第28話
ランクトンは夢意識の間にいた。自分の存在が保証されていないと思うほど存在そのものが希薄化していた。
ランクトンはスクールに居る。見なれたクラスルーム。左側から差し込む青い日光。ホワイトボードの上には「PEACE」と、それぞれグリーン、イエロー、オレンジ、ブルー、レッドで着色された文字が飾られている。
この言葉はたしか、クラス二十五人全員で話し合いをして決めたスローガンだった。とランクトンは回想する。誰もが異論を唱えることなく、スローガンはそこに落ち着いた。まるで、最初から結末が決まっていて、そこに引き寄せられたかのように。
そのスローガンが功を奏したのかはわからないが——クラス二十五人は平穏無事な一年間を過ごした。ひとつの諍いも喧嘩もなく。電脳区域のような暴力はもちろん、陰口やいじめなど一つもなかった。まるで一つの生物のように。
「どうして今までそのことを忘れていたのだろうか?」
彼はスクールでの記憶をまったく失ってしまっていた。彼の中にある思い出はDOGsに所属した後のことばかりだ。何か不満があったわけではない。何か疑問があったわけではない……そうだ、あの頃はジョージ・ファーディの野郎でさえも腹を抱えて笑えたり、感動できたりしていた、はずだった。
「みなさんは世界平和指数という言葉を知っていますか——」
教師が言葉を切り出す。ホワイトボートに青字で書かれたWPi(World Peace index)の三文字が、手元のデバイスによって同期され、映し出される。タッチペンが転がるが、誰も拾ってくれる気配がない。誰もが手元の薄い板に夢中になっている。
これが百になった時、それはすなわち、世界が平和になった時。昔は多くの国がそれぞれ戦争を行っていた。多くの人が死んだ。多くの血と涙が流された——もう、それはやめましょう。
そんなのは俺たちにとって常識だった。とランクトンは回想する。喧嘩や言い争いは世界平和指数を下げる一端になる。そうすれば猿の時代に遡行してしまう。それだけはしてはいけない、と教育されてきた。
「そして今も、俺たちは世界平和指数を上げるために戦っている。本当はアンセムとすら戦ってはいけない。しかし、武力には武力で対抗するしかない。アンセムとの闘争が最後に地球に流される血となるために、闘争するんだ」
混濁する意識の中で言葉を出す。しかし、その言葉には覇気がなければ重みもない。まるで誰から教えられた台詞をそのままなぞっているような気分だった——この価値観は誰に植えられたんだ?
ランクトンは突然、とてつもない孤独感に襲われた。目の前のビジョン——のどかだったはずの学生風景が瓦解する。瓦解の先には、脱出したはずの電脳区域が広がっていた。その電脳区域もまたマグマのように溶解し、氾濫し、破裂し、崩れ落ちる。
人々の悲鳴と転調し続ける音楽。溢れる光。目を凝らせば、そこには逃げ惑う人々がいる……なぜ俺はその光景を見ている?
ランクトンの視界は朦朧としていたが、意識だけはたしかだった。シィァンユェの屋敷から落下しながら、カエサレアはランクトンの脳信号の送受信体を切り替えると言っていたが——さすがの彼女とはいえ——それは至難の技だった。
外部からの手動操作で切り替えを行うには膨大かつ複雑な演算を求められる。落下となれば変数もそれに準じることになる。計算が狂えば、覚醒後の意識にも変調を起こす可能性があることは、様々な専門家が証明している事実だ。
だから目の前の光景も、そのような変調の一つに違いない。とランクトンは考えていた。自分の中のイメージが作り出した虚像。それはまるで科学が発展してから久しく忘れ去られてしまった自然災害のような荒々しさを持っている。原初のバイオレンス。純粋なるパワー。
崩れる建物に押しつぶされ、膨張するヌル空間に人々は飲まれていく。その隙間から人間の悲鳴と笑い声が混じり合う。
電脳区域による死は、現実の脳死に連結する。死に行く直前に気が狂ってしまう人間をランクトンはいくつも見た。しかし、普段は記憶処理とメンタルケアがされている。薬物を投与され、そういったことは深く考えることができなかった。だから、これは新鮮だった。心が抉れてしまいそうだった。ちょうど、初めて女の裸体を見た時のグロテスクさに似ている。
そんな地獄も長く続くことはなかった。覚醒が近いのだろうかランクトンの意識はゆっくりとブラーされていく。そして、混濁する意識の中、ランクトンは思わず背筋を凍らす。
「……人間の鳴き声だ」
声に出たか、出なかったか、それは誰にも定かではないが、彼はたしかにその言葉を思い出した。恐怖という純粋な獣性による感情。それが剥き出しになってランクトンの前に突きつけられている。
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