第41話

「やはり君は凶暴な獣だ、ランクトン。俺は人間がお前のようにあるべしと思っているよ。平和なんていうものはただの退化さ——思想は多様化の下に画一化される。安易で安直なエンターテイメントが量産され、ディスプレイの向こうの役者に自分を重ねては、無敵感と幸福感を得るだけ……ジョージ・ファーディを好むシティの衆愚はその良い例だと思わないか?」


「死より不幸なことなどこの世にあるか?」


「俺は死と同じくらい平和による停滞が恐ろしいよ——そしてブラフマは俺と同じ結論に至っていた。その顔、ブラフマの開発者や管理者がそのような事態を想定していないはずがない、と疑っているな。ハハ、それがこの話の肝でもある。ランクトン、俺の見立てが正しければ、俺たちは世界政府の掌の上で踊っているだけなんだよ」


 ランクトンは苦痛で顔を歪める。頭部の出血に加えて、足の甲まで銃創を負ってしまい、意識が次第に朦朧としてきた。ただ、ジャック・ルイスリーの弁舌がうまいのか、朦朧とした中でも彼の言葉はランクトンの耳にクリアに聞こえる。


 ヘカテログは世界政府が記録するブラフマの思考解析データだとジャックは話す。このログによって世界政府はブラフマの思考にノイズやバイアスの有無を確認するという。だからこそポールフは殺されたのだ、とジャックは彼に話した。ヘカテログには確かにバイアスがあった。そしてそれはアンセムを容認してしまうような危うさが内包されていた。それにも関わらず放置されているのだから、これは恣意的に世界政府が見逃している他ならない事実だという。


 その事実を受け止める気には到底なれなかった。それよりもランクトンは静かに冷たく、目の前の男をどう殺してやろうか、それしか頭にない。もう全てがどうでもよくなってしまった自分がそこにはいた。世界政府にもDOGsにも失望していた彼にとって、ジャックの言葉は衝撃の事実というよりも、自分の厭世を助長するだけでしかなかった。彼は重い体に鞭を打ち、のそりと立ち上がる。


「もう立つな、ランクトン。その行為に何の意味がある?


 俺たちの対立はブラフマAIと世界政府によって仕組まれた、文明のための闘争でしかない。世界平和指数はただの飾りだ。あれが百になったところで、ドゥームズデイが別の形で訪れるだけだ」


 もはやジャックの言葉はランクトンにとって響くものではなくなってしまった。彼はどこまでも全体主義的であり、ランクトンはこの騒動を経て、畜生に、エゴイストに成り下がった。


「ジャック・ルイスリー。お前にはどうやら人の心がないらしい」


「何?」


「俺にとってはもはや、世界のことなぞどうでも良い。お前は俺のバディを殺し過ぎた。お前は俺を痛めつけた。お前は俺にとっての障害だ。お前が死ぬ理由など、それで十分なのさ」


 ランクトンは色々と思考を巡らせたが、目の前の男を殺すには特別な道具も用意も必要がないと気づくのに、いささか時間がかかりすぎてしまった。


 ジャックは自分に向いている殺意に気づき、とっさに銃口をランクトンの眉間へと向けた。ランクトンは暴走した同調チャネルを介して——ちょうど野生動物の持つ第六感ように——相手の思考を読むことができた。銃弾は何もない場所へと飛んで行き、二人の距離はほんの二三メートルしかない。


 ランクトンの両腕がジャックの頭へと伸びていく。この時、ジャックはランクトンに対して純粋な恐怖心を抱いた。首を折られて死ぬヴィジョンが明確に彼の脳裏に描かれる。体は金縛りにあったように動かなくなり、瞳は閉じることができない。


 ジャックの視界に映るランクトンの動きはスローモーション・ムービーのようにゆっくりとなる。ジャックの首に、ゴツゴツとした左手が触った、右手は頭頂を掴もうとしている。しかし、ジャックの命を奪おうとするランクトンの動きは突然停止した。それからすぐに彼は後ろを振り向き、入り口の方を確かめようとしていた。


 閃光と重力の喪失。次の瞬間、ジャックが感じることができたのはその二つだけだった。しかし、同調チャネルが完全に開いた彼は、それに加えて第三者の思念を感じ取っていた。

 爆発によってランクトンは壁に打ち付けられる。平衡感覚を失った上に体のどこかが完全にダメになってしまったのだろうか、立つこともままならない。


 それはジャックも同じようで、ランクトンの視界の隅には床に臥せった彼の姿があった。


「邪魔をするな! 邪魔をしないでくれ!」


 ランクトンは思わず叫んだ。その叫びをかき消すかのように、ブブーツの踵が床を叩く音が狭いサーバールームに響きわたる。


「対象確認しました。捕縛します!」


 若い男の声がランクトンの耳に入る。DOGsの隊員であると、彼は確信していた。近隣の通報を聞きつけたのか、それともそもそも、自分たちの行動が筒抜けだったのだろうか。その理由は定かではないが、ジャック・ルイスリーはDOGsの手によって捕縛される。目の前に用意されていた皿が下げられた時のような気分にランクトンは陥った。もはや叫ぶほかない。


「邪魔をするな……そいつは俺が殺さなければ」


 しかし、叫ぼうにも声は掠れて、狭い部屋でさえ響くことはなかった。無情にもジャックは隊員によって捕らえられ、ランクトンは保護、カエサレアの遺骸は回収される。うわ言のように、ランクトンは何かを話すものの、彼を保護する隊員どもは何一つとして気にとめる様子はなかった。それどころか、アンセムの幹部を一人で追い詰めた彼に対して、一種尊敬の眼差しで彼を見ている。ランクトンは怒って暴れ狂いたい気分だった。しかし、体のどこにも力が入らず、意識は次第にまどろんでいく。

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