3章

第43話

 センサーがランクトンの起床を感知する。


「おはようございます。ランクトンさん。就寝から八時間十二分。随分と長い睡眠でしたね。メディカルケアを起動しますか——?」


「いらない」


「かしこまりました。それでは本日のニュースを伝えさせていただきます。本日の世界平和指数は五十八。最高気温は二十三度、最低気温は十八度——」


「ニュースもトレンドも結構だ。しばらく静かにしていてくれ」


「かしこまりました。御用の際には『ルームシステム』とお呼びください。スリープ状態へと移行します」


 ルームシステムがそう話すと、部屋はふっと静かになった。窓を見ると、シティにしては珍しいことに霧が晴れていて、遠くまで外を見通すことができた。暴動と混乱は続いている。アンセムによる武器の流入が始まり、一般市民でさえも銃を手にし始めている……そんな根の葉もない噂まで広がり始めていた。


 ただ、もはやランクトンにとってそれは——つまり平和も混乱も——どうでもよいことになってしまっていた。それよりも明日の暮らしと、漠然とした将来の不安に襲われる。ゆっくりと窓のサッシに手をかけてベランダへと出る。外の空気は冷ややかで、風が彼の頬を撫でるのを感じることができた。


「カエサレアの遺骸はバディであるあなたに一任します」


 医療チームの一人である、初老の男の言葉を思い出した。ランクトンが目を覚ました時から包帯と名前の知らないパッドのようなものを頭に巻かれていた。気になってそれに触れようとすると「あぁ、それ。触らないでくださいね」と軽くたしなめられる。


「どうして俺が彼女の遺骸を引き受ける必要がある?

 DOGsの規定では隊員の遺骸、遺体は親族か関係者に帰属されるはずだ——引き受け人がいない場合はDOGsの責任管理下のもと弔われる……少なくとも、そこに俺が関わる余地はないだろう」


「お詳しいですね」


「嫌な話、何度か経験がある」


「それは……失礼しました。ただ、今回はそういった事例と比較すると事情が少々特殊なのです」


「特殊?」


 男は頬をかくと、机に置かれたディスプレイを操作する。今まで表示されていた電子カルテから陽電子脳学の論文へと画面が切り替わった。それはひどく古いものではあるが、決して無名のものではない。むしろ古典としばしば評されるものだった。


「失礼。すこしばかり確認を。生命倫理というものはあまりにもあやふやで、曲解されやすく、誤解を生むものですから」


 そう言って男がディスプレイを睨む。そしてランクトンの方も、この論文を見て、何も連想しないほど無学ではなかった。彼は訓練兵時代に一読したことがあった。交戦規定におけるアンドロイドの対処において重要な論拠とされていたからだ。


「つまるところ、彼女は脳死状態というわけか?」


「正しくは『植物状態』というべきでしょう。我々の世界では専門用語に対して非常にセンシティブで……あぁ、話を逸らすところでした。脳死と植物状態の違いをご存知ですか?」


 医療チームの男が出した問いかけにランクトンは首を振り答えた。


「言葉の使い分けは自律擬似神経、あるいは知能そのものの破損状況によります。ただ、それ以上に——あなたにとって関係することは——復帰するか、しないかの違いなのです?」


「彼女は死んでいないのか?」


「えぇ、誤解を恐れずに言いますとそうなります。この現実という空間に、自分という存在を定義できていないだけなのです。


 あなたの供述が完璧に正しければ、という前提ですが——彼女はブラフマと強く同化してしまって、現実に戻れない状況が起きています。これは非常に難しい問題なのです。


 ランクトンさん。もしあなたがこの世に存在しなくなったとして、そこからあなたが存在していたと定義することが可能ですか?」


「うん……? すまないが、よくわからないな」


「それも無理はありません。これは一種の病題のようなものです。


 電脳区域であなたが死んだとしても、現実のあなたが死ぬことはありません。なぜなら、それはもちろん現実のあなたは生きているのですから。けれども今回のケースはそういうわけではありません。『カエサレア』という存在がブラフマAIと同化しかけてしまった。もう『彼女』はどこにもいないのです。ただもしその『いない』から『いる』を仮定することができれば……ランクトンさん?」


「待ってくれ、頭が痛くなる」


 そう言って彼は男に仮定を飛ばし簡潔な結論を求めた。


「彼女は——それはおそろしいほど低い確率ですが——生還する可能性があるのです。少なくとも、死んだ。と断定することが我々にはできません。だから、今現在は、あなたに一任する。それがDOGsの取り決めです。おかしな話だとお思いでしょうが、察してください」


「はぁ、参ったな……」


 ランクトンはそんなことをぼやきながら頭を撫でる。

 DOGsの医療チームは彼の傷をほとんど完璧に治してしまった。ただ、同調チャネルのオーバーフローによる脳のトランス状態が、人間に第六感のような機能をもたらす現象を除いて。


「DOGsとしてはまったく新しい経験というわけではないのです。同調チャネルがそのような現象を引き起こす可能性があることは、数年前から明らかにされていました」


「治らないのか?」


「治療することができないのです。あなたは本日付でDOGsから除隊となります。DOGsに属していない人間は基本的に医療チームによる手術を受けることはできませんから——本来ならば記憶処理などを施すことができますが、かなり高額な治療費が施されます。DOGsに属している人間は世界政府から補助金が出ますが……」


 男は頷く。世界政府か、とランクトンは喉に引っかかるところがあったが、それきり彼から質問することはなかった。ただ、別れ際に男の方から、ランクトンに一つだけ質問された。


「世間では、脱獄犯であるジャック・ルイスリーを追い詰めたあなたのことを英雄視する人間もいるそうですが、いったいなぜ、そこまでの名声を得ながらDOGsを去ることを決めたのですが?」


「君はまるでジャーナリストのような口ぶりだた」


「失礼。ただ純粋に個人の興味ですよ。ディスプレイの向こう側の住人に暴露するつもりはありません」


 ランクトンは手を顎にあてて少し考えるそぶりを見せる。ジャック・ルイスリーが逮捕され、自分の役目が終わったからだ、と言うのは簡単だった。ランクトンの見てきたものが正しいのならば、ジャック・ルイスリーは今後繰り返される闘争のために、世界政府の手によって解放されるだろう。少なくともそれは、誰の目にも映らない形で、行われる。


 ジャック・ルイスリーという存在がいるかぎり、それを抑止するDOGsが役目を終えることは決してない。平和という名前の停滞——ジャック・ルイスリーはそう呼んでいた——を避けるために、世界政府とブラフマは画策し続ける。血の流れない日は永久にやってこない。ドゥームズデイとは珈琲が溢れることだけではなく、まったく冷めてしまうことも指している。


「ただ、疲れてしまっただけだよ」


 長い逡巡の末にランクトンは自分の本心の一端を目の前の男に見せた。男はしばらく無言でそれを受け止めると、「お大事に」と言って彼の背中を見送った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る