『清兵衛 14歳』

 学校から帰ってきた清兵衛せいべえは、絵が一枚もないことに気が付いた。

「おっかあおっかあ。わしの絵しらんか」

「さあ」

「おっかあ」

 清兵衛は母を強く睨んだ。母はその視線を感じ、言い訳染みた小言を漏らすように俯いて、泣いた。

 清兵衛はすぐさま父の仕業だと睨んだ。これは彼の経験則から基づいた直感である。ここ最近の清兵衛は授業中にも絵を描き、教員に𠮟られたばかりであった。それを母に告げられ、先日こっぴどく𠮟られた。だが母はその事を父に告げなかった。

 きっと母は、二年の前の悲劇を繰り返さない為の配慮だと清兵衛は勝手に感じていた。しかしどうやら様子が違ったようだ。

「おっとうは」

「お仕事」

「わし……出ていく」

「清ちゃん」

「わしはもう邪魔されとうないけぇ。あの時もそうじゃった……わしが何かに没頭するなぁこうもあかんことなんか……わしが好きなこたぁおっかあもおっとうも先生も否定ばっかりじゃ……」

 以前の彼は無類の瓢箪好きであった。

 瓢箪をやめてから二年。彼は絵に没頭する日々であった。鉛筆で風景や物を写生することが何よりも清兵衛を夢中にさせた。

 清兵衛は少ない銭を握りしめて家を飛び出した。あてもなく電車を乗り継いで、来たことも聞いたこともない駅で降りた。辺りの日は落ちていた。

 駅には禿頭のお爺さんが駅員室で眠ってあった。

「駅長さあん、駅長さあん」

 駅長はすやすやと気持ちよさげに眠っている。どうしたものかと清兵衛はしばらく駅長の禿頭をぼんやりと眺めていた。電灯に照らされた禿頭は綺麗な円を描き、眩しい程に輝いていた。ふと、清兵衛には懐かしい思いがこみ上げて、ふっと笑った。

「駅長さあん!」

 今度は怒鳴りつけるように言って、駅長は細い目を開けた。

「すまんねぇ」

 駅長は白くなった眉を下げながら、帽子をかぶり直した。禿頭の輝きが消えて、清兵衛はあっと声を漏らした。駅長は不思議そうに清兵衛を見つめ、見ない顔だと言った。

 清兵衛は近くに宿はあるかと尋ねたら、一つだけあると教えてくれた。

 しばらく田舎道を歩いて宿を見つけた。随分と小さくみすぼらしい宿だった。宿を開けようとして鍵が掛かっていることに気が付いた。戸を何度かノックしたり声をかけてみたが反応はなかった。宿は閉まっていた。これまたどうしたもんかと宿の前であぐらをかいていると、虫の鳴き声がよく聞こえてきた。稲が擦れる音が少し寂しかった。まあるいお月様が駅長の禿頭みたいに輝いてなんだが可笑しくなって笑った。

「……なんじゃ……なんじゃ……わしは絵を描いたらあかんのか……」

 膝に顔を埋めて泣いた。お腹が鳴ってもどうすることも出来ず、また泣いた。そうして一時間も経った頃、清兵衛は眠っていた。

「おい、どうした」

 清兵衛は目を擦り開けるとさっきの駅長であることに気が付いた。

「駅長さあん」

 宿が閉まっていた事を告げると、ここは数年前に婆さんが死んで潰れた廃墟で、宿はもう一つ先にあると言う。

「おめぇさんはどうしてこんな田舎に」

「……わしは家出したんや」

「どうして」

「わしが描いた絵をおっとうが捨てたんや」

「ほう、おめぇさんは絵を描くんか。私も若けぇ頃に少しやっとった」

「駅長さあんも絵描けるんか」

「もうろくに描いとらんけぇ、描けん。お腹すいとらんか」

「うん」

「近くにうどん屋がある」

 この時の駅長は逆光になってよく表情が伺えなかったが、清兵衛は確信した。瓢箪のような頭の人に悪い人はいないと。

 屋台車でやっているうどん屋が近くの川沿いにあって、そこで二人で食べた。それから清兵衛は駅長の家に泊めてもらうことにした。ついていった先にある家は豪家であった。玄関を入って清兵衛を見た婆さんが驚いた様子で「まあ」と声を出した。

