチで私のロールケーキを食べた罪が消せると思わないでくださいね!」

「罪だなんて大げさだなあ」


 全く悪びれのない男を睨みながら、平子はくやし涙を浮かべた。教授はもうこの話は終わった体で、大学の校舎に立ち並ぶ銀杏並木の景色を眺めいている――どうせ止まっている鳥の数でも数えているのだろう。


「あ、思い出した。駅前の塩瀬屋しおせや本舗で、あやめ饅頭を買ってきたんだが、食べるかい?」

「話をすり替えないでください! 別の食べ物の話で私の気が変わると思う……って、え? 今の季節しか売ってなくて……しかも販売数限定のあの・・あやめ饅頭ですか!?」平子の喉がゴクリと鳴った。

「そうそう。ふらっと店に寄ったら置いてあったんだ。行動力も大事だけれど、やっぱりツキがないとねー」

「うんうん」

 従順に頭を振る平子。

「さあ平子くん、お茶をいれてくれないか」

「はーい♪」


 その頃にはもう平子の頭の中からロールケーキの存在は忘れ去られていた。




 黒木教授は鳥類学研究の第一人者として、学会で名の知られる存在だった。だからこそ平子は自分を幸運だと思う。院生の中でひとりその下につき、超一流の理論やフィールドワークの経験を学ぶことができるのだから。


「著名な先生の研究室なのに、学生さんはおひとりなんですか?」


 平子がよく聞かれる質問だ。理由は簡単。学生が教授の性格についていけないからだ。


 命よりも大事な鳥類我が子のためなら長期間の海外放浪もいとわないとか、それだけなら研究熱心という言葉で済むが、それ以外――子供のようなわがままな振る舞いとずぼらな性格は類を見ず、服装も限りなくだらしない。


 異性の平子が近くにいようが、我が道を行くのにも困っていた。世間が敏感な『ハラ』がつくワードへの遠慮など全く無し。その為この歳になっても身辺に女性の影はなく、本人は相手を求める素振りを見せた事すらなかった。


 その日が来るまでは……。


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