第8話 ヤバい!

「あの、そろそろルリさまも妖怪を倒さないとまずいのではないでしょうか」


 おにぎりを食べ終わった希里華きりかの第一声はそれだった。


 まあ、そろそろ言われるだろうとは思っていた。なにせ、私は今まで一度も妖術を使っていない。


「心配ないわ」

「でも」

「その心配は無用だと言っているの」


 私は堂々と言い切ったけど、希里華の緑色の瞳からは不安の色が消えない。


「ねえ、キリカ、あなたが私の討伐数をいくつと思っているかは知らないけどね」


 そこで、私は左の手のひらを広げ、希里華の前に突き出した。


「私はその五倍……いえ、五十倍の数は倒している自信があるわ!」

「ほ、本当でございますか」

「な! おまっ、五十倍はありえないだろ!」


 嘘ではない。

 私の数学の成績は門外不出だけど、それでもゼロを何倍してもゼロだということはよく知っている。


「でも、ルリさまが妖怪を倒すところはわたくし見ていないのですが」

「まあ、ムリもないでしょうね。私がしているのはそれほどのことなのだから」

「さ、さすがです、ルリさま!」


 キリカちゃんは本当にチョロいなあ。

 将来変な男にひっかからないか心配だよ、私は。


 そんな話を繰り広げ、そろそろ妖怪退治に戻ろうとした時だった。


「ルリさま、妖怪を見つけましたわ! あれは雷獣でしょうか」


 希里華の報告を聞いて、凛之助も目を光らせた。


「なあ、二人とも、誰がトドメを刺しても恨みっこなしだぜ」


 そういう凛之助の様子はすっかり元通りだったけど、一方の私は軽口を叩く余裕もなかった。

 というのも、その妖怪には強烈に見覚えがあったから。


「……ダメ、正面から戦っちゃダメ! あれは普通の雷獣じゃない! なんで、あいつがこんなところに」

「ほう、よく気付いたな、小娘。確かに我は有象無象のあやかしでは無い」


 樹々の隙間を縫って一匹の妖怪が現れた。

 イヌ鼬鼠イタチを掛け合わせたような体格の獣。前脚が二本、後脚が四本あり、尻尾は二股に分かれている。

 その姿はまさに雷と共に訪れる妖怪、雷獣そのものだけど、雷獣なら小麦色のはずの体毛が闇夜のように黒かった。


 それは黒雷こくらい

 凛之助を襲い、その夢を打ち砕く妖怪の名だ。


「キリカ! 足止めして!」


 私のかけ声に従って、希里華が【風刃螺旋】を唱えた。

 緑の竜巻が黒雷こくらいを飲み込んだ。

 それを見て、攻撃に続こうとした凛之助を私は手で押さえつけた。


「なんだよ、瑠璃」

「こいつはダメ、絶対にまだ勝てない! 二人とも、逃げるわよ!」


 凛之助の返事を待たずに、手を引いて走り出した。


 どうして、黒雷こくらいが、凛之助ルートにおけるラスボスが、ここにいるのか。

 そんなの、決まっている。

 凛之助が妖怪に襲われ、妖祓師ようふつしの夢をあきらめる日、それがまさに今日だったということだ。


 言うなれば、これは負けイベント。

 【風刃螺旋】が足止めしているうちに、なんとかして逃げないと。


「そんなにかずとも良かろう」


 黒いイヌはいつの間にか、逃げる私たちの目の前にいた。

 その声はくらく重く響き渡った。

 存在しているだけで放たれる異様な威圧感を前に、私たちの脚は気づけばすくんでいた。


「一眠りしただけであるのに、気付けばこのような捻れた空間の中に居てな。小娘達よ、此処ここ何処どこであるか」


 漆黒の体躯に浮かぶ二つの紅い瞳が、私たちを見つめていた。

 私は動くことはおろか、声を出すことすらできなかった。


 ゲームの画面越しに見るのとはあまりにも違う。

 私がいるここは現実で、傷を負えば血は流れるし、首を裂かれれば命は消える。それを理解してしまった。

 背筋の悪寒が止まらない。


 何もできずにいる私を尻目に、凛之助が声を荒げた。


「よ、妖怪め! 俺が退治してやる!」


 黒い狗に向かってそう吠える姿は、勇気ある行動と言えた。

 たとえ、その勇気が蛮勇でしかないとしても。


 直後、雷が落ちたかのような激しい轟音が響き渡り、気づけば、私たちの真横に生えていた大樹が頭から根元まで、真っ二つに裂かれていた。

 焼け焦げた匂いが鼻をついた。


「ふむ、小僧。何か言ったか?」


 黒雷こくらいの問い掛けを前に、凛之助は腰が抜けたのか、返事すらできないようだった。

 なけなしの蛮勇でさえも、無残な姿となった大樹を前にして消し飛んでしまったのだろう。

 でも、私だってそれを笑える立場にはない。

 こんなもの怖いに決まっている。


「もう一度、尋ねよう。此処ここ何処どこであるか? 答えるのであれば、の儚い命くらいは見逃してやっても良いのだぞ」


 私たちの生死はこの妖怪に握られている。それが理解できた。

 黙って立っているわけにはいかない。

 とにかく、口を動かすんだ、私。


「こ、ここは、妖祓師ようふつしの初級試験の会場です」

「試験とな? ……ふむ、成る程。大方、一眠りしておる間に雷獣と間違われ、連れてこられでもしたのか」


 ゴロゴロと遠雷の響くような音がしたけど、それがこの妖怪の笑い声なのだと気づいたのは一呼吸置いてからだった。


「はっはっは、そうか、この我をただの雷獣と間違えるとはな! いやはや、深く眠り過ぎてしまったようだな。これは愉快愉快!」


 黒雷こくらいはひとしきり笑うと、足がすくんで動けない私たちを睥睨した。


「状況は分かった。我は相手が人間といえど、約定を反故にする趣味は無いのでな。その命、特別に見逃してやろうぞ」


 その言葉と共に、私の体が軽くなった。

 まるで、今まで縛られていた見えない鎖から逃れたような、そんな感覚に陥る。


 助かったの?


 思わず隣を見ると、希里華と目があった。

 彼女もまた、私のように動けずにいたのかもしれない。


しかしながら、我は寝起きゆえ……酷く腹が減っておる。今にも空腹で倒れそうな程にな」


 燃えるような紅い瞳が私たちを見据える。

 その向かう先は、私でも、希里華でもなく、凛之助だった。


「小僧、貴様からは随分と美味そうな雷の匂いがするな」

「……あ、え」

「そう怯えるな。命までは取らぬと言ったろう? ただ、そうだな。少しばかり、霊力を頂くだけだ」


 黒雷こくらいの口が開いた。

 どこかで遠雷が鳴った。

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