『R20』
珈琲の残り香がリビングに漂う。トーストがカサカサになっていく。締め切った筈のカーテンの隙間から、朝の陽射しが漏れ出している。それを確認した私はちっ、と誰の前でも見せたこともない粗暴とも粗悪とも呼べる舌打ちを打つ。
さて、三人の子供たちは学校へと行った。旦那も同じく慌てて用意した朝食に一口もつけずに忙しなく会社へと出勤。ちっ、せっかく用意したんだから食べていきなさいよ!
ダメ。ダメよ私。落ち着きなさい、春子。今年四十二の女。いえ、女なんていいものじゃない。雌を失った人。それはなんていう人? あら、ついつい、ごめんあそばせ。
そうそう私は、この時間の為に全てを注いでいるのではなくて。と私は今にも乱れた精神を押さえつけようと深呼吸。繰り返すこと三度。
ふぅ……私は家族に内緒で、毎朝いそいそと駄文を残すことを習慣にしている。この令和たらんご立派で、大層立派なご時世になって、なんと! 尻もむけられない行為を度々繰り返しているのだ。コラム、手記、自叙伝の足元にも及ばない。近所の山中さん辺りに知られでもしたら羞恥のあまり死んでしまうわ。
はぁ……罪深き也……はぁ……これぞ蜜の味よ……。
では、本日もお日柄よくて……午後からは雨よ……私は日本の教育が昔から嫌いだったの。でも今は少し好きというよりは認め直しているの。最近図書館で太宰や芥川の本を読む機会があってね、ああ、確か昔、それは遥か昔よ、ホント回顧するのも面倒な遥か太古の記憶のなのだけれど、国語の時間によ、『走れメロス』や『羅生門』を音読したりする授業ってあったじゃない。そうあのとてもつまらない筈の授業。私は別に文学少女って訳でもなければ、小学生の時は陸上俱楽部に入って、中学生の時は吹奏楽部で残り物みたいにオーボエ担当になってね……リードも中学生にしては偉く高いしね……メンテナンスも面倒くさいのよ……なんでオーボエなんか……でね……私はオーボエが好きなのだけれど……『走れメロス』ってなんか面白かったのよね。内容とか覚えていないだけれどね、何故か面白かったのよね。でも最近図書館で読み直す機会まで一ミリも思い出すことなんて無かったのだけど、妙に面白かったのよね。でも今思えば太宰も芥川も自殺してるじゃない? あれ違うかったかしら。まぁいいわ、彼らなんか自殺してそうな雰囲気あるじゃない。写真とか見てもさ、あぁ、自殺してそうねとか。でね私思ったの。日本って、いや世界的にも自殺は否定的なものじゃない。確かにそうじゃない国もあるのかしら。世界は広いわ。あるかもね。
まあそれでね、何故彼らみたいな自殺者が書いた小説をこの国は、国語の教科書に載せているのかしらって。だってそうじゃない。もしこれを読んだ純粋なチルドレンたちが作者に興味なんてもってみなさいよ。発狂して自殺してしまうでしょ? 令和のご時世には稀かもしれないけど……けどね、あの『文学チルドレン』なんかになってみなさいよ。もう、面倒くさいわよ――死や性に夢中になってね……ほらこの前なんか中学生の娘とね、あ、次女よ、とね、図書館に行ったのよ。そこで娘の同級生がいたの。もう如何にも文学青年って感じの子だったわね。丸眼鏡かけて、髪はさらさらお坊ちゃま刈り。学ランに皺ひとつないし、ボタンもきちっと締め切ってね、もう傷一つない感じ。あら、文学青年というより、いいとこのお坊ちゃまじゃない。確かに文学青年ってもっと『薬』とか『性』とか『精神病』が前に先行しちゃってて、瞳の奥とかギラギラしてそうよね。目に入る女全員『雌犬』に見えてそうなくらい。でもその子の瞳は逆だったわね。何もかも失望してそうな黒い黒いカラスみたいね瞳。あら、カラスの眼って黒いのかしらん?
娘がね、「何読んでるの」って尋ねたら、その文学青年君はビクッとして無言で本を差し出して表紙を見せたのよ。
『男友だち 女友だち(楽しみと冒険2)』だったの。勿論私も娘も知らないわ。
でその帯には、
『遊び時間のない生活なんて
つまらない……
大人の交友!
