第25話

 体の修復を終えたカエサレアがランクトンの前に現れた。彼女の体は完全に元通りというわけではなく、注視すれば彼女の手が作り物であると気づくことが出来るだろう。外見はともかくとして機能の面では完全に復活した、とカエサレアは豪語する。


 しかし、彼女の意気込みとは裏腹に、彼らがこれから向かう場所は肉体とは完全に別離した世界だった。仮定することでしか存在を保証することができない世界。零と一の集合体。電脳区域。


 電脳区域へと入り込むのに、特別な準備は必要ない。デバイスに脳信号情報の送受信体の切り替えを設定するだけで、体を動かすための感覚は、電脳区域内に用意された自分のアバターを動かすために機能する。


「ランクトン、私はこの調査チームに配属される前はDOGsの情報チームとして活動していました。だから彼女らのことはよく知っています。忠告しますが、助力を期待するのは止めましょう」


「彼女らの異常性はよく理解しているつもりさ。肉体不要論者かつ、社会不適合者だ。けれどもことソフトウェアにおいては彼女らの右に出るものはいない」


「リスクが大きい選択です」


「けれど傷を負わなければ何も得られまい」


 そういうとランクトンはチェアーに腰を掛け、デバイスを取り出し操作する。脳信号情報の送受信体の切り替えを設定すると、彼は深い眠りへと着いた。それを追うように彼女は、渋々と脳波回線を並列で電脳区域へと接続する。


 人間の脳は現実世界上の自己と電脳世界上のアバターを同時に操作することができないが、アンドロイドである彼女にはできた。カエサレアは今、現実と電脳という二つの世界に同時に存在している——と仮定されている。


 カエサレアは電脳区域が「仮定」というものの上に成り立った不安定なものだと考えていた。だからこそ、そこを生活拠点とする人間のことを、同じ倫理観を備えた人間とは思えなかったのだ。


 目を開けるよりも先に、芸術的価値観の欠片も感じることのできないビートが彼女の耳に入ってきた。ノイズ。そのビートは電脳区域上で違法に生活するフローターのプログラムによって二十四時間無休で制作し続けられるものだった。制作されたビートは過去に実在したアーティストの名前が付けられ、持て囃され、飽きられ、忘れ去られる。


 視覚を解放すると、レンガ造りの高い建物、針のように鋭く伸びる屋根、絢爛なネオンライト。慌ただしく道を歩くフローターが見えた。 派手なライト、爆発のような音量で流される音楽、エログロナンセンスな電子広告、ドラッグとヒップホップ。遠くでは喧嘩の声が聞こえる。彼女の居た場所でもあったのだろう、足元から微かに血の香りがする。


 電脳区域では喧嘩が絶えない。ネットワークの交流はしばしば心の交流と混同されるが、それは自然なことだという結論に至っている。なぜならば、この二つは肉体というテクスチャーを無化して行われるからだ。鎧を着ずに戦争へ向かえば深傷を負うように、肉体という鎧を捨てた世界では人間が傷つきやすい——そして、その傷は再び闘争へと駆り立てる興奮の誘因となる。


 遠くで聞こえる喧嘩の音にはそのような理由があった。


 二人が立っている場所はステーションと呼ばれていた。電脳区域にアクセスすれば、一番に飛ばされる地点がここだからだ。


「やはり、ここはあまり好きません」とカエサレアは短く言った。


「その気持ちは分かるよ。ここは完全に閉じた文明だからな」


「そして救えないほどに自慰的です」


 二人は哀れみの目で世界を見た。

 この街は二十一世紀に存在したとされる帝国主義国家を再現したものだ、とここで暮らす誰もがそのように認識している。


 しかし、目の前に広がるような光景を持った都市が、過去に存在したことはない、ということを彼女は知っていた。二十一世紀にそのような都市はない。データと歴史的事実がそれを証明している。


 ではこれは何たるか、というと彼女はそれをレガシーの寄せ集め、あるいは形骸化したノスタルジー、あるいは過去の良き面だけを抽出した理想都市、あるいはミームと結論付けた。


 ランクトンがディスプレイとジョージ・ファーディを嫌うように、カエサレアもまた成長と発展の競争を放棄したこの電脳区域に失望と不快感を覚えている。


 都市を彩るビートが加速する。加速して誰にも理解できない音楽となる。それは不協和音を包括して二人にめまいを起こす。


「おい」


 奇妙な四つ足動物のようなアバターが、二人を見上げて話しかけた。それは巨大な狐のようにも、なめらかな曲面を有した木馬のオブジェのようにも見える。


 電脳区域上に定義される「自己の姿」は必ずしも人型である必要はない。むしろ、一部の過激な人間は、人の姿から離れることを素晴らしいとまで褒め称えた。なぜならそれは「人間という器からの解放」だからだ。


 人間の姿を極限まで模して造られたカエサレアとは、奇しくも対極に位置するのがフローターである。それを理由に彼女は生理的な嫌悪感を覚えているのかもしれない。ランクトンは四つ足の男を見ると、自分のバディに対して、ふとそのように考えた。


「ステーションでぼうっと突っ立って何してんだよ、ノーミーズ普通野郎。……いや、アンタら世界政府の犬畜生じゃねえか。こんな世界の外れに何の用だよ。取り締まりに来たのか?」


 その男は汚いスラングを使って二人を罵倒する。たしかにここは世界から外れた場所にあった。世界平和指数の計算値に電脳区域が干渉することはない。ブラフマによって管理されているわけでも、観測されているわけでもないからだ。だからこそ電脳区域に深く入り浸っている人間であればあるほど、彼らはDOGsを嫌悪した。

 

 ここまで自分たちを嫌悪し、このようなアバターで生活しているこの男ならば、彼女の居場所を知っているかもしれない。とランクトンは考える。


「シァンユエは何処にいる?」


「シァンユエ? 違うね、正しい発音はシィァンユェだ」


「うるさいぞフローター。彼女は何処にいる? 早くしろ。俺たちは、その気になればお前らを何時でも逮捕できるんだ。見逃されている立場ってことを忘れるな」


 それを聞いた四つ足の男は舌打ちをし、それからデバイスを操作し、彼らを弾き飛ばした。二人は重力を失い、脳がシェイクされるような感覚に襲われる。


 ランクトンには何が起こったかわからないが、カエサレアには理解することができた。四つ足の男が自分たちの位置情報を書き換えたのだ。二人の自意識は無限に繰り返される引き延しと膨張によってぼかされた。

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