第27話
……あまりここにいるべきではない。と二人はアイコンタクトで打ち合わせる。この部屋の熱気と女の声は不快だったし、電脳区域に長時間滞在することは脳に多大なダメージを与える。
「ヤツは……お前に何を与えた? これは取引なのだろう。お前に何か得をするようなものを示さなければならなかったはずだ」
「ふふ、なんだと思う?」
「早く答えろ」
「この話のオチよ」
「オチ?」
「世界平和指数が百パーセントになることがない理由」
ランクトンは思わず目を見開いた。思わぬ場所でその言葉を聞いた意外性と、ジャック・ルイスリーが「世界平和指数が百パーセントになることがない理由」を知っていて、さらにそれを他者に伝える行為をする意外性で、普段は表情を表に出さないように努めている彼ですら、思わず動揺を覚えてしまった。
「その理由は、なんだ? なぜ世界平和指数は九十八で止まった?」
「教えるわけないでしょ。だってそれはあなたらが今一番求めているものじゃない」
「ふざけるなよ。DOGsにはそれを知る権利と義務がある」
「権利と義務はそっちの世界での持ち物よ。死者の国に生前の金が持ち込めないように、電脳区域に犬の権利なんてないわ。さようなら、マレビトら」
シィァンユェがそう言うと、二人をじっと見つめた。
カエサレアは、彼女が自分たちの位置情報を再び書き換えようとしているのだ、と理解する。
無限に繰り返される引き延しと膨張が起ころうとしている——これ以上、情報が手に入らないことは仕方がないことだ、と彼女は諦める。むしろ、これは一つの収穫でもある。
目眩。意識が暈されていく。回転する視界。酩酊するように。それはここに来る時とまったく同じ感覚だった。人間であるランクトンも、ここに来て「あぁ、ここまでだな」と悟る。位置情報の書き換えに備えるために、ランクトンはゆっくりと瞳を閉じようとした。移動前と移動先で光量が違えば目がやられてしまうからだ。
しかし、位置情報の書き換えは中断された。
突然ふっとクリアになる視界に、ランクトンは反射的に目を閉じる。生理現象だ。視覚神経の反応が追いつかなかったせいで、必要以上に目の中へ光を取り込んでしまった。
ランクトンはおそるおそる目を開く。目の前に広がる光景に彼は言葉を失い、口を閉じた。矯正も蒸し暑さも、それに付随する不快感も、光景の衝撃がすべてを奪い去ってしまう。
その代わりに、彼は風船爆弾を思い出した。幼い頃読んだ、古いカートゥン。悪役によって善良な市民の内側に爆弾が仕込まれ、体が破裂する。モラルやゾーニングのされていないそれは彼のトラウマだった。その時から彼にとって崩壊とは、破裂のことだった。
膨らみ。
膨らみ、膨らむ。端麗な顔立ちの少年は見る影もない。不気味な声が部屋の中に響く。凛としていたシィァンユェの声とは、誰も信じることができないだろう。肥大化した瞳が上下左右にぎょろりぎょろりと動き回る。
内側から力を加えられたそれは、もはや人の姿を留めることができない。
膨らみ、膨らみ、そして最後には破裂する。
その様子をランクトンは何も言わず見守っていた。まるでショーウィンドウの前に立つ子供のように、彼は魅了されていたのだ。シィァンユェが弾け飛ぶ、その様子を。
「ランクトン!」
事態を察したカエサレアは隣にいるバディの腕を掴み、部屋の外へ出ようと走り出す。ランクトンも彼女の声にハッとして、走り出した。もうすでに部屋の崩壊は始まっている。シィァンユェの崩壊はそのまま電脳区域の崩壊を意味している。
床が裂け、不夜の都市を二人は眼下に収める。都市はすでに分裂を始めていて、裂け目からはヌルが覗いている。
シィァンユェのいた部屋から投げ出され、仮想の重力加速によって、二人は天空を落下する。このまま都市へ落下しても、肉体が死ぬことはないが、脳が錯覚によって甚大なダメージを負う危険性があった。風を切る音が加速する。
「外側から強制的に送受信体の切り替えを行います!」
ランクトンは目まぐるしく変わる目の前の光景に脳処理が追いつかず、思考を半ば放棄している。カエサレアは舌打ちをしながらも、現実世界に存在する自分へと命令を出す。
バチン、と音を立てて二人の意識がブラックアウトする。
女王という柱を失った電脳都市は。音を立てずに崩壊していく。都市内部、何が起こったかもわからずに逃げ惑う人々、何が起こったかを理解することがなく、ヌル空間へと投げ出される人々。ラッパとともに訪れる終末を想起させる光景が広げられる。
空間は縮小と膨張を加速させ、その運動に飲み込まれていく人間の意識が死んでゆく。飲み込まれる恐怖と崩壊する大地。それは平和という言葉からは程遠い光景だった。
狂ったテンポで進行する、無名のタイプビートがその地獄を彩っている。
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