第29話

「おはようございます」と自分のバディが視界の右隅に立っていた。ランクトンは自分の顔を触って、自分の存在を確かめる。目も鼻も口も、しっかりとそこにあった。


 体を起こし、周りをゆっくりと見渡すと、そこはランクトンの自室だった。彼は自室のベッドに横たわっている。部屋の中に散乱しているガラスは片付けられていた。それどころか、物の配置がいくらか変わっている気がする。


「散らかっていたので、掃除しましたが。不満でしたか?」


「……いや」


「ひどい顔をしていますね。ということは、あなたもやはり崩壊する電脳区域を無意識化で見せつけられましたか?」


「見せつけられた? あぁ、なるほど。あのイメージは挟み込まれたものだったわけだ。クソ、そうかウィルスだな。ジャック・ルイスリーは言葉の中にウィルスを仕込んでシィァンユェを殺したわけだ。いや殺したというよりも、壊した、というわけか?」


「落ち着いてください。ひとつひとつ確認しましょう。あなたは電脳区域からの脱出に手間取り、三日間、昏睡状態にありました。体に異常はありませんか?」


 ランクトンはベッドから起き上がり、一通り体を動かす。関節の中の空気が弾ける音がするが、特に異常は見られない。少々、疲れやすくなったくらいだろうか。


「三日か。送受信体の切り替えが不完全だったわけだ」


「えぇ、すみません。あの不安定な状況では、未来でも見えない限り、完全な切り替えは不可能でした。だから貴方の脳波信号はしばらく何処にもない場所へと送信されていたのです」


「受信は」


「はい?」


「送信についてはわかった。脳波信号の受信は何処からだ?」


「ああ、なるほど。それを説明する前に一つ説明を挟む必要があります。コーヒーでも淹れましょうか」


「ウチにそんな機械はないよ。安ビールがベランダにある。ポールフから貰ってそのままにしてあるんだ。消費してしまおう」


 そう言ってランクトンはしばらく沈思黙考する。カエサレアは彼の指示に従ってベランダに出る。コンクリートの床の隅にポツリと立方体の箱がある。


 箱の中には一ダースのビール缶が敷き詰められていた。彼女は一つ手に取る。外の空気に晒していたせいか、消費期限に問題はないことを確認すると、彼女はその箱を持ち上げ運ぶ。


「カエサレア。俺たちは敗北したんだな」


 何も映らなくなったディスプレイを見ながらランクトンは彼女に確認した。その声は何処かうつろで、彼女には今まで彼から感じていた覇気が抜け落ちてしまっているような気がした。


 彼女は缶ビールをランクトンに渡す。それから自分の分を開栓し、一口喉に通す。それは彼女にとって不味くも、美味しくもなかった。


「——ご存じの通り、世界中のほとんどの人間にはデバイスと同調チャネルを所持しているという共通点があります。科学によって拡張された六感目。それがジャックされました。


 彼はデバイスを通じて同調チャネルから、あの映像——電脳区域が崩壊し人々が呑まれ惨殺される映像——を『全人類に向けて』共有したのです。ランクトン、貴方が見たイメージは、おそらくそれでしょう。


 ランクトン、我々は彼の実力を認めなければいけません。彼の手法は複雑ですが、形容しがたいほど鮮やかです。シィァンユェから仮想空間を作り出す技術は、そのまま、ジョージ・ファーディによる洗脳へとつながりました」


「ジョージ・ファーディ? なぜそこでそいつの名前が出てくる?」


「彼はジャックの手先だったのです。アンセムではない者に対するインフルエンサーとして。アンセムが『アンセムで一つ』になっているように、シティの多くの住民が『ジョージ・ファーディで一つ』だったのです」


 あのスター、ジョージ・ファーディはジャック・ルイスリーによってプロデュースされた存在だと、彼女が大真面目な顔をして言うから、ランクトンは思わず目を丸くする。


「ありえない……いや、ヤツなら可能なのか?」


 ランクトンにとってそれは否定したい事実だったが、ジャック・ルイスリーと長年対峙し、この目で見た経験に鑑みれば、それはまったく不思議ではない。彼は人心掌握のプロだ。そうでなければアンセムという組織のリーダーではいられない。「クソ」と悪態をついてランクトンは酒をあおった。

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