第39話

 エレベーターの小窓は連続したシーンを映し続けている。それはまるで映写機のようだった。自分の手のひらへと視線を移すと、それは血にまみれていて、ガラスのような破片が刺さっていた。彼は無意識のうちにそれを引き抜く。痛みは無い。それ以上に自分の頭を苛む鈍痛の方が深刻だった。


「——クソ、どうして俺は今まで忘れてしまっていたのだろう」


 ランクトンは思わず頭を抱える。口元をなぞると自分の口角が上がっている様子がありありと想像できる。自分は今まで忘れていたのだ。平和の過程にある闘争を享楽していた。本来ならばそれはあってはならない感性だと言うのに。感情が高ぶると、近くの同調チャネルと勝手にシンクロを起こしてしまう。シンクロが発生する理由はわからないが、バディを失ったのは、それが原因だった。


 どうして今まで忘却していたのだろう——その理由は彼にとって明確だった。戦闘後の記憶処理のせいだ。あれのせいで彼は自分という存在を測り間違えていた。


 平和を求めるという規律と闘争を求める衝動の間に葛藤が生まれ、彼は軽い目眩を覚えた。今までの行動や見えていたはずの光景、自分の発した言葉が、先ほどの行動一つで意味が変容していく。


「俺の今までの行動は——おそらく無意識のうちに——闘争を情緒するための行動だったんじゃないのか?」


 彼は自分の疑問を口にする。すればするほど、それは悪魔のようにとりつかれたような猜疑心となる。ジャック・ルイスリー、彼が人間は本質的に獣だと悟ったのは、これと近しい根拠があるからではないだろうか。だんだんと平和から思考が離れていく。彼が発した言葉の、一つ一つの論拠が違うところへとスライドしていく。


 ゴーディの方が正しくて、俺は暴力へと誘導していたのではないだろうか。ジャック・ルイスリーと俺は、実は同じところにいるのではないだろうか。


 そんな葛藤とは裏腹に、エレベーターはなんの障害もなく上へ上へと登っていく。カエサレアの安否を確かめ、できることならばブラフマとの接続をやり直さなければいけない。


 <カエサレア、応答してくれ。こっちは全部終わって、エレベーターに乗り込んでいる。三十秒後にはそちらに——>


 そう言いかけて彼は口を閉じた。彼女が生存しているとはとても思えなかったからだ。彼の心のそばには深い悲嘆が存在する。ただし、彼はそこに浸る気分にはなれなかった。彼女は少なくとも、平和を求めて平和のために行動をしたからだ。淡水で生活する魚が海で生き延びることができぬように、信条が違うのならば、彼にとって自分は、彼女の機能停止を悼むことはできても、同情する権利がない人間だった。


 ふと、視線の先に化け物がいるのに気づいた。醜い動物が。血まみれの顔、見にくく歪んだ顎、血に濡れた髪の毛。エレベーターの照明に反射してそれはてらてらと輝いている。


 エレベーターの扉には銀メッキが施され、ちょうど鏡になっていた。だから、鏡の向こう側にいる化け物は、ランクトンのこととなる。しかし、あれが自分だろうか、と彼にはとても信じることができなかった。自分の頬を、そしてその輪郭を確かめる。怪物も奇妙な表情をして、頬を撫でた。間違いなく、その怪物はランクトンそのものだった。


 ただ、怪物とはいえ、恐ろしい爪を持っているわけでも、鋭い牙を持っているわけでもない。血まみれの頭に、閉じた瞳、そしてそのようなボロボロの状態であっても奇妙な笑みを浮かべている——これがDOGsの隊員にふさわしい態度だろうか? いいや、違うはずだ。平和を求めている「人間」が、このような極限の状況にあって、その状況に悦を見出すことはありえない。それでは、これはなんだろうか? そんな彼の疑問は次第に確信へと変わっていった。



「そうだ。これが俺だ。俺こそが畜生だ——なんてこった。俺を畜生と嘲るあの声は、俺の声じゃないか」


 自分が自分ではないような、そのような離人感に彼は襲われた。ゴーディに対して、根本的な解決を求めたのは、本当はまったくそんな気はなく、ただただ現場を混乱させたかったからではないだろうか。ジャック・ルイスリーの家で、アンセムの奴らに撃たれそうになっていたにもかかわらず、恐怖よりも笑みが先に浮かんだのは——決して生という歓喜を抱きしめたからではなく——生死を賭けた純粋なる闘争に打ち勝ったからではないだろうか。


 平和指数が九十八の……あの、限りなく平和に近かった世界に対して、形容しがたい嫌悪感を抱きながら、またその一方で現在のような混乱した社会に対して、憐れみや同情のような感傷に浸れたのは、つまりいくらか心を動かされたその理由は——俺が無意識のうちに暴力と混乱を求めていたからではないだろうか?


 突然、手が震えだす。寒気がしてきて、一刻も早く、どこかへ逃げ出したい気持ちに駆られる。けれども、その一方で胸の内に植え付けられた義務感がそこから撤退することを阻害した。


「待て、俺はジャック・ルイスリーをここで殺さなければならない……そう、殺さなければならん。殺して、カエサレアの遺骸を回収する必要がある。そして可能ならば、ブラフマを直接操作して、混乱状態の解消を——そうだ、俺が暴力を望むと望まざるとに関わらず!」


 彼は震える手でテーザーガンのカートリッジを再装填した。PDWは待機を命じる。頭の中にブリーフィングで見たような地図を思い描く。やらなければいけないことは単純だった。もう、これ以上ないほどにシンプルだ。サーバールームに乗り込み、そこにいるであろう敵を全員殺してしまえばいい。ジャック・ルイスリーの不健康な顔を粉々に砕き、周囲にいるだろうアンセムどもを蜂の巣のようなハニカム構造のように! 


 彼は目を見開き、獣のように背中を丸くして、エレベーターから降りる。周囲に目を配り、耳を研ぎ澄ます必要はない。彼には第六感がある。獣、畜生が持つ鋭い第六感がある。暴走した同調チャネルが彼に思考を流れ込む。思考が影となり、影がうごめいては色となる。


 ジャック・ルイスリーが仇敵ランクトンを待ち望んでいる。ランクトンはそれについて同調チャネルを介して理解することができた。サーバールームで彼が来る一秒一秒を、恐怖と期待、そして羨望と愉悦を携えて待っている。姿は廊下の向こう、そして壁の向こうに隠れているが、同調チャネルは彼の第六感となって知覚させる。まるで熱を感知するサーモグラフィーのように。


「くたばりやがれ、ジャック・ルイスリー。そこで待っていろ。法でも、銃でもなく、俺が殺してやる。悪魔め。俺は取り戻したぞ。凶暴な獣性を。俺の俺という姿を」


 ランクトンは口元を醜く歪ませて、そう呟きながら廊下を歩いた。彼の歩く後ろ、白い廊下には、ぽつりぽつりと血の痕が残る。ぼそり、ぼそりと先ほどのようなことをうわ言のようなことを繰り返しながら、彼は思念の流れ込む方目掛けてその足を動かす。腕は震えている。テーザーガンは彼の拳の中で硬く握られている。テーザーガンのフレームが照明を冷たく反射する。

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