「どうしたんです、あなたこの坊や」

「家出したんじゃって」

「まあ。とにかくおあがりんさい」

 婆さんは清兵衛に理由を聞くこともなく、風呂に入らせて、息子が使っていた空き部屋に案内してくれた。

 清兵衛は湯気を冷ますように部屋でぼおっとしていた。外から虫の泣く声が聞こえてきた。ふと箪笥の隣にある本棚に一つの瓢箪を見つけた。よく見るとそれは懐かしい感じがした。もっとちゃんと見ようと手に取って驚いた。

「これ、わしの瓢箪や……」

 清兵衛は慌てて部屋を出て茶の間で本を読んでいた駅長を呼んだ。

「駅長さあん、駅長さあん」

 駅長は驚いた様子で眼鏡を外して清兵衛を見た。禿頭が瓢箪のようにつるつると光っていた。

「瓢箪。この瓢はどこで見つけたんや」

 駅長は再び眼鏡をかけて、清兵衛が持っている瓢箪を見て「ああ」と随分と懐かし風に言った。

「息子にどがぁしてもとせがまれて仕方のう誕生日に買うてやったんや」

「買うた」

「ああ。骨董屋で」

「これわしの瓢や。わしが作りあげた瓢や」

 駅長はまさかと清兵衛の顔と瓢箪を行き来するように見た。

「瓢箪をか」

「そうや」

 駅長は深く頷き「けどおめぇさんは絵を描く人じゃねぇのかい」と聞いた。

「二年前まで瓢にこってたけのう。おっとうに全部叩き潰されて、先生にもこのままやったら将来見込みない言われて、瓢はやめたんや。それから絵や」

 ほう、と駅長は禿頭をさすった。

「おめぇさんの言う事はどうやら噓やないじゃげな」

「信じてくれるんか」

「息子が無類の瓢好きでな。わしと婆さんは瓢なんぞなんも分からけぇ、不思議そうに息子が瓢に凝ってるのをみとったんや。ある日、息子がどこぞの骨董屋でその瓢を見つけて、こりゃ凄いんやって喧しい程やったわ。その時の目が似とるけぇ」

 駅長はどこか嬉しそうに続きを話した。

「どうしても欲しいんじゃ言うてしつこくらいじゃったけのう。いくらやって聞いたら六百円やって」

「六百円! 本統に」

「ああ。わしらからすりゃ瓢なんぞに六百円もかける価値が一つも分からんきに、それでも息子がこれは凄いんやって」

 婆さんが奥から出てきて二人に茶を出してくれた。清兵衛はそれを一口啜った。

「そんな、瓢好きがなんでこの瓢を置いてったんや」

「仕事で田舎を離れる時に、この瓢だけは一番大事やけぇ置いとってくれ。また取りに来るときの楽しみやさかい言うてたわありゃ」

 清兵衛は不思議な気持ちになった。一度切れたはずのえんがこうした形で再開するとは思いもしなかったのだ。確かにこの瓢は学校の先生に取り上げられた瓢であるのだが、それに気付いた自分にも驚いていた。

「でもどないしてこの瓢が骨董屋で売られたんやろか。こりゃ学校の先生に取り上げられた瓢や」

「さて。そりゃあわしにも分からんけぇ」

 清兵衛は部屋に戻って瓢を元の場所に戻した。電灯を消して床に入ってしばらく両親の事、瓢箪の事、絵の事、これからの事を考えているうちに眠った。

 翌日、朝起きて朝食をとり、婆さんに礼を言って駅長と共に家を出た。田舎道を歩きながら清兵衛は聞いた。

「駅長さあんはどうして絵をやめたんや」

「そがい上手うなかった。おめぇさんはなして瓢をやめた?」

「……瓢も絵も対して変わらん。あん時は、わしが学校まで瓢持ってやっとったからおっとうが怒ったんや。最近の絵もそうや。いつもは別になんも言うてこん」

「そうか」


 清兵衛は家に帰って、両親に謝った。その時に母の腹に児がいる事を知らされた。

 清兵衛は数年後、瓢箪と絵を使った芸術に没頭することになる。



『清兵衛と瓢箪』志賀直哉より。二次創作故、稚拙な部分はどうかご容赦願う。


 令和2年五月十六日

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