第17話

 光に包まれていた雪原と打って変わって、室内は夜のように暗かった。何かが濃い影に隠れている。おそらくそれは家具だと思われるが、彼にはわからない。


 慣れない木と埃の匂いに、彼は思わず顔をしかめる。一度目を閉じ、耳を澄ますが、室内には誰もいないようだった。あるいは、ひっそりと息を潜めて、機会を伺っているのか。


「灯りを点けろ」とランクトンはこの部屋のルームシステムに命令する。しかし、返答の代わりに沈黙が突きつけられた。


「システムが死んでいる」


「いいえおそらく……初めから搭載されていないのかと」


「搭載されていない? ルームシステムがない住居ということか?」


 カエサレアは頷く。あまりにも住居が古すぎるのだ。ランクトンは仕方なく、手持ちのライトを起動する。光は闇を照らし、その正体を明らかにする。彼は自分がペーパーブックの中に入り込んでしまったかのように錯覚する。


「これは……すごいな」


 遺跡と呼ぶべきかもしれない、とランクトンは思った。雑多に配置されたモチーフの数々、アナログアート、書物、どれもこれもディスプレイの向こう側か、情報としてしか知らないものだった。


 ここがジャック・ルイスリーの生家に違いない、と判断したのは、軋む階段を登り、二階の個室を調べた時だった。そこもリビング(と思われる場所)のような造りになっていたが、彼はその一つ一つの小物に既視感を感じていた。


 七連結のニュートンのゆりかご。逆さまのセフィロト。伏せられた壁掛け時計。カエルの解剖図。そのどれにも、数式のようなものが書き込まれている。この部屋は数式の部屋だった。まるで精巧な機械の基盤のように、数式が書き込まれている。これが人の手で行われたのならば、それを行った人間は凄まじき業を抱えていると、ランクトンは感じた。


「カエサレア、これは?」


「その説明より先に、天井を見てください」


 ランクトンは自分の肩越しに彼女を見る。そして視線に誘導されるまま、天井を見た。天井にも数式が書かれていた——そう、気づくよりも先に、赤字で書かれた文字に目を奪われる。彼にはそれが読めないが、そこには怒りと悲しみが込められていることを感じさせるような、凄みのある文字だった。


 現地語で『嘘だ!』と書かれています。と、カエサレアは説明した。彼はそれを黙って見上げていた。もしこれがジャック・ルイスリーの書いたもの、いや彼の吐き出した「むき出しの感情」ならば……と考えると、彼は共感を覚えた。そして共感を覚える自分に恐怖した。


 ——俺は今、いったい何に共感した? 奴のどこに?


「カエサレア、これは一体なんなんだ?」


「ジャック・ルイスリーは世界平和指数の値を調べたかったようですね」と言って、しばらく黙った。真剣な眼差しの数式を睨んでいる「……彼が恐ろしい」とポツリつぶやいた。


「恐ろしい? 世界平和指数の値を調べるだけで?」


「『正確な』世界平和指数の算出式とその定義は政府から機密情報に指定されています。にもかかわらず、ほとんど正確に予測している」


「ちょっと待ってくれ。言葉が不足しすぎている」


「長さも条件も一切提示されていないのに、四角形の面積を求めてしまったようなものですよ」


「……よくわかった。その例え、流行っているのか?」


 世界平和指数の算出式の公式は秘匿されている。概要については知ることができるものの、正確な値を求めることには至れない。正確な式を知っているのはブラフマAIだけだと彼女は説明する。


「問題を作成することと、問題を解くことのいったいどちらが難しいのか、それについては判断し兼ねますが、少なくとも彼は、ブラフマAIの作問を解いてしまったことに——」


「——そう、彼は解いてしまったんだ。ランクトン」


 突然の第三者がカエサレアの言葉を遮ったことに気付いてから、ランクトンの行動は速かった。ホルスターに手を伸ばし、テーザーガンを取り出す。そこまでの行動は迅速そのものだったが、一つの判断ミスを犯した。ガツン、と前頭葉に衝撃が走る。殴られた、と気づいた時には肩を掴まれている。ランクトンは動きが阻害され、テーザーガンを構えることができない。


「間違えたなランクトン。ここは戦場ではない。あんたが銃を抜いて構えるまで、相手が棒立ちでいるとは限らないことを、念頭に入れておくんだな」


「だまりやがれ、畜生め」


 男は足音もなく二人の前に姿を現した。身長は高く、雪に紛れるような白い服を着ている。男はランクトンからテーザーガンを取り上げるように手を伸ばす。


 自分目掛けて伸びてくる手に対して、ランクトンは身をよじってそれを躱すが、背負っているカエサレアが動きの邪魔になって、呆気なく奪われてしまう。

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