第42話

 ランクトンは薄暗い闇の中で手を前に突き出し、もがいていた。そこにわずかばかりの光しかなく、自分の姿ですらも定かではない。何かに囚われてしまって、体がうまく動かすことができない。


 彼の意識は深く静かなところへと潜行してゆく。暗がりは深みに嵌るほどに濃くなり、わずかな光の輪郭が次第に明確化してゆく。


 あれは、星か? とランクトンは目を開いた。その認識が間違いであると、気づくのはそのすぐ後だった。銀河が目を開いてランクトンを見ていた。彼は多くのことを知らなかったが、その銀河の目こそブラフマであると悟った。


「何を見ているやがる」


 ランクトンは思わず声を出してその瞳を非難した。その瞳を見ているだけで、彼には怒りが湧いて出る。己の体を捉えようとする、実体のない闇を振りほどきながら、その瞳に近づこうと足を動かす。しかし、大地を踏みしめる感触がランクトンにはなかった。


 ただ巨大な瞳が彼を見つめている。ブラフマ。オリジナルの存在は創造神の一つに数えられるという。四つの口を持ち、四つのヴェーダを築いたとされる——そんなものは名前ばかりだ。お前は神の名前を騙っただけの悪魔の機械にすぎない。ランクトンはもう一度、目の前の瞳を非難しようとしたが、口は空気を吐き出すばかりで何も音はでない。ここに来てようやく、自分が夢を見ていることに気がついた。それもただの夢ではない。おそらく、同調チャネルがランクトンに見せている空想。ブラフマAIによるイメージ。


 めぐるめく闘争の歴史と生命の輪廻が現れる。一つ一つの歴史のページがめくられるように、目の前に映し出されている。目の前の瞳がランクトンに見せているのだ。その連綿と映し出される闘争のイメージにはランクトンにとって見覚えのあるものがあれば、あまりにも使われている兵装が古いものがあった。


 ランクトンのすぐ隣を銃弾が走り、見覚えのない兵士が倒れる。その姿が彼の閉じ込めていた記憶にフラッシュバックし、思わず目眩を引き起こしそうになった。土と地の臭気。捲れ上がる大地。


 次第に苛烈な闘争のイメージがフェードアウトし、平和のイメージが訪れる。トーストを齧る親子。新聞を読む男。ラジオ。ヘルパーロイド。談笑。そしてそれら爆発によって尽く消滅する。世界は闘争とともに進歩してゆく。ブラフマAIがこれからの未来に綴ろうとしている世界はそのようなものだった。完全に管理された闘争。そのリングに上げられたDOGsとアンセム。


 くだらない。とランクトンは今すぐにでもこのような空間から抜け出してしまいたくなった。そして、そうすることはとても容易い話だった。ちょうど同調チャネルを閉じるように、彼の開いていた第六感も閉じてしまう。ディスプレイの電源が落ちるように、その瞳も、そこから映し出されるイメージも消え去ってしまった。


 そう、それでいいんだ。俺はそれでいい。ランクトンは自分に対して自分を評価する。もはや彼にとって平和もそれを害するアンセムも、些細なことでしかなかった。聞けばカエサレアを始めとするバディが悲しむかもしれないが——もはや彼は完全に戦意を喪失してしまっていた。


 しばらく彼は何もない空間を彷徨っていた。そこには光も闇もなく。ただ自分と、それから動く見えない何かがあるだけだった。肌はひび割れ、感覚は次第に麻痺していく。螺旋状に落ちていく感覚の中、ランクトンは彼自身に呼びかけた。


「ほら畜生。瞳を開けよ」


 ランクトンは誰かの声で目を覚ます。眼前に広がる光景はあまりにも見慣れた景色だった。低い天井、青く光る照明。見なれた自室。強いて違う点を挙げれば椅子には自分の元バディ、カエサレアの遺骸が座っている。

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