友だち――この奇妙な存在、危険な関係』
って書いてあるのよ。ぷっと娘が笑いを堪えながら「これどんなお話?」って文学青年君に聞いたのよ。分かるの。娘だからかしらん? 多分娘はあの時、お前が? とか大人の交友? やっぱりお前が? とか思って吹き出しそうだったのよ。我が娘ながらその嘲笑が少し寂しかったわ。成長してるのね。子供って……。
文学青年君は恥ずかしそうに俯いちゃったの。シャイなのね。私が「いいじゃない何でも。ほら読書の邪魔しちゃ悪いし、ごめんなさいね」と文学青年君に言ったの。
そしたら文学青年君が私の方を向いたの。ぽーっと私を見てるの。こういう言い方はあまりよろしくないのだけどなんていうか、間抜けだったわ。その間抜け面の頬に、じわじわ赤みが帯びていくのよ。文学青年君は娘になんかもう見向きもしないでね、私の顔と膨らんだ胸元ばかり見てるのよ。こっちが恥ずかしいくらいだったわよ。でその文学青年君はすぐにふさぎ込んじゃって。私たちもその場を去ろうとしたの。
「…………文学青年という奴は……どうしてこうも不愉快な……代物ばかり……揃っている……の……だろう……」
凄く可愛らしい声だったわ。きっとこの子のお母さんも可愛いらしい声なのね。
娘は「何それ」って濁声で聞いたわ。きっと私が悪いのね。
その後の文学青年君の声は小さすぎて覚えていないのだけれど、佐藤春夫がどうとか太宰治がどうとか、でも文才は認めているとか何かそんなこと言ってた気がするわ。私たちはその場を後にしてね。少し歩いてから私、最後に文学青年君の方を振り返ったのよ。何故だと思う。
私にも分からないわ。でも珍しかったのよね。懐かしかったのかしら。この令和のご時世にあんな古い本読んでいる子がいるなんて。文学青年君はずっと私のお尻か下半身を見てたのよねきっと。だって振り返ったら文学青年君の目線が下から上に上がったのよ。黒い黒いカラスみたいな瞳は少しギラギラしてたわ。ああ……この子もやっぱり文学青年なのね。私は軽い会釈をしたわ。帰り際に娘は濁声で言ったわ。「変なコなの!」って。
あれからカラス君には一度も会ってないわ。
彼は被害者なのかもね。きっと教科書に載っていた文学青年の小説を読んで似ちゃったのよ。でもカラス君が将来、凄い小説家になるかもしれないわよね。けどもしかしたら自殺とか心中をしてしまうかもしれない。私、やっぱり日本の教育って好きじゃないわ。
でもいつか理科や算数のお陰で凄い科学者や数学者の類が生まれたり、体育のお陰で金メダリストが生まれるかもしれない。確かに専門的分野が学べる訳ではないけれど、こうやって私が駄文を残すきっかけで太宰や芥川を読み直す時にだって、ああ、遥か太古に読んだなあと思い出したり、つい手に取りやすかったりするのは、専門的分野の導火線を広げてくれる日本の教育はやはり素晴らしいのかもしれないわね。
だけどそう簡単に軽視してはいけないわ。日本の教育において最重要視されるのは、こう言った導火線分野の学業であって、それを生かす為の頭脳は評価されない。そして普通とは何かを空気感で学ばなくてはいけない。だからどれだけ導火線を勉強しようとそれを活かす頭が無い子は結局宝の持ち腐れになる。人間の頭には二つのポケットがあって一つは導火線を蓄える脳。蓄え脳と呼ぶわ。もう一つはそれを活かす脳。活かす脳と呼ぶわ。
前者は日本の教育で養える。後者は社会において養える。では後者を学生時代で学ぼうとするとどうなるのかしら。
まず闇が足りないわ。社会の闇や歪みが足りないせいで軽い黒が出来上がる。それじゃ活かす脳は養えない。だけど本を読むことでそれが少し歪んだ形で養える。だから文学青年はカラス君も言ってたようにいつの時代も不愉快な代物が生まれるのかもしれないわね。
やはり活かす脳を鍛えるのは自然の成り行きに任せるしかないのかしらん?
その者が持つ性格、思考に委ねるしかないのかしらん。社会に出て色々な物事を感じて学んでいくしかないのかしらん。私はそれでもいいと思うし勿体ないとも思う。でもそれじゃ平等な教育にならないかもしれないわね。活かす脳は余りにも能力差、個体値の境遇や環境にも左右される。では今の私は皆と平等なのかしらん? 他人を秤にかけたら私のほうだけ沈まないかしらん?
あれれ、なんで平等じゃないといけないのかしらん?
はぁ……疲れた。ねぇ聞いて、私の娘たちなんか吞気なもんよ。部活から帰ってきて、あ、次女の話なのだけれどね、水泳部なのよ。帰ってきたらお風呂にも入らずにソファーに寝転んで「おかーさんご飯まだー」とか言ってアニメばかり見てるのよ。制服も皺だらけ。いつも注意するのだけどハーイとかへーイとかの空返事だけ。お尻ポリポリかきながら今いい所だから静かにしてとか、それよりご飯まだーとか今日の晩御飯なにーとかしか言わないのよ。
馬鹿な娘よ。可愛い所もあるのだけれどね。結構馬鹿よ。
もうね、こんな主婦が戯言をすらすらと書き綴ること事態が今になって恥ずかしくなってきたわ。今頃よ。私も馬鹿ね。本当、困った私。おかしな私。あ、そうだわ! 思い出した! 思い出したのよ!
そうそう、昔おばあちゃんに言われたのよ。おばあちゃんがね(もう亡くなってるのよ)『春子は器量が普通だから活かす脳を鍛えなさい』って。
今思えば失礼な物言いだこと。
はぁ……私も馬鹿よね。こんな駄文を残す為にもう四千文字も書いてる。我ながら呆れたお猿さんだわ。
やっぱり活かす脳を鍛えるには、未成年者には早いのかしら。これがご立派な平等思想なのかしら。娘を思い出すとそんな気もするわ。恋も勉学も運動も堪能して器を広げるのも大事なのかもね。もしそれで娘の活かす脳が良くならなければ精々現在の私のようになるだけだわ。
あれ、娘って恋とか知っているのかしらん?
2020.4.22
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