『カメラ』
男は岐阜の田舎で次男坊として生まれた。
年が三つ離れた兄と、二つが離れた姉がいて、更に三つ年が離れた弟と共にすくすくと育った。
兄はしっかり者で現在、航海士をしている。
姉はよく喋るフリーターだ。
弟は思春期中学生で両親が手を焼いている。
男は寡黙だったが、根はとても純粋だった。のどかな田舎の風景や自然が好きで小さい頃からよくスケッチをしていた。
ある日、家にあったインスタントカメラをこっそり持ち出して川沿いに自転車を走らせた。夕暮れの黄金色に当てられた芝は美しく揺れていて、水面はきらりと輝いていた。男はこの穏やかな川の音と共に一枚の写真におさめた。
高校を卒業した男は、写真家志望たちが集まる都会の専門学校に入学し、Aという者と知り合い、すぐさま意気投合し仲良くなった。
Aは端正な顔たちをしていて真面目で野心家で、そして会話の節々から誠実さが滲み出るような男だった。寡黙で冴えない者であっても友を大切にする人だった。
周囲が合コンやら女色にうつつを抜かすなかで、Aと男は写真にだけ情熱を燃やし続けた。
やがて二人は学校を卒業した。共に写真家になれるように頑張ろうと誓い合った。
男は先生の紹介でスタジオで修行をすることになった。最初は中々上手くいかない日々だったが、徐々に仕事の楽しさを覚え、カメラの素晴らしさを理解していった。
ある日、男が働くスタジオにAは顔を現した。
「久しぶり、調子はどう?」
相変わらずAは爽やかな出で立ちで近況を報告しあった。Aも有名なスタジオで熱心にやっているらしかった。
学生時代によく通った居酒屋で、昔話に華を咲かせたあと、帰り際にAは「一緒にスタジオを構えないか」と男に持ち出した。
男は予想だにしない提案に多少の戸惑いを覚えた。だがすぐにAから持ち出された提案は、とても魅力的に思えてきてもっと詳細を聞かせて欲しいと言った。
Aは経費など諸々の事情を踏まえてまずはお互いに100万円貯めようと言ってその日は別れた。
次の日から男はより仕事に精を出した。というよりもぼんやりとした先の見えない道筋に光が差したような気がしていた。
正直な話、スタジオだけの収入だけで生活していくのは一杯一杯なので、深夜にコンビニのアルバイトもすることにした。
当然、男の体力は無限ではないので、疲労もあったがやはり一秒でも早くAと夢を叶えたいという想いが男の体を動かせた。
隙きさえあればAと立ち上げたスタジオでのことだったり、個展会に胸を膨らませながら眠りについた。
やがて男は半年ほどかけて100万円を貯めることに成功した。
さっそく男はAに連絡をとり、二人は会うことになった。
Aの方も100万円の用意は出来ているみたいで、さっそく二人は空きのスタジオ見学に行った。物件などはAの知り合いが全部用意してくれたらしかった。
男は道中、あれこれと自分たちのやりたいことを熱心にAに話した。普段から寡黙な男だったが、高鳴る興奮を抑えることは出来なかった。
Aはそんな男に優しい笑みで何度も相槌を打ちつつ、様々なアイデアを加えてくれたりもした。
スタジオ探しは、優良な候補が見つかり、予算内にことが運びそうだったので、Aは男に用意した100万円を渡してくれと言った。
細かい経営面は、Aがやりくりすると言ってくれた。男はほっと胸をなでおろした。唯一気にかかっていたことは経営面だった。男は昔から数字などの類は滅法苦手で、願ってもない有り難い話だった。
さっそく男はAに100万円を渡し、次回の打ち合わせ日を決めてその日は解散となった。
男の毎日は希望に満ち溢れていた。そろそろお世話になっているスタジオの先輩にも独立する報告をしなければいけない頃だと思いつつも、もう少し詳細が決まってから驚かせてやろうと思った。
そしてAと初めて打ち合わせする当日を迎えた。
海沿いにある景観の良いカフェで待ち合わせすることになっていた。男は時間より二十分も前に到着し、早まる興奮を抑える為にアイスコーヒーを頼んで待つことにした。
だが、待ち合わせ時間を二十分過ぎてもAの姿が現れることはなかった。
学生時代から真面目なAは、常に十分前行動が当たり前な人で、最低でも五分前には来て遅れてくるのはどちらかと言うと男の方だった。
男は電車か何か遅れたのだろうと思い、Aに「先に待ってます」とメールだけ送って、見晴らしの良い海をカメラに撮っておくことにした。
それから一時間が過ぎた。Aから返信もないことに男は少しずつ怒りを覚えはじめていた。
