第44話

 ベランダに置かれていた缶ビールはずいぶんと悪くなってしまっていたようだ。少しばかり膨張しているし、グラスに注げば泡は目減りし、匂いもひどい。製造元を確認すれば、安価だが粗悪な製品を作ることで有名なメーカーの、消費期限がギリギリのものばかりだった。「ポルーフのファットマンめ」と亡き友人に悪態を吐きながら、グラスに開けた分を除いて、すべて捨ててしまった。


 先の戦いのせいで、あまりに多くのものを一度に失ってしまったせいか、彼は自分の心に大きな空洞ができてしまっているように思えた。そしてその空洞は風通しが非常によく、心地よさと強い孤独感を際立たせるものだった。


 これからするべきことについて、ランクトンは具体的なことは何一つ決めていなかったが「何もしない」ということは避けたかった。ほとんど自分のことを戦死体のように考えていた彼だったが、ただ、漠然として繰り返される戦争や救いようがないほど情けない平和に対して暴力的な爪痕を残してやりたいという気持ちがあった。


 そして、ここまで自分と自分のバディたちを苦しめたジャック・ルイスリーという存在をこの世に放っておくこともまた、許せるものではなかった。


「俺は……これからどうすればいいのだろうか?」


 ランクトンの活躍によって最低最悪の数値を記録していた世界平和指数はあれから十ポイントほど回復した。一部の人間はランクトンを英雄視する声をあげている。しかし、それを素直に喜ぼうにも、彼はあまりにも血に汚れすぎてしまっていた。


 街ではまだ暴動、デモが広がっている。ジャック・ルイスリーが倒されたとしても、社会の不安やDOGsに対する不信感はすぐに拭い去ることができるものではない。けれども、彼らの怒りはいずれ薄れ、すっかり忘却されてしまうだろう、とランクトンは確信めいた予感を持っていた。


 またいずれ世界平和指数は九十八程度、少なくとも八十へと、長い時間をかけて戻っていく。そして百に近づけば——意図的か自然発生するのか、それはわからないがどちらにせよ、ともかく——混乱が起こり、数は減少する。世界はバランスを保っていく。太陽と月が交互に入れ替わるように、混乱と平和は繰り返される。


 考えれば考えるほど、自分の浅学さや無能さに嫌気が刺してきた。ビールの不味さも相まって、ストレスが溜まるだけだった。椅子に座らされたカエサレアの遺骸は、ピクリとも動く気配を見せない。 


 彼女は死んでもいないし、かといって生きているわけでもない。肉体は存在していても、魂は存在していなかったことになっている。そう説明されたものの、形而上的な概念を理解するのは難しい。


 ややこしい理解や、遺骸の管理を省くための焼却処分の道をDOGsから勧められたが、とてもそんな気にはなれない。彼は現状の理解を諦め、ただ純粋に戻って来ることを期待することにした。


 人間の話では、植物状態から回復したケースはいくつもある。長い期間では三十年間の眠りから目覚めたケース。十年。半年。回復までの期間は様々だ。意識の回復に前例がまったく無いわけではない。カエサレアの無意識においても多重の倫理回復プログラムや修復プログラムが——彼の見えないところで——行われている。これによって沈黙状態のAIが再起動した例も多くある。


 もちろん、回復した例よりも回復しなかった、あるいは諦めた、安楽死させた例のほうが遥かに多いのだが。


 ビールの不味さに耐え切れず、ランクトンはそれをシンクの中へと捨ててしまった。思い返してみれば、カエサレアとこれを飲んだ時、自分は完全に味覚が麻痺してしまっていたのだろう。としみじみと感じていた。あの時はジャック・ルイスリーにコテンパンに打ちのめされ、恐ろしくナイーブな気持ちになっていた。


 瞳を閉じると、ランクトン自身の中に、獣性とも呼ぶべき本能があるのを感じていた。それは、熱を持っていて、次の闘争を待ち望んでいる。平和のための闘争をたしかに待っている。野生の本能と呼ぶべきか、抑えきれない加虐心と呼ぶべきか——それは彼にとって些細な問題で、重要なのはやはり「今後、どうするべきか」という一点のみだった。


 始めから社会や日常、平穏。そう言った言葉に馴染むことができないのは彼自身がよく知っていた。今後も第二、第三のジョージ・ファーディのような人間が現れ、それに精神をかき乱される。彼はおそらく、ジャック・ルイスリーなりの平和の象徴だったのだろう。ジョージ・ファーディを受け入れることができないのならば、「何もせず、平穏に過ごし、カエサレアが目覚めるのを待つ」という選択肢は彼の心からすっかり消えてしまった。


 彼が選んだのはシンプルで、できる限り慣れ親しんだ道だった。

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