自分たちにとって今回の打ち合わせはこれからの人生に関わる大切なことなのに連絡も無いとは一体何事か。
男は自分だけが浮かれていたように思えてきてAとの温度差を感じ、電話に出たAに文句の一つや二つを言ってやろうと何度も電話を掛けたがAが出ることはなかった。
そこから三十分経過した。流石の男も何やら様子が変だと思いはじめた。
絵にかいたような真面目で、学生時代に遅刻をするところなど一度たりと見たことがなかったAが待ち合わせにも来ない、連絡もよこさないというのはどう考えてもおかしい、そう思った。
ただの寝坊なんてもってのほかだ。
もしやなにかの事故に巻き込まれた可能性があるに違いない。
男はカフェを出てからAの自宅に向かった。もし万が一にもAが慌ててカフェに向かっていて入れ違いになったらそれはそれで良かった。
男の怒りは心配と不安に変わっていた。
Aはアパートで一人暮らしをしていた。学生時代から変わらずに築年数のあるアパートだったがAは随分と気に入っていた。
男も学生時代に何度かお邪魔したことがあった。若者向けにリノベーションされたオシャレな部屋だった。
男はAの住む部屋の玄関チャイムを何度か鳴らしてみたが、反応はなかった。
相変わらず携帯の方も全く連絡が繋がらい。
その後、一度カフェに戻ってみたり、近くの駅で探してみたが見つかることはなかった。
途方に暮れた男は仕方なく家に帰ることにした。家に帰ってからもAのことが心配で実家はどうだろうと思ったが、学生時代にAの実家は男と同様に田舎にあるらしいと軽く聞いた程度で、どこにあるのかは分からなかった。
たしかAの父親は、Aが小さい頃に病気で亡くなり、その後母親が女手一つで懸命に育ててくれたそうだ。決して裕福とは言えない暮らしだったかもしれないが、Aは自分のやりたいことをさせてもらっている、だから母親には必ず恩返しするんだとよく言っていた。
一年経ってもAから連絡がくることはなかった。あれから何度もAの自宅を訪れたが一向に駄目で、気づけば知らない人が住んでいた。
アパートの大家さんにAのことを訪ねると行方が分からずに姿を消したそうだった。驚くことに荷物も全部置きっぱなしだったそうで、家賃もかなり滞納していたそうだ。
大家さんは許さないと男にAの居場所を聞いてきた。男は足先から力が抜けていき、地面に膝をついた。
要するにAは、男から100万円の金を奪って逃げたのだ。
一年が経った。学生時代の知り合いから男に連絡があった。
『Aのこと聞いたか?』
「聞いたも何もどこにいるのか僕が知りたいくらいだ」
『死んだって……』
「は?」と男は腑抜けた声を出した。
「なんだって」
「だから死んだんだって、A」
変な冗談やドッキリならよしてくれと思ったが、卒業後の打ち上げ以来連絡を一度も取らなかった知り合いがそんなことをしてくるとも思えなかった。
『丸焦げだったって』
「は……?」
『車の中で』
混乱した男はそれから何を聞き返したのか自分でもよく覚えていない。
とにかくAは自分の車の中で丸焦げ死体となって発見されたらしい。
事故でそうなったわけでもなく、自殺か、もしくは他殺の可能性もあるらしいが詳しい原因は不明だそうだ。
だがこれだけは警察の調べで分かっていて、元々Aは消費者金融に多額の負債があったらしく、どうやら他にも怪しい所にも手を出していたらしい。
その後、男はAの葬式に行くことになった。知り合いからの連絡はその為だったらしく、男は行くか迷ったが母親に100万円を請求しようと思い足を運ぶことにした。
遺影にはAが爽やかに笑っていて、男は忘れかけていた怒りが再燃する思いでAの母親の所に向かい事情を話した。
だが母親は口も聞けない状態だった。男が何を喋っても「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と一点を見つめて言う。その言葉尻は常に震えていた。
母親は何年も前から重度の鬱病を患っていたらしい。その理由と息子の焼死体に因果関係があるのかは分からない。
どうしてAのような男が金銭トラブルを起こし、友人を騙してまで金を奪い、挙句の果てに燃えてしまったのかもわからない。
母親は半年後に自ら命を絶ち、この世を去った。
夕暮れの帰り道。男は川に向かってカメラを投げ捨てた。
2022.03.10
掌編・随筆集 文鷹 散宝 @ayataka_sanpo
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